020.壁際で眺める夜会
祖母の店に来ていた令嬢たちがベリル中の貴族が集うだろうと言っていた通り、大広間には尋常でない数の人間が集っていた。
その人々……老若男女それぞれに着飾っているのだが……特に、若い娘や夫人は化粧にも凝り、孔雀も驚くほどに色鮮やかで豪奢な衣装を身に纏っている。
アナベルの目の前に広がったのは、これまで出席してきたパーティとはまるで異なるものだった。
広大な壁面には、神々の世界を表す壮大で美麗な絵が描かれている。柱は巨大な大理石であり、神や女神、勇者や聖女などが彫刻されていた。
そして、黄金と白銀で幾何学模様を形成している天井。そこからたくさんの大型シャンデリアが吊られ、会場内を真昼の様相にしている。
これが個人の誕生日の祝いなのかと、アナベルは度肝を抜かれて呆然とした。
「アナベル?」
「え、あ……すみません」
ジャンから怪訝に名を呼ばれ、はっとする。立派な会場と人間の数に圧倒されて、知らぬ間に立ち尽くしてしまっていた。
「人が多くて驚いたかい?」
柔らかな目をして案じてくれるジャンに、アナベルは小さく笑って頷いた。
「大きな会とは思っていましたが、想像以上で……」
どうやら今宵の会は立食形式のようで、人々は食事と歓談を同時に楽しんでいる。
音楽隊による心地良い楽の音も場内の華やぎに一役買っていた。
中央に大きく開けられた空間では大勢の男女が調べに乗ってダンスを楽しんでおり、その優雅な光景に、まるでおとぎ話の登場人物が訪れる舞踏会にでも紛れ込んだかのような心地になる。
「まずは、あまり人のいない壁際から会場内を見物しようか。そうすれば、少しずつ慣れられると思う」
言葉通り、ジャンは人が多い中央部に行こうとはせず、比較的静かそうな壁の方に歩んでいく。
アナベルは、もちろんその考えに否などない。
「……先程の話を聞いて思ったのですが、では、セインは二十五歳くらいまでは今と異なる体型だったのでしょうか?」
案内に従いながら問うてみた。
呪いの攻撃が来たのがそれくらいと聞いたので、ちょっと気になっていたのだ。
「そうだよ。あいつ、甘い菓子がすごく好きなのだが、母君様がそれを食べる条件として身体を動かすことを命じていたからね。それに、本人も剣術が好きということで鍛えてもいたから……。あの呪いにかかるまではマーヴェリット家の貴公子様とか呼ばれて、夜会場ではいつも女性が山のように集っていたなあ」
過去を懐かしむような目をして楽しげに語るジャンに、やっぱり、とアナベルは思う。
セインは顔のパーツはとてもいいし、背も高い。痩せれば美青年間違いなし、と想像していたが、想像通りだったわけだ。
これでは八年前の姿を覚えている令嬢は、ますます諦めるはずはない。
「しかも聖獣飛竜がいつも肩にいる。心根の美しい人間ということが保証されているわけだ。それで、国一の名門貴族の継嗣。令嬢たちが放っておくはずがない」
「そうですね」
滅茶苦茶優良物件である。
「だけどねえ、あいつは選り取り見取りのくせに……ご両親様や縁戚たちがどんな名家の令嬢を勧めても結婚を考えようとはしなかった。その言い訳に必ず使っていた、陛下にお子ができるまでというのも確かに理由の一つなのかもしれないが、あいつ女性に夢を見ているんだよ」
「夢?」
心惹かれる人がいなかった、とアナベルにも言っていた。
それに関することなのだろうか。
「その話をセインに聞いた時、集う中には夢を叶えてくれる令嬢はいないだろうなと思ったし……だからと市井の娘を探しても難しいのではないかと思ったのだが、君なら叶えられるかもしれないな」
自分だけで納得し、ジャンは満足そうにうなずいていた。
「私がですか?」
知りもしない夢を叶えると言われても理解できず、アナベルは首を傾げた。
「いずれセイン本人に聞いてみるといいよ」
