102.悪夢の次は大きなエビとカニ
「すまない。眠らせておいてあげたかったのだが、随分と苦しんでいるようだったから……起きたほうがいいのではないかと思ってね」
申し訳なさそうな顔をしたセインが、アナベルの前髪を掻きあげるようにして撫でている。
「……夢?」
ブルーノの所在を気にしていたから見た夢なのだろうか……。それにしては、妙に生々しく現実味のある光景だった。
アナベルは落ち着かない心地で、身を起こす。口の中が、からからに乾いていた。
「悪い夢を見ていたのかい?」
「……ブルーノがセインの薔薇に悪さをして……育種家の人や、警備の人たちを殺していく……」
とびきり酷い悪夢である。
「大丈夫だよ。そんなことは現実には起こらない。私の薔薇は、研究所を出て王都の傍まで無事に来ている。王太后様のお誕生日の前日にはこの屋敷に届くよ。今年の警備はいつも以上に厳しくしているからね。男が一人で襲った程度で、どうにかできるものではない」
セインがアナベルを抱きしめて、優しく背中を撫でてくれる。
そのおこないにアナベルは微笑むも、不安が完全に払拭されることはなかった。
「薔薇を運んでいる方々に、連絡を取ることはできますか?」
「毎日、報告が来るようにしているよ。今日も、何事もなく行程を進んでいると来ている」
「では、あれは本当にただの夢……。そうですよね。未来予知の魔法などないのだから……」
アナベルは、何もないのだと自身を納得させるように呟く。
死者の蘇生魔法と同じく、確実な未来を読む魔法も存在しない。アナベルが上級白黒魔法使いであろうとも、夢に未来を見ることなどないのだ。
それに、アナベルが解呪できない毒呪を発し、気配や姿を隠せる魔法道具……。
希少性を感じるそのような品を、ブルーノが手に入れる伝手を持つとは考えられない。
もし所持していれば、先日アナベルに呪いの腕輪を填めるよりも前に、それを使って暗殺しているはずだ。
「警備の数を今より増やすとするよ。だからあまり思い悩まないでおくれ。疲れがまだ取れていないように見える。起こしておいてなんだが、どうか休んでほしい」
「疲れ……」
身を案じられて、アナベルは自身の頬にそっと手を触れた。
確かに、まだ魔法力が回復していない。
黄泉の国に半歩足を踏み入れていたプリシラをこちらの世界に戻し、完全治癒させるのは、思う以上にアナベルから魔法力を奪っていた。
さらには、グレアムの母親も治療している……。
「続けて悪夢を見ることはないと思うから……ゆっくりお休み」
眠るように促されるも、アナベルは試しにブルーノの気配を探してみる。
もしも夢に見たことが現実であり、どこかの屋敷で彼が大勢の人を殺しているなら、殺気が高まるはずだ。
いくら魔法力が完全回復していなくとも、それをまったく感知できないことはないだろう……。
「痛っ! 何も感じない……」
ブルーノの気配を掴むどころか、アナベルは頭が酷く痛むばかりだった。
「アナベル。無理をしてはいけないよ」
「ブルーノが、毒呪の暗殺武器を……」
もしや、本当に所持しているのだろうか。
いくら疲労が抜けきっていないからと、ここまで気配を探せないのは合点がいかない。アナベルの全身を言い知れぬ暗いものが取り巻いた。
「アナベル。どうしても眠れないかい? 疲れを溜めたままソフィア妃に会うのはつらいと思う。明日のことは断り、一日ここでゆっくり休んではどうかな」
「え?」
一日でも早く、王の快癒にたどり着きたいだろうに……。
それを急かすどころか、アナベルの身のほうを案じてくれる優しい人の声に、自身の考えに没頭していた意識が切り替わる。
「なんなら、二日でも三日でもいいよ。君は毎日頑張りすぎだ」
頭を撫でてくれる手を心地いいと思いながら、アナベルは微笑んだ。
「頑固に一人で抱え込まず、警備の方々を信じます。私は眠って魔法力を回復させ、第一王妃様の御心を掴むことに集中します」
問題は起きていない。アナベルは不安に蓋をして、己にそう言い聞かせる。
明日は第一王妃に魔法をかけて歓心を得る大事な日だ。
このままぐずぐず悩んで夜を明かし、中途半端な回復で御前に上がるような事態は避けたい。
アナベルは、全回復を自身に念じながら再び横になった。
