113.魔法でとんとん
【おなかがすいていてそれどころじゃないのかしら……でも、少しはセインを見てドキドキしたり照れたりしないものなの?】
「どきどきして、照れる?」
先ほど話題にのぼった、子ども、のことを言っているのだろうか?
だが、違うようにも感じる。
きゅきゅの真意がよく理解できなくて、アナベルは困惑した。
【人間の女性は気になる男性から口づけされると、胸がどきどきして落ち着かなくなるものなのでしょう? まともに目も合わせられなくなって、そわそわして挙動がおかしくなったりすると思っていたのだけど……副隊長は平然とセインを見て話してる。ときめき成分が足りないからどきどきしないのかしら。つまらないわ】
はあ、がっかり、とばかりにきゅきゅは盛大な溜息を吐いた。
「口づけ……っ!」
アナベルは、魔法力が尽きて意識を失う前のことをまざまざと思い出した。途端に手が震えて、握っていたカトラリーがテーブルに落ちてしまう。
「きゅきゅ。ずいぶんと面白い話じゃないか。詳しく聞かせてくれないか?」
ジャンが緑の瞳を煌かせ、満面の笑みにてきゅきゅを見る。
【セインが副隊長にあいさつじゃない口づけをしたの。でも副隊長の反応が今一つだから、心配なのよ】
「それはまずいな。二人は前途多難なのか……」
声音は真率なものだったが、ジャンのセインを見る目は確実に面白がっていた。
「きゅきゅ。かわいい口は堅く閉じて何も言わないでおくれ。……ジャンも、余計なことは言うな」
セインの常よりも一段も二段も低い声が、きゅきゅとジャンの間に割って入る。
気配も怖くなっており、きゅきゅたちはそれを敏感に感じて押し黙った。食事室を、奇妙な沈黙が支配する。
「く、口づけと言ってもあれは……頭に血がのぼっていた私を驚かせて、冷静にするためだったと思うから……恋人同士の、そわそわするものとは違うのではないかしら……」
沈黙を破ったのはアナベルだった。
顔中を熱くして閊えながらも言い募る。
思い出した今になって、アナベルは物凄くそわそわしているのだが、あの口づけにはきゅきゅの言うような意図はなかったと思うのだ。
【そうなのセイン?】
「アナベルがそう言うなら、それが正解だよ」
きゅきゅの疑問に、にっこりと微笑むセインの答えは、どこかあやふやではっきりしないものだった。
「きゅきゅはおまえの気持ちを聞いているように思うが……」
ジャンが不服そうに呟くもセインは黙殺し、緊張が高まるばかりのアナベルを見た。
「アナベル。明日は王太后様の誕生祝賀会に、私とともに出席してもらいたいと考えている。慣れない場に緊張して疲れると思うから、今日はその分もたくさん食べてゆっくり休んでほしい」
「は、はい! え? 祝賀会に、私も出席して構わないのですか?」
セインの依頼に、口づけのことが頭から離れなくなったアナベルは、何も考えずに上ずった声で承諾してしまうも、首を傾げた。
脳裏に疑問符が飛び交う。
素直に敬えないところのある人物だが、王太后は王族の中でも重要人物の貴人である。そのような人の祝賀会に、今は一般市民の自分が出席するなど、まったく考えてもいなかったのだ。
「もちろんだとも。私の誕生祝いの場にいなかった者たちに、君の顔を見せられるいい機会だ」
「きちんとあいさつできるように、心がけます」
アナベルの全身に別の緊張が走る。
一般市民であるが、自分はセインの偽装婚約者でもあるのだ。その役目を愚かにするわけにはいかない。自分の挙動でセインに恥をかかせないよう、細心の注意を払わねば……。
セインがまったく気にしていないあの口づけを、アナベルも気にしている場合ではないのだ。
それに、出席できるとなれば、王太后の腕輪を探る機会も得られるかもしれない。
「その場で王太后様に、君を陛下の治療者として推薦できれば、前長官に話を持って行く必要などなかったのだが……さすがに薔薇で懐柔出来たとしても、それだけはいい返事をしてくださらないと思ってね……」
寂しげな目をして苦笑交じりに言ったセインに、アナベルも気持ちが重くなった。
「王妃様も私がセインの縁者であると知られないほうが、陛下の治療をさせてもらえるとおっしゃっていました。王太后様のお気持ちを変える術がなく、仕方がないのだと思っても、やはり寂しいものですね」
「そうだね。信用を得るのはことのほか難しいものだ。私が、たとえ何万の言葉と行動で王家に忠誠を誓おうとも、王位継承の可能性がある成人男子ということで、王太后様は最初から疑ってかかられる。人間の気持ちを解かすのは難しい……」
