118.真実の眼
「あら……なかなか手慣れた磨き方だわ。窓磨きより、床磨きのほうが得意なのね」
グレアムはすでに床磨きをさせられていた。せっせと磨いてピカピカにしている姿に、アナベルはからかうように笑った。
「私を愚弄するなら、証拠の品は渡さないぞ」
苦々しげに睨み付けられるも、アナベルの目は俄然輝いた。
「証拠の品があったのね! 渡さないなら呪縛の魔法をかけて、かさかさに干からびるまで床と窓を磨かせるわ。どちらでも、好きなほうを選んでちょうだい」
「……渡す。蛙の次は窓磨きの呪縛など、冗談ではない」
低い声で嫌そうに返してきたグレアムは、胸元を探ると麻で編まれた小袋を取り出した。
無造作に、こちらに投げて寄越す。
アナベルは薔薇の包みを丁寧に宙に浮かせ、手にした小袋を開けて見る。
「これが証拠?」
書類か帳簿の類が貰えると期待したのも束の間だった。
手に入ったのは片手におさまる大きさの小袋。しかも、中にはバラバラに砕けたとしか思えない無色透明の欠片しかなく、アナベルは顔を顰めた。
「それ以上の証拠はないと思うがな。おまえのような魔法使いが、まさか、わからないとでも言うつもりか?」
意地悪くグレアムが笑う。
欠片を凝視していたアナベルは、そこでピンときた。
「この欠片は水晶で……『真実の眼』の魔法がかかっているのね!」
真実の眼は上級風魔法の一つであり、記録をおこなうものである。ただし、偽りや妄想は記録できない。実際にあった出来事しか記録できないこの魔法は、白黒どちらの魔法使いであっても上級魔法使いであれば使用可能である。
前長官は記録媒体に水晶を用いているが、これは特に決まりはなく、宝石であれば種類は問わない。
祖母がお客の貴族から製作を依頼され、中級には無理と断るのを、アナベルは見たことがあった。
国政の重要会議の場には必ず置くようにされているほか、貴族たちが大切な取引の場に用いたいと、王宮魔法使いに製作を依頼することなどもある。
裁判の際などには、何より正確な証拠として用いられる魔法だった。
「遺品を整理中に、父が魂となって現れた。それを復元することができれば、ラッセル侯爵を破滅させられると……」
「どうして砕いて割っているの?」
前長官はラッセル侯爵の手のひら返しが、余程無念だったのだろう。
それでグレアムの許に現れた、というのはわからないでもない。
だが、こうした物はもしもの時を考えて、大事に保管するのではないだろうか。もともとそのつもりで記録するとも思うので、砕いているのは意外だった。
「父が好きで割ったわけではない。別邸の愛人たちが、父の書斎でたまたまそれを見つけ、綺麗だからと取り合って喧嘩をした。結果、落として割ったというだけだ」
父親をあざ笑うかのように鼻を鳴らし、淡々と答えたグレアムに、アナベルは肩を竦めた。
「管理が甘かった、ということね」
「父は復元魔法を使うことができない。それでも復元を考えて、捨てずに残しておいたそうだ。長官であった父や私でさえも不可能な復元魔法。他の魔法使いであればお手上げだろうが、おまえは違うのではないかと思ってな……持ってきた」
祖母がネックレスの指輪に何事かささやくと、グレアムが大きく息を吐いた。
支配の魔法が解けたらしく、モップを祖母に渡して腕を組む。
店舗の床は物凄くピカピカに光り輝いており、祖母がその様子を満足そうに見ている。もしや、グレアムには床磨きの才能があるのかもしれない……。
「私、復元魔法得意よ。あれとっても便利ですもの。 『全属性よ、集え! 砕かれし水晶玉よ。元の美しさを取り戻せ。復元。ふくげ~ん!』」
虹色の光がアナベルの手にある水晶の欠片を取り巻いた。
瞬く間に欠片は一つに纏まり、元の姿を取り戻す。青い光を放つ魔法『真実の眼』の、水晶玉となる。その中に、前長官と身なりのよい髭の紳士が話している姿が見えた。
「これよ、これ! 二人が奴隷買いについて話しているわ! この、あなたの父君と話している髭の紳士が、ラッセル侯爵なのでしょう?」
アナベルは興奮を隠せず、わくわくしながら問うた。
「なんだ? おまえは侯爵の顔も知らず、奴隷買いの証拠を求めていたのか?」