優しい声音ではあるが、それ以上は語るつもりはないと雄弁に物語るジャンの言葉だった。
気になるものの、しつこく問い質しても無駄だろうとその横顔に感じ、アナベルは話題を変えることにした。
「ジャンはセインよりも、年が下ですよね……」
見た目だけで判断するならばセインは三十代には見えないので、二人は同い年くらいと言ってもいいのだが、実際はセインの年齢は三十三歳だ。
だが、ジャンはどう見ても三十代には見えない……。
「そうだよ。私は二十八だ。……主のセインは五歳も年上。しかも公爵で宰相閣下でもある。そのような人間にいくら幼馴染みだからと、敬語を使わぬ私を不思議に思っているのだろう?」
面白そうに片目を瞑ってこちらを見たジャンは、アナベルの抱く気持ちを正確に読み切っていた。
「余計なお世話とは思いますが……すみません」
セインとジャン。二人にしかわからない取り決めがある。と思っても、つい気になってしまったのだ。
正直にうなずいたアナベルに、ジャンは不愉快そうな顔こそしなかったが、困ったように眉を下げた。
「私も、どうしてセインが許してくれるのか、正直よくわからないのだ」
「え?」
まさかの言葉だった。
ぽかんとするアナベルに、ジャンは面白そうに笑った。
「私は両親に連れられて五歳の時に初めてセインに会った。そこで、向こうから友人になってほしいと言われた。……私はマーヴェリットの縁戚の子供だ。だから、セインの言葉は社交辞令だろうとは思ったのだが、公爵家の跡取りと友達なんて遠慮と追従ばかりで鬱陶しいとしか思えなくてね。正直に面倒だから嫌だ、と答えた」
「それはまた豪気な……」
いくら五歳の子供であっても、挨拶に行く前にジャンの両親は相手の身分を伝え、失礼のないようにと丁寧に教えただろうに……。
「もちろん両親に笑って許されるようなことはなく、父からは思いきり拳骨を食らい、母には尻をこれでもかと抓られた。楽しげに笑っていたのはセインのご両親の方だったかな……」
ジャンの両親の反応は当然のものだと思う。
息子の発言に、さぞ慌てたことだろう。
「公爵様と奥方様には叱責されなかったが、面倒などと答えた私はセインの不興は買ったと思った。以後相手にされないと考えていたのだが、なぜかセインが側に呼ぶのは私ばかりだった。他にも大勢挨拶しているはずなのだが、誰も友人にはしなかったのだ。そして、遠慮しなくて構わない、というのがあいつの口癖でね……だから遠慮しないまま今となっていると……」
と言って、ジャンは苦笑した。
アナベルは話を聞いているうちに、なんとなくわかった。
セインは、公爵家の跡取りという名に惹かれなかった、その名を目当てに友人となりたいと追従を一切述べなかったから、ジャンを気に入ったのだ。
「まあ、セインが怒らないぶん、きゅきゅに怒られるのだがね。 【少しは遠慮しなさいよ! 女の人をとっかえひっかえというのも嫌いよ。不潔っ!】 と怒鳴ってばかりで、ちっとも懐いてくれない」
はは、とジャンは少し寂しげな笑い声を響かせたが、それは仕方がないだろうな、と思ってしまい同情できないアナベルだった。
「そろそろ……少しは会場の雰囲気に慣れてきたかい? ダンスの素養があるなら相手を務めるがどうする?」
アナベルを見て、中央の方にも目を向けたジャンに首を横に振る。
ジャンにはダンスの素養のない一般市民と思われているのだろうが、アナベルは貴族の娘としてどこの会に出ても恥ずかしい思いをしないようきちんと習得している。
しかし、この場には踊りに来たわけではない。無理にダンスを踊らなくとも、このまま壁際にいて人々の様子を見ているだけで、充分場の雰囲気に慣れられる。
その時。こちらに向かって複数の令嬢が足早に寄ってくるのが見えた。
「ジャンさま~~!」
令嬢たちから一斉に上がった愛らしい声に、アナベルは何事だろうと目を瞬いた。
咲き誇る花のような令嬢たちが、ずらりと目の前に勢揃いする。
