シュプール
妻が皿を置き、はいどうぞ、と言った。
中村耕太は読んでいた本から顔を上げて、ありがとう、と微笑んだ。妻も微笑む。本に視線を戻し、読み進めながら皿に手を伸ばす。皿の上の生ハムを指先でつまもうとして指が空振りした。それでも本から目は離さない。また空回りした。三度目に今度は少し大胆に皿の上に手のひらを重ねるようにすると、にちょりとした液体の感触がした。そこで初めて皿の料理をよく見ると、それは生ハムではなくカルパッチョだった。手にはオリーブオイルがべったりとついている。
妻が笑いながら、なにやってんのよ、といってティシューを差しだす。カルパッチョだったのか。と耕太も笑う。皿の横にはちゃんと箸も置いてあった。それを見て、皿が置かれたときに、箸の音も聞こえたことを思いだした。
雪原に横たわり、何度も何度も、荒い息で呼吸をしていた。はきだす息とともに悲鳴と溜息が混じったような声がこぼれる。広い白銀の世界に耕太の声を聞くものは、ただ耕太だけだった。
ゴーグルの中から見あげる空は快晴だった。いい天気だ。こんないい陽気なのに、おれはなんてざまだ。両手に持ったストックを太陽に向かってさしだす。いったい、ここはどこなんだ。
箸で赤く薄い牛肉をつまみ口に運ぶ。オイルにまみれた肉が舌の上でなめらかに踊る。ブオーノォ、と言って妻を見る。笑っている。それイタリア語? といって笑っている。
あのカルパッチョをもう一度食べたい。
耕太は白く冷たいベッドから体を引き剥がし、もう一度スキー板に体重をあずける。
こんな僻地に用はない。
カルパッチョはどっちだ。