怪訝そうにこちらを見るグレアムに、痛いところを突かれたアナベルは、少し興奮が冷める。
「まあ、そうなるわね。……それで、この紳士がラッセル侯爵で合ってるわよね?」
「そうだ。本当にふざけた呪文としか思えないが……簡単に復元してしまうとはな。この規格外め……」
「約束を守ってくれて、ありがとう」
最後をぼそっと呟いたグレアムに、アナベルは素直に感謝した。期待薄と思っていたからこそ、余計に嬉しかった。
奇跡の薔薇を手にした上に、ラッセル侯爵を断罪できる証拠まで握ることができた。これを知らせたときのセインの笑顔を想像するだけで、アナベルは幸せで胸がいっぱいになる。
「母は後遺症一つなく、もう自力で歩いて家人たちに葬儀の指示を出している。新しい家に向かう準備も同時に進め、泣きわめくイブリンを厳しく説く姿は、以前よりも溌剌としていて健康的だ」
「それは、なによりね……」
グレアムの母やイブリンのこの先は、平穏な暮らしとは言えないだろうが……それでも、暗く沈んで生きるよりは、前向きのほうが道は開けると思う。
「父から解放された、というのもあるのかもしれないが、裕福な暮らしとは無縁となるのに萎れもせず、力強ささえ感じる姿に、私はなぜかおまえの魔法の力を感じた。おまえの治療に手抜きはなく……ならば、私も偽りなく約束を果たさねばと思っただけだ」
それだけ言って姿を消そうとしたグレアムの腕を、アナベルは咄嗟に掴んでいた。
「外国に行って私を倒す魔法を学ぶのはいいわ。でも、それだけじゃなく、人の役に立つ魔法も学んで。人があなたの闇魔法で苦しんで死ぬ姿よりも、あなたの魔法で幸せになった時に見せてくれる笑顔のほうが、必ず心に残ると思う……。快楽で人を死なせた分、この先出会う人の役に立って……」
償いを求めるアナベルに、グレアムの口元が不服そうに歪む。
魔法使いは、魔法で他人を苦しめるために存在するのではないとアナベルは思うのだ。それを、少しでいいからわかってほしいとグレアムに願う。
そんなアナベルの目を、彼は冷めた瞳で見返していた。
「……おまえの言うことを聞く、と誓いを立てたのは私だ。陛下に立てる誓いは適当でも誰にも知られないが、おまえ相手ではそうはいかないからな。誤魔化せないから守るしかない」
やれやれ、とばかりに溜息を吐くと、グレアムは姿を消した。
「……」
この先、外国で彼がどのような生き方をするのか、それはアナベルにはわからない。
でも、悪事を働いて弱き者たちを泣かすようなことはしないだろう。心持ち柔らかくなっていた気配に、なんとなくそう思える別れだった。
「外国に行くのか、それは残念じゃ。ここで掃除人として雇っても面白かったのだが……」
「おじいちゃまが怒って化けて出るから、それは絶対駄目。おばあちゃまが男性を雇うなんて、どんな恐ろしい事態になることか……」
にこにこ笑ってとんでもなく背筋の寒くなることを言った祖母に、アナベルは口元が引き攣った。
「天の国から舞い戻り……じいさま大暴れか。それも楽しそうじゃ」
「あんまり楽しくないと思う」
アナベルは半ば本気で言っている祖母に、複雑な顔をしてしまった。
「そうかの? それより、何か重要な集まりにでも出席するのかい? まるでお姫様のように綺麗じゃぞ。おまえの両親やじいさまにも見せてやりたいな」
アナベルの姿に感心し、しみじみとして語る祖母に小さく微笑む。
「王太后様のお誕生会に出席するからと、セインが用意してくれたの……あ! なんだか、いやな感じ……『光、集え! 光の演舞で目晦まし。会場中に、幻影の薔薇を大盤振る舞いよ~!』」
心に黒い刃を持つ人間が、セインに近づいて苛めている。そう感知したアナベルは、それを止めるため、この場からセインの許へと魔法を放った。
「じいさまよりも滑らかに魔法を使うのう……」
「それじゃ、行ってきます」
感心しきりの祖母に断り、アナベルはドレスの裾を翻す。
明確に捉えたセインの気配の傍へと一気に飛んだ。
○○
「名門公爵と偽装婚約の次は、王太后様の誕生祝賀会とは……。あの子は、じいさまの望んだ平穏から、遠く離れた場所で生きることになりそうじゃな」
祖母の呟きが、アナベルの耳に届くことはなかった。