少し肩を落としたセインに、アナベルは気持ちが上向くようにと願い柔らかな風を送る。そっと撫でるように頬に触れ、とんとん、とその肩も叩く。
「あたたかい風が……アナベルかい?」
窓はすべて閉じているのに室内に吹く風。
正面の席から、ぱちぱちと目を瞬いてこちらを見ているセインに、こくりと頷く。
「直接触れるには席が離れていますから……」
ケーキを食べさせてもらった時のように、すぐ隣に座っていられれば良かったのだが、今回は距離が開いているので、魔法でとんとんしてしまった。
「これからは隣に座るようにするよ。私も自分の手で、君に美味しいお肉を食べさせてあげたい」
「美味しいお肉……」
目に陰り無く微笑んでくれるセインに、アナベルも嬉しくなる。美味しいお肉にも頬が緩んでいると……。
「お二人さん。おまえさんたちは、たかが口づけ一つのことで緊張するくせに……どうして二人きりの花園は手早く上手に作るのだ? 新婚夫婦も裸足で逃げ出すぞ。……きゅきゅ、心配しなくともこの二人の前途は明るく、ときめき成分もたっぷりだ。私は胸焼けしそうなので帰る。また明日……」
げんなりした様子でジャンが席を立ち、誰の返答も聞かずに去って行った。
「花園……ジャンの目には、私たちの間に何が見えているのだろうか」
「よくわかりませんが、悪いものではないと思います。私、セインとお話ししていると、いつもとても幸せな気持ちになりますから」
不思議そうに考え込むセインに、アナベルは素直な気持ちを満面の笑みで答えた。
「それは私もだよ」
セインもアナベルと同じような笑みを浮かべ、和やかに食事の時間は続く。
『きゅう!』
「どうしたのだ、きゅきゅ? 美味しくない物でも入っていたのかい?」
突然鳴いたきゅきゅをセインが心配する。きゅきゅは、いつの間にか食事を再開していた。
【なんでもないわ。全部美味しい物ばかりよ】
返答にアナベルも安心する。具合の悪そうなところは見当たらないので、急に鳴きたくなったのだろう。
そのまま食事を続けるアナベルとセインに、きゅきゅのもう一つの声が伝わることはなかった。
【心配なんて余計なお世話だったわ。副隊長は、どきどきそわそわなんて通り越しているのね。仲が良いに越したことはないけど、私もちょっと胸焼け……。あの女好きの意見に一票だわ】
◆◆◆
「たっぷり休ませていただいていますので、さすがにすぐに眠るのは無理ですね」
食事が終わるとセインはアナベルを寝室に行かせようとした。
すっかり日は落ちて、夜の帳が下りている。入浴して眠ってもよい時間であるとは思うが、アナベルはものすごく目が冴えてしまっているので苦笑した。
「では、眠らなくていいから横になるだけでも……」
断ってもなお、熱心に寝室行きを勧められる。
「あの、重病人になったような気持ちが……」
自分を案じる黄金の瞳に首を傾げる。
まさか、セインにはアナベルが瀕死の状態にでも見えているのだろうか。心配してもらえるのはありがたいが、今は寝室に入りたくないので困ってしまう。
【セイン。今の副隊長はとっても元気よ。姿にも気配にも力が漲ってるわ。無駄な過保護はやめて、庭でも案内してあげなさいな。今宵は満月、とっても綺麗よ】
セインの肩に留まるきゅきゅからの助け舟に、アナベルは目が輝いた。
「庭か……。では、眠らなくとも構わないなら、外を歩いてみるかい?」
セインはきゅきゅの言葉に反論することなく、庭歩きを提案してくれた。
「はい。それがいいです!」
眠気のまったく来ないアナベルは上機嫌で即座に承諾する。今は横になるより身体を動かしたかった。
きゅきゅに感謝の眼差しを向けると満足そうに頷き、セインの肩から飛んだ。
【私は休むわ。おやすみなさ~い。よい散歩を……】
一緒に行かないのは残念に思うも、休むと言うのを強引に誘うわけにもいかない。廊下にて寝室に飛んで行くきゅきゅを二人で見送ると、セインが右手を差し出してきた。
「行こうか」
アナベルは柔らかい手をしっかりと握り返す。
寝室で横になっているよりも、こうしてセインと歩けるほうが何倍も嬉しい。
自然と笑みが零れるアナベルに、歩き始めたセインも楽しそうに微笑んでくれた。
◆
「公爵様が、女性と手を繋いでお屋敷を歩く姿が見られるなど……感無量です」
「とても仲睦まじく……見ているこちらのほうも幸せな心地になりますね。天の国のご両親様も、きっと安堵なさっていることでしょう」
一つの柱の影からダニエルとモリーが、感動にむせび泣くようにして、散歩に出かけるアナベルとセインの背を見守る。
他の柱でも家人たちが同じようにして、仲の良い二人を祝福していた。




