001.父の死と婚約破棄
王都の高等学院を卒業し、寄宿舎を出る日のことだった。
実家より急ぎの知らせが届き、アナベル・カウリーは呆然として立ち尽くした。
信じがたいそれは父の死を知らせるものだった。
突然血を吐いて倒れ、そのまま息を引き取ったとしたためられていた。
体内に存在した瘤のような物が破裂したというのが、検死を行った医師の出した結論だった。
白魔法の使えるアナベルが側にいれば治療できたかもしれないが、亡くなってから知らされたのでは打つ手は何もなかった。
悄然として実家に戻ると叔父の助けを借りて葬儀を上げた。
母はアナベルが物心つく前に病死しており、兄妹姉妹はいない。
父は母のみを愛して再婚しなかったため、父の子はアナベルだけである。
しかし、ベリル王国では女性が家督を継ぐことは認められていない。
父の伯爵位と領地の支配権は、すべて叔父が継承するよう手続きが取られた。それは、父の生前より決まっていたことで、アナベルに否はなかった。
アナベルの生家であるカウリー伯爵家は王侯貴族が権力を握るベリル王国において、貴族の位としては上から三番目のものを持つ。
上等な位であるが、国政に関与できるような大領主ではない。
王家に多大な功績を認められた祖先は、伯爵位を授与されて家を大いに繁栄させた。
しかし、その後は目立った功績をあげる者はなく、暮らしの為に領地を少しずつ手放しながら現在に至るのである。
これをもしも祖先が知れば、泡を吹いて倒れてしまうだろう。現在ではそれほどに小さな所領となっている。
それでも貴族でない一般の民から見れば雲の上の身分なのだろう。が、貴族の内では財力も権勢もほとんどないカウリー家は、王都の社交界では忘れられた存在だった。
そのような無害な家の代替わりである。
叔父の伯爵位継承を王家に願い……三か月後。
特に問題なしとして叔父は王宮に招かれ、王家より伯爵位継承の許しを与えられた。
叔父は意気揚々と王都より戻ると、自身の爵位の継承と伯爵家の無事の存続を祝い、近在の領主や著名人を招いて夜会を催した。
もちろんアナベルも招かれた。
生前の父は叔父をとても頼りにしていた。貴族の身分を持たない母と結婚するのを叔父だけが祝福し、後押ししてくれてからだ。
そしてその母が亡くなって後も、父の意思を尊重し、強引に再婚させようとする縁戚を説得してくれたのも叔父だった。
アナベルのことも一般市民の血が入ってくるからと毛嫌いするようなことはなかった。
その叔父が爵位を継承することに不満はない。
心より祝福すると、その場で叔父一家はアナベルが暮らしているほうの屋敷に引っ越してくることが決まった。
◆◆◆
「おはよう、アナベル」
夜会の翌早朝。叔父の息子である婚約者のブルーノが屋敷に訪れた。
アナベルは正直なところ、叔父夫婦は好きでもこのブルーノは嫌いである。
金髪に青い瞳を持つ、鼻筋のすっと通った美男子なのだが、その性格と瞳に宿る冷たい気配がどうにも受け付けなかった。
しかし、そのようなことを思うのはアナベルのみである。ブルーノを知る人間は、笑顔の爽やかな好青年だと口を揃えて言う。
おまけに背も高く文武両道に秀でている。
ゆえに、婚約者のアナベルはとても羨ましがられていた。
「おはよう、ずいぶん朝が早いように思うのだけど……どうしたの?」
数日後と聞いていたのだが、今日より引っ越し作業を始めるのだろうか。
それにしても時刻が早すぎるのではないだろうか、と思いながらアナベルはブルーノを応接間に案内した。
「君にこれを……」
ブルーノは席に着くことなくアナベルの右手を取ると、懐から出した腕輪を填めようとした。
婚約者からの贈り物を、いらない、と拒否するのも悪いと思うも、アナベルは腕輪にどうにも不穏な気配を感じて眉間に皺が寄った。
「ブルーノ。ごめんなさい……この腕輪は……」
受け取れない、と言いかけて目の当たりにしたブルーノの笑みに、アナベルはぞっとして身体が硬直した。
こちらを見ている瞳は、これまで見てきたものなど比較にならないほど、冷たく凍っていた。
同時に、かちん、と硬質な音がして腕輪はアナベルの右手首に填められた。
全身が、言葉に出来ぬほど暗くおぞましい不気味な気配に包まれる。
「それは、君が不貞を働いていなければ簡単にはずせる物だ。だが、私という婚約者がありながら裏切り行為に及んでいたのであれば、はずれない。呪いが発動し、半年後に君はこの世から消えるだろう」
