残された通信手段
僕はすっかり打ちのめされた気持ちで再びアパートへと帰り着いた。僕はとりあえずという感じでソファーに腰掛けた。一体これからどうすればいいのか、何ができるのか、思考が一種のオーバーヒートのような状態になっていて、何も考えつくことができなかった。
僕が携帯電話を使って誰かに連絡を取ってみてはどうだろうという、ごく初歩的なことを思いつくことができたのは、それから十分以上も経過してからのことだった。
僕はおもむろにスマホを手に取ると、及川美優に電話をかけてみることにした。及川美優というのは、僕の数少ない、学生時代の友人のうちのひとりだ。どうして真っ先に彼女に連絡することを思いついたのかは自分でもよくわからなかった。なんとなく最初に思い浮かんだのが彼女の顔だったのだ。
僕はスマホの連絡先のなかから及川美優の連絡先を呼び出すと、発信をタップした。それからスマホを耳に当てる。ぷっぷっぷっという、電波を探しているような間があり、その直後、ぷーぷーという話し中なのか、なんなのかわからないけれど、とにかく、電話が切断されたような音が聞こえた。もう一度僕は電話をかけ直してみたけれど、やはり結果は同じだった。電話をかけると、ぷーぷーという話し中のような感じになって切断されてしまう。あるいは単純に、彼女は今電話中なのかもしれなかった。そう思って僕はスマホを耳から外し、画面を見つめて、あっと、絶句することになった。
電波がないのだ。携帯の。スマホの電波の状態を表示する箇所には圏外と表示されていた。もちろん、家にいるとき、通常は普通に携帯の電波は入る。
スマホの調子がおかしいのかもしれないと思った僕は、一度スマホの電源を落とし、再起動をかけてみるとこにした。
でも、結果は変わらなかった。携帯電話の電波は圏外のままだった。そして少しししてから僕は慄然とすることになった。そうか、と、僕は身体から急激に体温が低下していくように気がついた。
僕が今居る世界は恐らく異世界なので、当然電波も入らないのだ。でも、待てよ、と、僕はしばらくしてから怪訝に思った。もし、スマホが圏外であるのなら、二日前も、今日も、僕はどうして普通にスマホでインターネットを閲覧することができていたのだ、と。疑問に思った僕はスマホをインターネットに接続してみることにした。すると、奇妙なことに、スマホは通常通り、問題なく、インターネットに接続することができた。あれ?と僕は思った。一体何がどうなっているのだ、と。携帯は圏外なのに、何故、インターネットは繋がるのか、と。それから少し考えて僕は単純なことを見落としていたことに気がついた。携帯の電波は圏外でも、スマホはワイハイがあれば、普通にインターネットに接続することができるのだ。そういえばパソコンもこの二日間問題なくインターネットに接続することができていた。ということは、携帯の電波は圏外でも、インターネットだけは、通常の、僕がもと居た世界と繋がっているのだ。どういう理屈によるものなのかはわからなかったけれど。
そのことに気がついて、僕は少しだけ気持ちが軽くなった。ということは、電話をすることはできなくても、スカイプや、ラインを使って、あるいはメールを使って、外の世界のひとたちと連絡を取り合うことはできるのだ。
僕は早速、ラインを使って及川美優に電話をかけてみることにした。すると、今度は電話は繋がり、スマホから及川美優の声が聞こえてきた。でも、何故か接続状態はかなり悪く、ほとんど会話にならなかった。声が切れ切れになって相手が何を言っているのか聞き取ることができないのだ。
インターネットの通信速度には問題がないのに、どうしてラインの電話になると通信が不安定になってしまうのか理解不能だった。けれど、とにかく、会話にならないので僕は一度電話を切ることした。そして仕方がないので、今度はメールを使って彼女と連絡を取ってみることにした。
及川美優のアドレスをアドレス帳から呼び出し、文章を作成して送信する。もしかすると、メールが送信できないのではないかと思っていたのだけれど、それは杞憂に終わり、問題なく、メールを送信することはできた。メール送信してから間もなく、及川美優から返信が返ってきた。そして以下が、彼女とのやり取りになる。