「では、お休み。今度こそ、よい夢を……」
額におやすみのキスをしてくれるセインに頷き、アナベルは目を閉じる。
睡魔はゆっくりとアナベルの全身を包み込んだ。
大きなエビとカニを持ったセインが目の前に現れ……好きなだけお食べと料理してくれる、天に昇りそうなほどに幸せな夢が訪れた。
◆◆◆
「よし。完璧!」
最後の料理はエビグラタンで夢は覚めた。
目覚めは噛むようなこともなく平穏で、疲労も消えていた。魔法力が完全に戻っていることにアナベルは満足する。
不穏な報告が飛び込んでこないことにも安堵し、朝食をたっぷり摂ると、王宮前広場までセインの馬車に同乗させてもらった。
「謁見を終えたら私の政務室に来るといいよ。名乗れば通すようにと伝えておくから、安心しておいで」
「いい報告を持って伺います」
アナベルは笑顔で頷いた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
頬に、お見送りのキスをもらう。
「はい。いってきます」
セインにお返しのキスをして、アナベルは軽快に馬車から降りた。
王宮内へと進んでいく馬車を、見えなくなるまでその場で見送った。
「おはようございますアナベルさん。昨日の呼び出しは無事に済んだようですね」
背後からあいさつされる。
振り向くと、そこにはポール・レイン男爵が笑顔で立っていた。
「ご心配ありがとうございます。きちんと済みました。おはようございます」
グレアムの母親のように王妃も簡単に癒やせると良いのだが……。
「こちらにどうぞ」
男爵が示した場所には茶色の馬車が停まっており、乗るようにと促されたアナベルは素直に従った。
「あの、プリシラがいないようですが?」
馬車の中に人影はなく、長方形の大きな箱が置いてあるだけだった。
その箱に昨夜の悪夢を思い出し、アナベルは少し緊張した。
「本人は行くと言い張ったのですが……助手を二人も連れてというのは、お抱えでもない私には大仰すぎると思いまして……。悪目立ちをして不興を買いたくはありません。今回はアナベルさんだけをお連れいたします。娘にはそう言い含めました」
男爵は苦笑交じりに答えてくれた。
「具合が悪くないならいいのです。今回の謁見はありがたく譲っていただきます」
プリシラも第一王妃に会いたいだろうが、ここは許してもらおう。
「娘は王妃様に謁見したいというより、あなたに会いたくてごねていましたので、どうぞお気になさらず。お暇な時にでも遊んでやってください」
相好を崩しているレイン男爵の言葉に、アナベルもにっこりと笑った。
「お訪ねしてもよろしいですか? 薔薇を育てているプリシラの姿を見てみたいです」
「もちろんですとも、いつでもいらしてください。娘はきっと大喜びするでしょう」
男爵は機嫌よく自宅の住所を教えてくれた。
「ありがとうございます。 『全属性よ、集え! 私の姿を変えてちょうだい。変身。へんし~ん!』」
礼を述べて魔法を使う。アナベルの全身が虹色の光に包まれた。
「おお! 姿が変わった」
一瞬で光が消えたのち、対面の席で男爵が驚きの声をあげた。
あんぐりと口を開いてこちらを見ている男爵に、アナベルは小さく笑う。
本来は背の中ほどまである栗色の髪は、肩口で内巻きに切り揃えられた漆黒に。
碧の瞳も空色に変化させた。
目や鼻や耳、口や輪郭の形に至るまで少しずつ変えている。
これは、アナベルに美容魔法を望んだ令嬢たちには断った容姿を作り変える魔法でもある。が、永続的なものでもなく、今は特別事態ということで使用に踏み切った。
絵姿でしかアナベルを知らないであろう第一王妃が、この変装を見破ることはまず不可能だろう。
「名前はセシルです。それでお願いします」
適当な偽名を伝えると、男爵はしっかりと頷いてくれた。
「わかりました」
馬車は王宮内を問題なく進む。
以前ジャンが教えてくれた最深部に至る漆黒の門も通り抜け、国王の私的空間へと入った。
本当にジャンの言うとおり、政治向きの場所よりもさらに豪奢な造りだった。
アナベルは自然と見入り、ぽかんと口が開いてしまう。口から感嘆の溜息だけでなく、魂まで抜け出てしまいそうだった……。




