169.母の愛
「王宮からの帰りに、偶然町で叔父と再会したのです。話を聞いて、どうしてももう一度あなたに会って頂きたくて……」
席を立ち、困ったようにこちらを見ているセインの前でアナベルは微笑む。
「……」
「本当に大丈夫ですよ。私、叔父のことを恨みになどまったく思っていませんから」
「私がカウリー家と関わりを持てば、妻となる君は無関係ではいられなくなる。こちらの都合で君にいやな思いを味わわせたくない」
苦しげに声を発し、セインはちいさく首を横に振った。
アナベルは、その右手を両手で包むように握る。
「セイン。私はカウリーの地を離れましたが、叔父夫妻とはいがみ合っていません。叔父が自身の後継者として王家に届けている息子、アーネストはブルーノとは真逆の人間です。私を嫌っていませんし、私も彼のことは嫌いではありません」
「カウリー伯爵の、もう一人の息子は嫌いじゃないのかい?」
セインが、もの凄く驚いた顔をしてアナベルを凝視した。
「はい。さほど多く話したことはないのですが、母の血筋を厭わない物静かで穏やかな彼がブルーノだったら、と思ったことがあるくらいです。ですから安心してください。セインがカウリー家と親しく事業をしたとしても、私はいやな思いなんて少しも味わいません」
過去を思い出し、はにかみながらも思いを伝えると、彼は慌てたようにぎゅっとアナベルを抱きしめた。
「私は牢で言ったとおり、あの男に本気で感謝しなければ……」
「セイン?」
肩口に顔を埋めるようにして深々と息を吐いている人に、きょとんとする。
「きみには申し訳ないが、カウリー家の長子がそのアーネストという人物でなくて良かったと心より思うよ」
セインがアナベルの手をそっと握る。
そのままソファのほうへと移動するのに、もちろんついていく。
「確かに……アーネストがもし兄だったら、ブルーノがかなり苛めそうな感じはしますね」
死者を悪く言いたくはないが、出世の邪魔だと言ってはアーネストが大人しいのを良いことに、蔑ろにして陰険なことばかりしている姿が目に浮かんでしまう。
事実、アナベルは両者が仲の良い兄弟であったとは聞いたことがない。
「そういうつもりで言ったのではないのだがね」
「?」
苦笑しているセインにアナベルは首をかしげるも、促されるとおりにする。ふたり並んで、テーブルを挟んで叔父の正面となる席に着く。ジャンは右隣にある一人掛けのソファに座っていた。
「セイン。私はカウリーにある薬草を本当にただの野草としか思っていませんでした。それは亡き父も同じです。ルード侯爵家だけでなく、セインまで専売権を求めている薬草と知ってただ驚くばかりです」
かわいい花だ、と喜ぶ父と共に眺めるだけの物だった。
薬草として使用するなど、まったく考えたこともなかった。
「カウリーにあるそれはね『大地母神の恵み』と呼ばれる、人の手で栽培するのはほぼ不可能と結果の出た、薬草の中でも貴重種だよ。私は、母や王太后様の薔薇たちよりも何倍も価値は高いと思っている」
「薔薇よりも……」
セインの説明に、プリシラの薔薇や公爵夫人の温室の、女神のごとく美々たる薔薇たちの姿が脳裏を過ぎる。
「磨り潰して傷口に塗れば血止めに絶大な効能を発揮する。殺菌作用も高く、重傷であっても極めて早い治癒をもたらす。最新の研究では乾燥させた葉を煎じて飲むことで解熱効果が、花には滋養が豊富に得られると発表された」
「そこまですごい薬になるのですか?」
あまりにとんでもない情報に、あんぐりして身体まで固まってしまう。大地母神の恵みなどという、神聖を帯びた名が付けられているのも納得である。
「世界中で求められている物であるのに、滅多な者では辿り着けない危険生物の多発する秘境で採取するしかない。冒険者頼りのとても得がたい薬草なのだ。それが、なぜかカウリー領にはたくさん自生している」
「叔母が庭を造ったことで、それを大勢が知ることになったのですね」
そして、侵略騒動にまで繋がっている。
暗雲垂れ込める現実に、アナベルは肩が落ちた。
「どのようにして父君は枯らさずに育てていたのか、栽培法を何か聞いているかい?」
真剣な目で、セインからも叔父同様に問われる。
皆の目が自分に集まっていることに、ごくりと唾を飲み込んだ。
「父は特別なことはなにもしていません。あの花がカウリーの地で咲いているのは母の愛なのです」
「母の愛?」
全員からオウム返しされ、苦笑する。
「研究されていると聞きましたのでセインもご存じかと思いますが、あの花はとても気むずかしいのです」
「そうだね。どんなに丁寧に世話をしても、理由なく萎れて枯れる。土を厳選しても根付こうとしない。厄介すぎると研究者たちを大いに嘆かせているよ」
アナベルと同じく苦笑して、セインが相槌を打った。
「父もそんな感じで、私としては気の優しい父が行商の口車に乗せられて、まともに咲かない花の種を押し付けられたとしか思えませんでした」
「行商?」
不思議そうな顔を向けられて、こくりとうなずく。