僕「久しぶり。さっきはごめん。電波の調子が悪くてほとんど何も聞こえなかったから切った。今、大丈夫?」
美優「大丈夫だけど?それよりなに?急ぎの用件だったら電話したら?」
僕「そうしたんだけど、できないんだ。携帯が圏外なんだ。でも、どうしてかインターネットは繋がる。だから、メールしてる。メールしたのはちょっとヤバいことになってるからなんだ」
美優「なに?啓介が何が言いたいのかわからないんだけど?長くなるんだったら、また携帯の電波が繋がる状態になってから電話して」
僕「だから、そうしたいんだけど、できないんだよ。これからあと電波の状態がよくなることもたぶんないんじゃないかと思う。信じてもらえないと思うけど、僕は恐らく今、異世界?パラレルワールド?そういった世界にいるんだ。というか、だと思う。僕自身もなんでそんなことになってしまったのかわからないんだけど、とにかく、様子が変なんだ」
美優「なにそれ?新しい小説のネタ?悪いんだけど、わたし、今、お昼休憩中なの。啓介の暇つぶしにつきあってる時間はないの。小説のネタについて感想を求めたいんだったら、またあとで、携帯の電波が良くなってから電話して。たぶん、夜だったら時間取れると思うから」
僕「だから、これは冗談じゃないんだよ。ほんとうに、ほんとうなんだ。信じられないのは無理ないと思うけど、僕は今、ほんとうに異世界にいるんだ。美優の協力が必要なんだ」
美優は僕が暇つぶしに悪戯でメールを送っていると思い込んだらしく、それ以降、美優からメールの返信はなかった。そのあと、僕はだいたい似たようなメールを自分の少ない、数人の友人に対して送ってみたのだけれど、みんな仕事中で忙しいのか、返信は帰ってこなかった。僕は試しにFacebookに自分が異世界にいることを書き込んでみたけれど、みんな僕が冗談で書いていると思ったらしく、いいね!を押してくれたひとが数名いるだけで、まともに取り合ってくれるひとはいなかった。
僕はソファーのうえで頭を抱えた。一体どうすればいいんだ、と、思った。一体どうすればみんな真剣に僕の話を聞いてくれるんだ、と、思った。せめて電話が繋がればな、と、僕はスマホに眼差しを落としながら考えた。せめて電話で今の状況を伝えることができれば、まだしも僕の言っていることに真剣に耳を傾けてくれるひとも少しは現れるんじゃないかと思った。
それで、僕はもう一度、一縷の望みをかけて、友人に電話をかけてみた。けれど、結果は最初と同じだった。携帯は圏外になっていて繋がらず、ラインや、スカイプといったネット回線を利用した電話は、雑音が多過ぎて使いものにならなかった。なす術がなかった。
僕はすっかり途方にくれて、ソファーに腰掛けたまましばらくのあいだ身動きすることができなかった。もし、このまま、この世界に取り残されたままだったとしたら、一体どうなってしまうのだろう、と、僕は考えた。今のところ、電気や水道といったものは使えるから今すぐ死ぬということはなさそうだった。食料品に関しても、野菜や肉といった、生ものはすぐに駄目になってしまうとしても、冷凍食品があるのでしばらくはなんとか持ちこたえられるだろうと思った。それに、もし僕が今居る世界がほんとうに無人の世界であるのなら、世界中の冷凍食品が僕ものだということになり、そう考えると、飢えて死ぬということを心配する必要はなさそうだった。
あと問題があるとすれば、かなり孤独であるということだったけれど、僕は孤独に対する免疫はある程度ある方なので、しばらくのあいだであればこれももちこたえられそうだと思った。レンタルビデオ店にいけばまだ僕が見たことのない映画がたくさんあるし、本屋に行けば僕の読んだことのない小説や漫画がたくさんある。それに、案外、もう二三日もすれば、この無人の世界からもとの世界へ帰ることだってできるかもしれない。そうだ、と、僕は思った。まだそんなに深刻に思い悩む必要はない。少なくともまだ差し迫った命の危険はない。大丈夫だ、と、僕は自分に言い聞かせた。
僕はそれまで腰掛けていたソファーから立ち上がると、キッチンまで歩いていった。このままここであれこれと頭を悩ませていてもしょうがないので、気分転換に昼食でも作ろうと思ったのだ。