「な、なんですって?!」
不穏な気配は呪いの波動だったのだ。
アナベルは眉を吊り上げて淡々と語るブルーノを睨むが、睨まれた方は平然としていた。
「不貞を働いていなければすぐにはずれる。何の問題もない物だ」
にやりと笑むその顔がとても陰湿で、アナベルは嫌悪を覚えて鳥肌が立った。
左手で腕輪を外しにかかる。
アナベルは不貞など働いていないのだから、簡単にはずれる。そう思ったのも束の間だった。どんなに留め金をいじっても腕輪ははずれなかった。
「はずれない……これ、不貞を咎める物ではないわ!」
不貞など関係ない。
これは、誰が填めようと解呪できなければはずすことは叶わず、半年で確実に死ぬ呪いが掛かった物だ。
腕輪に触れている内に、そうであると感知した。
「淑女となるための教育を施す厳しい高等学院と聞いていたが……教師たちの目を盗んで、男遊びをしていたのだな。失望したよ。やはり、下賤の血が混じっているとだめだな……」
ブルーノはアナベルの叫びを無視し、最初から決めていたとしか思えない侮蔑の言葉を、ため息交じりに投げつけてきた。
「そんなことしていないわ!」
己と母を侮辱するあまりに無礼なそれに、アナベルは猛烈な怒りを覚えて反論した。
その瞬間、ピンとくる。
同時に、これは利用できるとの計算も働いた。
ここで魔法を使って腕輪を外さなければ、ブルーノからとてもいい言葉を引き出すことができる!
アナベルは腕輪の留め金をいじり、どう足掻いてもはずすことはできない、というのをブルーノに印象付けるようにした。
「君がどう言い訳しようと、腕輪は外れないではないか。それが何よりの証だ!」
「…………」
腕輪を外そうと躍起になり、額に汗して必死な形相のアナベルに、ブルーノはこちらの目論見通り喜びを隠そうともしない笑みを浮かべた。
「私は、婚約者がいる身でありながら、男遊びをするような女と結婚する気にはなれない。君との婚約は父と伯父が勝手に決めたものだ。破棄させてもらう!」
ブルーノは声高に宣言すると、アナベルの返事など聞こうともせず、足早に応接間から出て行った。
その背には、満足げな雰囲気が多分に滲んでいた。
「……父が亡くなり、伯爵位が自分の親に継承されると決まったから、私は用無しの邪魔者ということなのね」
アナベルはソファの背に深く凭れかかるように座ると、天井を仰ぎ見た。
そうして、胸の前で両手をぐっと握り込んだ。
碧の瞳が三日月を横にしたようになり、にんまりと唇の両端は吊り上がった。
「あいつと結婚せずにすむなんて、やったわ!」
無礼千万な理由をねつ造していることは許せないが、婚約破棄は素直にうれしかった。
アナベルは幼少期より、高等学院卒業と同時に五歳年上である従兄のブルーノとの結婚が決まっていた。
しかし、アナベルは婚約という意味を理解する前から、従兄のブルーノが好きになれなかった。初対面からして、嫌悪しか覚えなかったのである。
叔父や叔母は気にしない母の血を、ブルーノだけは気にして人目のないところではアナベルに辛辣であったからだ。
そんな自分たちの婚約は、我が家に息子が産まれなかったから、というだけで決められたものである。
父の跡は、アナベルとブルーノが結婚し、父の義理の息子となったブルーノが継ぐ予定だったのだ。
そこにアナベルの意思はない。
もちろん、その当時幼児であったブルーノの意思もない。
それがこの度、父が早くに亡くなったため、叔父が継いでしばらく後に自身の息子であるブルーノへと変更された。
それでも叔父は、自身の息子とアナベルが結婚することは変更しない、と昨夜の夜会で言った。父の喪が明け次第結婚式を挙げると日時まで決めていたが、ブルーノの考えはそれとは異なっていたということだ。
伯爵家の平穏な未来の為には、父の意向に逆らって悲しませるような真似はしてはならないと考え、婚約破棄は諦めていた。
アナベル以外の人間にはすさまじい数の猫を被っているブルーノの評判はとてもよく、父は彼が婚約者で良かったと何度もアナベルに言ったものだ。きっと幸せになれると言われるたび、それはどうかと思うと心の内で溜息を吐くばかりだった。
それを向こうから断ってきたのだ。
これならば復縁などあり得ない。
アナベルは今日より自由である。
大声をあげて笑うのを堪えきれなかった。
◆◆◆
ところが、事はそう簡単にはすまなかった。