「私が四歳くらいの時だったと思います。世界の秘境を旅していると言う商人が訪れて、父に花を見せたのです。父は『皆の好む薔薇の華やぎよりも、私はこの可憐な野草にミーナを感じる』と、とても気に入りました。すると商人は種もあると勧めてきたのです。植えて増やせば楽しいですよとの言葉に父は喜び、言い値で買い取りました。とても高額な花と種でそれにはひどく驚いていましたが……」
ミーナというのは母の名です、と締めくくった。
母を懐かしみ、やさしい眼差しで自ら手入れをしていた。花の面倒を一切家人に任せず、丁寧に愛情を込めていた父の姿がアナベルは大好きだった。
「それは高額だろうな。あの花や種を売る行商など滅多に存在しないよ。すごい者が訪ねてきたのだね。うちにも売りに来ればいいのに……」
物欲しそうにぼそっとつぶやいたセインに、そんな場合ではないと思いつつも笑みが零れてしまう。
「父は種を植えて懸命に世話をしましたが、なかなか芽が出ませんでした。やっと出たと思ってもすぐに萎れるばかりで……。私は、父が母との思い出を語りながら楽しそうに育てているのに萎れるのが悲しかった。ましてや枯れたのを見て嘆く姿も見たくなくて、育ってほしいと一生懸命祈りました。その頃の私はまだ魔法が上手く使えなくて、ただ祈るしか出来なかったのです」
アナベルがそこで言葉を切ると、セインが愕然としていた。
「思い出を語る父君……魔法使いの君の懸命な祈り……そして母の愛。もしや、君の祈りに応えて天の国から母君が現われてくれたのかい?」
「その通りです。生前の母は魔法使いではなかったのですが、父と私が花を見て前向きに生きられるようにと、天の国から最初で最後の魔法を使ってくれたのです」
花壇に降り注ぐやさしい黄金の光。父のしあわせをひたすらに願う母の一途で深い愛情に、どれほど感激したことか。それは言葉で言い表せるようなものではない。
「そんなことが……」
皆が呆然としている中で、アナベルはちいさく笑む。
「花は順調に成長するようになり、種が落ちて新たな芽が出て自然と増えていきました。少々のことでは枯れない強さを持ち、可憐に咲いて常に父の目を喜ばせてくれたのです」
両親の亡くなった今でもきっと、屋敷の庭と特に両親のお墓の周りは、この花でいっぱいのはずだ。
「天の国から魔法なんて、さすがは偉大な魔法使いの母君だ。マーヴェリットであっても栽培に失敗ばかりのあの薬草が、どうして研究しているわけでもないカウリー伯爵領にだけ根付いているのだと思っていたが、そういうことだったのか……」
謎が解けたとスッキリした様子で快活に笑っているジャンに、アナベルはちょっと眉根を寄せる。
「私は偉大な魔法使いなんかじゃありませんよ。繊細な魔法は苦手な、ちょっとだけ便利な魔法使いです」
「では今噂の、陛下のお身体を健康とした偉大な魔法使いというのは、本当にアナベルのことなのだね?」
叔父がどこか興奮しているような顔で、こちらをまっすぐに見ていた。
「偉大というのは違いますけど、領地のほうでは黙っていてすみません。花のことも、まさかそんなに重要な薬草とは知らず、そのせいでルード家に領地を狙われるようなことになってしまって……」
父と母の想いのこもった花なので悪くは言いたくないが、争いの種になってしまったことは、やはり申し訳ない。
膝に頭がつくほど深く腰を折ったアナベルに、叔父は怒声ではなく歓声を上げた。
「陛下の治療を成し遂げた魔法使いは500年振りの奇跡とまで呼ばれて、皆に讃えられているのだよ。それがアナベルだったなんて素晴らしい!」
「え?」
「カウリーに魔法使いの血は流れていないから、ミーナさんの血筋が魔法使いだったのだね。ああ、我が息子ながら、ブルーノはなんてことをしてしまったのだ。大事にさえしていれば……」
「……」
魔法使いと知ったからアナベルの存在を惜しむ。
叔父の、掌を返して愛息子であった人を非難するその態度に、それが世間の魔法使いに対する評価だと知りつつも、どうしても苦い笑みが浮かんでしまう。
領地になんてことをしてくれたんだ、と叱られたほうがマシだ。
『金銭で契約した相手に魔法を目当てにされるのは平気だ。だが、そうでない相手にも都合の良い道具としか見て貰えない。それはなにより悲しく虚しいことだよ』と寂しげに微笑んでいた祖父の顔が脳裏に蘇る。
アナベルが暗鬱な心地で俯き掛けたその時、膝にある右手があったかい手に包まれていた。
「!」
やさしく握ってくれる大きな手に、言葉はなくとも心が慰められる。うれしくなって隣のセインへ顔を向けた。手と同じくあったかい眼差しで自分を大切に見つめてくれる人に、アナベルは目を細める。
「領地を狙われるとはずいぶん不穏な物言いだな。伯爵はルード家と契約して薬草を売るだけではないのか? うちが手を引いたら、おそらくそうなるだろうと私は報告を受けているのだが……」
ジャンが訝しげに叔父に問う。
アナベルはルード家の名前に右眉がぴくっと震えた。叔父も興奮から一転、泣きそうな顔になって首を大きく横に振った。




