131.毒呪の剣の攻撃
『光、集え! 視界を阻むこの靄を……痛っ!』
まずは視界を悪くしている黒い靄を消そうと魔法の使用を試みる。が、呪文の途中で激しく頭が痛み、最後まで唱えきれなかった。
「アナベル。無理をしてはいけない」
「私、陛下の治療に力を使いすぎました。セインの盾の魔法まで効果が切れてしまっています。こんなところにいては駄目です。早く、セインだけでも逃げて……」
魔法が唱えきれなかったことで、最悪なことまで知った。
アナベルは焦ってセインを扉のほうへと押した。
「駄目だアナベル。この扉は開かないようにされている」
「そんな……」
ジャンに教えられたアナベルは、ならばとセインの前に立つ。
ナイフは別人が投げた物かもしれない。
だが室内を覆う不気味な気配は、ブルーノを捜索する時に感じるものと同じだ。
絶対に、彼は姿を消して自分たちを狙っている!
セインに一筋の傷もつけないために、アナベルは両腕を広げ、自身の身体を盾にした。
「駄目だよアナベル。そんな真似はしなくて構わない」
「セイン……ぁっ!」
セインがアナベルの肩に手を置き、自身の後ろに下がるように強く引いた。
疲れ切っていて踏ん張りのきかないアナベルは、よろけてしまいその通りに下がってしまった。
「ブルーノ・カウリーよ。おまえがラッセル侯爵の犬となったのならば、アナベルではなく私こそが邪魔なはずだ。侯爵を破滅させる証拠は私が持っている」
反応はない。
それでもセインは、黒い靄に向かって声を掛けるのをやめなかった。
「ここで私を殺せなければ、私はおまえもラッセル侯爵も必ず断罪する。手心は一切加えない。ベリルに存在を残すなどしないぞ」
セインの冷酷な声が、重々しく室内に響き渡る。
自身を狙わせようとしているその声に、アナベルの焦燥は募るばかりだった。
「セイン、駄目です。私の後ろに下がって……」
自分の背後にいてほしいのに、その身体はどんなに引っ張ってもびくともしない。
魔法の使えないことが歯がゆくて堪らなかった。
「ちっ! 豚が、生意気な。小さくなって死の恐怖に震えていればいいもの……」
忌々しげに舌打ちが聞こえた。
「やっぱりブルーノ……」
聞き覚えのある声音に……やはりこの部屋のどこかに潜んでいるのだと確信する。
セインが堂々と立ち、少しも攻撃を恐れないことに、かなり苛立っているのがひしひしと伝わってきた。
アナベルは、なんとかブルーノの立ち位置を掴もうと目を凝らす。
少しでも気を抜くと目蓋が落ちて眠ってしまいそうだったが、ここで眠ればすべてが終わる。
悲惨な結末を回避すべく、必死で気力を奮い立たせた。
「姿を消していないと、私は襲えぬか? 野心家だとアナベルに聞いたが、影から人を襲うことしか出来ぬ卑怯者は、大成せぬよ。矮小なる者の行く着く先は惨めな死だ」
セインがブルーノを挑発しあざ笑う。
「!」
アナベルから見て右奥で、不気味な気配がググッと大きく膨らんだ。
「最高の貴族に生まれた苦労知らずの豚が、偉そうにほざくな! 私の武器でこの世から永遠に消え失せろ!」
猛火のような殺気と憎悪が、セインめがけて真っ直ぐに突っ込んでくる。
アナベルは、後ろにいなさいと自身の背後に隠そうとするセインの手を掻い潜り、その前に飛び出した。
「セインは絶対に殺させない!」
ブルーノを捕まえる魔法が使えないなら、自分の身体を使うだけだ。
アナベルはセインに毒呪の剣が触れるより先に、その間に割って入る。
「おまえは邪魔だ。目障りな女め!」
ブルーノの怒声と共に、毒々しい血色の刃が、アナベルの身体を深々と刺し貫いていた。
「ぐっ! あ、うぅ、く……」
全身に焼けつくような痛みを覚える。
のどを、一気に気持ちの悪い物がせり上がってきた。
我慢しきれずどす黒い血を吐いてしまうも、ブルーノが刺した刃を引き抜けないように、その腕を強く掴んだ。
足を開いて踏ん張る。
「アナベルっ!」
セインが、アナベルの惨状に絶叫した。
急いでブルーノを攻撃し、アナベルから引き離そうとするのに首を振って叫んだ。
「駄目です。触ってはなりません! ブルーノに触ればセインも毒呪に侵されてしまいます。この魔法道具で今の彼は、自身の身体を少し触れさせるだけで相手を殺せるのです! まずはこの魔法道具の破壊を……」
「そんなことより、君の手当てを早く!」
血まみれのアナベルにセインも首を横に振る。
「私のことはいいのです」
アナベルは身を案じてくれるセインに感謝しつつ、正面に立つブルーノを厳しく見据えた。