「このような隅にいらっしゃるとは……」 「お探しいたしましたわ!」 「今宵は、ジャン様のお顔が見られると思って、楽しみにしてまいりましたのよ」 「私と踊ってくださいませ!」 「いいえ、私とですわ!」 「何を言って、私よ!」 「あなたたち全員よそに行ってくださらないかしら!」
続々と、ジャンに向かって声がかけられる。
美人だったり可愛かったりと、魅力あふれる令嬢たちはみんなジャンとお話ししたり踊りたいようだ。
他の者達を懸命に追い払おうとしている令嬢たちの戦いに、ジャンは参ったなあと口では言いつつも目じりが嬉しそうに下がっている。なんだかとても楽しそうに見えた。
にやついたその横顔に、女に見境がない、という言葉を思い出した。
アナベルは胸の奥がもや~っとして無性に嫌な気持ちになった。きゅきゅが非難する気持ちがわかる。思わずじろりとジャンを見据えてしまった。
すると、令嬢の一人がアナベルの存在に注視した。
「あなたは? まさか、ジャン様のパートナーなのでは……」
誰だと素性を問いながらも、早々に敵と見做して睨みつけられる。
「とても美しい装いですが、どちらの方なのでしょう?」
「拝見したことがございませんわ……」
敵扱いの上に探りが入ってくることにも、アナベルは心の内で肩を竦めた。
「私はジャン様と何の関係もございません。たまたまこの場でお会いしまして、少しお話しさせて頂いたに過ぎない身です。どうぞ、私のことなどお気になさらず、ジャン様とダンスをお楽しみくださいませ」
一礼してこの場を離れようとする。
ジャンを巡って女の諍いに巻き込まれるなど冗談ではない。
「アナベル。それは……」
セインにアナベルのことを頼まれているからだろう。ジャンが困った顔をして引き止めようとするのに、口角をあげて笑んだ。
「子供ではありませんので、一人で会場内を歩くくらいできます。私は大丈夫ですので、早く令嬢方の手を取ってあげてください」
「本当に、良いのかい?」
申し訳なさそうな顔をするジャンに、アナベルは笑みを深めた。
「まったく問題ありません。どうぞどうそ。ですが、全員ときちんと踊って喜ばせてあげてくださいね。セインの祝いの夜会なのですから、もめ事は駄目ですよ」
ドン、と突き飛ばすようにしてアナベルはジャンを勢いよく令嬢たちの前へと押し出した。
そのおこないに、令嬢たちは呆気にとられた様子で、ポカンとしてアナベルを見た。
ジャンを巡って戦うどころか、差し出してくるとは思いもしなかったというところだろう。
「それでは、ごきげんよう」
アナベルは令嬢たちにしつこく素性を問い質されないよう、素早く背を向け早足にその場を離れた。
誰も自分を呼び止めないことに安堵しつつ、気付かれないようちらりとジャンと令嬢たちの様子を盗み見る。
すると、ジャンは令嬢たちに諍いを起こさせないよう、うまく全員の相手をしながらダンスの輪の中に誘っていた。
「さすがは女好き……女性の扱いがとてもうまいのね……」
ジャンは見目麗しい好青年であり頭脳明晰だ。
しかもマーヴェリット家の縁戚でセインの側近ともなれば、令嬢方にとっては優良物件なのだろう。
が、アナベルは何人もの女性と同時に付き合えるような男はお断りだ。
自分だけを見てくれる人がいい……。
と思った瞬間、ぽん、と脳裏にセインの顔が浮かんでしまい、顔が熱くなってしまう。
「まったく、人が多くて暑いわね~」
誰も何も聞いていないのに、そんなことを口にして誤魔化しながら自分の手で顔をパタパタ扇いだ。
壁際に添って移動し、誰の邪魔にもならない場所を見つけて歩みを止める。
その場に佇み、セインはいつ会場に入るのかしら、とぼんやり考えながら会場を眺めていると、非常に嫌な気配を感じた。
「アナベル?」
「……ブルーノ……」
酷く驚いた表情で目の前に現れたのは、二度と顔を見たくない男だった。