「捕まえたわよ、ブルーノ。これで、あなたはもう姿を消して逃げられない!」
はっきりと視認できるようになったブルーノは、アナベルの知る彼よりもさらに目がつり上がり、何倍も酷薄な容貌となっていた。
「おまえは陛下の治療をしたことで、自慢の魔法は使えないと知っているぞ。女の細腕で、この私を止められるものか。間抜けめ!」
渾身の力で腕を掴むアナベルを、ブルーノがせせら笑い嘲る。
にや~っ、とまるで口が裂けたのではないかと思うほどに、大きく横に広げていた。
「あなたとはあの婚約破棄ですべて終わったと思った。それが夜会で再会、毒呪の剣……随分と因縁が続いてしまったけど、それもこれで終わり。決着をつけましょう」
ブルーノには人間味がまるで感じられない。彼から漂ってくる腐臭と血臭も酷い物だ。
もしかすると、本当に人間ではなくなってしまったのかもしれない……。
「そうだな、ここでおまえたちが死んで終わりだ」
ブルーノが自信の漲る顔で力強く笑った。
「いいえ。セインには私の命が尽きても、指一本触れさせない!」
自分はもう助からない。
身に負った傷よりも……強力な毒呪が全身を蝕み、死が、ひたひたと己のすべてを覆い尽していくのを感じる。
もし、今まともに治癒魔法が使えたとしても、この毒呪の解呪は不可能だ。
だからこそ、ここで絶対にブルーノの魔法道具は破壊し、セインの安全を確実なものとしなければならない。
アナベルは何よりもそれを思い、気力を振り絞って萎えそうになる足に力を込めた。
「虚勢を張るな。何が宰相の婚約者だ。おまえは、私に恥を掻かせたことを詫びながら死ね!」
「魔法力が切れても、私にはまだできることがある」
ぼたぼた、と音がするほど激しく、刃が突き立った場所から血が大量に流れ落ちる。
酷いめまいがして意識が飛びそうになるも、アナベルはブルーノを睨んで笑ってみせた。
魔法力が尽きた状態で魔法を使える唯一の手段。
己のすべての生命力を代償として魔法を使う。
密かにその準備に入る。
セインとジャンが、必死になって医者を呼べと外に伝えてくれている。
きゅきゅも悲痛な叫びをあげるが、それでも扉はまったく開こうとはしない。
標的を必ず死なせる毒呪と言うだけでも恐ろしい力であるのに、気配や姿隠しだけでなく、結界張りまで可能とする。
なんとも忌々しいが、大した魔法道具だとも思う。
祖父と同等な、極めて優れた魔法使いが作った物かもしれない……。
「今の私に敵う者はいない。私を不愉快にするばかりの地味女と豚が、晴れてこの世からいなくなる。今日は良き日だ!」
ブルーノが哄笑し、アナベルに突き刺した刃をさらに深く、体内を抉るように押し込んだ。
「うぐっ!」
衝撃と痛みに視界が激しくぶれる。
それでもアナベルは大きな悲鳴をあげたくなくて、歯を食いしばった。
唇の間から血が流れ落ちる。
「痛いだろう? 情けなく泣き叫べよ。おまえは私の毒に侵されて死ぬしかないのだから、やせ我慢はやめてさっさと手を離せ。この馬鹿力め、こんなところでおかしな取り柄を披露するな」
さらなる痛みを与えても腕を掴む手をまったく放そうとしないアナベルを、暴悪な笑みを浮かべたブルーノが愚弄した。
「やめろ! 彼女を傷つけるな!」
セインが堪らずブルーノに飛びかかって押さえようとする。
「私を殴りたければ好きに殴ればいい。おまえがわが身に触れれば、それで私の勝ちだ! こちらから行かずに済んで楽だな。あははは……」
「私たちに近づかないで! セインはこんなところで死んではいけない人です! 私は大丈夫ですから。この魔法道具を必ず破壊します!」
アナベルが張り上げた精一杯の声が、ブルーノの哄笑を掻き消した。
「大丈夫なんかじゃないっ!」
セインの泣いているような声が耳を打つ。そんなことないですよ、と笑って安心させてあげたいが、身体中痛くてさすがに無理だった。
でもジャンが、セインが動かないように引っ張ってくれているのにはほっとした。
「ふん、地味女が気取って格好をつけるな。はやく、私の毒で腐って真っ黒になれ。死にたくないと喚け。おまえにはそういう情けない姿が似合だ!」
己の絶対的優位を信じ、アナベルが魔法を使うのは不可能と勝手に決めつけているブルーノが鼻で嗤う。
陰険な目でこちらを見据えているのを、懸命に生命力を魔法力に変換しながら睨み返した。
「いやよ」
一言にすべてを込めたアナベルの返答に、ブルーノは不満を露わに顔を歪めた。




