盲人と不死人
そこは静かな森の中だった。
聞こえるのは遠くで聞こえる水の音、それに時おりさえずる鳥の声だけ。
人の声など聞こえたことがないほど、そこは人の足の入らない場所なのだ。
その森の中に、一本の巨木がある。広がってゆく枝、その先は見上げるほどに高く、幹は大人三人が腕を伸ばしても届かないほどに太い。見る者すべてを圧倒するような、強烈な存在感がその木にはあった。昔の人々はその木を、神木と呼んでいた。
そんな木の下に座り込み、名無しは静かに目を閉じ、物思いに耽っていた。一月ほどの間こうしているのは、人と関わるのに疲れを感じるようになったからだ。
どこへ行っても人間は争い、憎しみ合い、盗み、犯し、殺している。少なくとも、名無しが立ち寄った町や村で、こうしたことがまったくない場所は、一つもなかった。それが人間が生きているということなのだと、頭では理解していながらも、胸の内で蛇がのたうち回っているような気持ち悪さが、常に付きまとう。盗賊に襲われ、苦しんでいる村を救ったこともあったが、次に訪れた際には、また違うことで問題が起きている。
戦の時代は終わったはずであるのに、人の心は荒んだままなのである。そうした光景を見続けた名無しは、迷い込んだ森の中で、人と関わらずに生きていく時間を欲した。
飲まずとも、喰わずとも死なない身であり、時間という概念も無くしてしまったはずだが、なぜかここでは『時』を感じることができた。植物や動物や観察していると、時間は少しずつ流れているのだと、感じることができる。
心の中に少しずつ平穏が戻り、もう少し休んだ後にその場を発とうと思った頃だった。
遠くで、数人が草をかき分けている音が耳に入った。足音からすると、三人のようである。
何かを話しながら歩いているようだ。時おり、すすり泣くような声も聞こえる。
正面から歩いてくるその音は、まっすぐ名無しの方に向かってくる。名無しは反射的に神木の上に登り、葉の中へ身を隠してしまった。別段、見つかろうが問題はないはずであるのにも関わらず。
やがて、茂みの向こうから三人の人間が姿を現した。親子のようである。父親が鉈を持って先頭を歩き、母親が娘の手を引いて歩いてくる。
そして神木の下まで来ると、母親と思しき女は子供の手を離した。そして自由になった手で、自分の目元をぬぐった。続けて父親らしき男が子供の方を振り返り、口を開いた。
「すまんが、ここで待っといてくれ。俺とこいつは薪拾ってくるけえ……」
子供は何も言わずに、一度だけこくりとうなずいた。背丈から考えるに、まだ十になるかならないかだろう。名無しからみてそれは、気丈な振る舞いにみえた。
(口減らしか……)
珍しいことなどではない。ありふれたことである。食う物が無くなってくれば、それを必要とする者の数を減らせば良い。それだけの話なのだ。どこにでもそれはある。
母親は納得していないのか、ぼろぼろと涙を流し続けた。それをみても父親は無表情のまま、母親を引きずるようにして、来た方向へと帰っていった。
「ごめん……。ごめん……」
母親の嗚咽とともに出るその言葉は、静かな森の中に、少しの間響いていた。
子供は、親の行ってしまった方を見つめていたが、声も聞こえなくなると、突然、名無しがいる枝の方向に頭を向けた。
「だれか、いるの?」
その娘の声は、決して弱々しくはなかった。楽器の弦のようにぴんと張りのある、美しい声だった。たった今親に捨てられた子供の声とは想像もできなかった。そんな声に、名無しは興味を持った。
「なぜ分かった? 気配は消していたつもりだったが……」
名無しは木から飛び降りると、娘に声をかける。
「わたし、生まれたときから目がみえないの。でもその代わり、音や気配にはよく感じることができる。……でも、少し驚いたわ。猿かなにかとも思ったから。だってそうでしょう? 普通の人は、こんなところで木になんて登らないもの」
娘は言葉とは裏腹に、むしろ頬を緩ませながらそういった。
「なるほど、お前盲か。親に捨てられるのも、まあ分からない話じゃないな」
直接的な話し方だったが、特に娘は気にした様子はない。
「うん。むしろ今までよく捨てられなかったと思うくらい。四人兄弟なんだけど、わたしだけ役立たずだからね。……そういえば、あなたこそこんなところで何をやっているの? ここは村の人も旅の人も、誰も入らないような森なのに」
娘は土に腰をおろすと、名無しの顔を見上げた。何となく名無しの顔の位置などが分かるようである。
「旅をしていて、少し疲れたから休んでいたんだ。この森には、偶然迷い込んだ。……お前、名前はあるのか?」
「わたしこれでも十三年も生きてきたのよ? ……詩っていうの。あなたは?」
名無しは詩の質問を聞いた後、黙り込んでしまった。重い空気を感じ取ったのか、詩が先に口を開く。
「……自分の名前、嫌いなの?」
名無しは息を大きく吐いた。
「嫌いならまだいいさ。……分からないんだ、自分の名前が……」
盲で、口減らしされるような目の前の小さな娘に名前があって、自分は名前すら分からない。それがたまらなく悔しく思えた。身の内に、強い酒を呑んだ時のような灼熱感が襲ってくる。かと思えばその灼熱感はすうっとどこかへ消えていき、どうしようもない寒さが、頭から爪先まで駆け抜けていく。
名無しは自然にうつむいたが、詩は空を見上げた。雲一つない、晴天である。
「そうなんだ。でも、気にすることないんじゃない?」
その澄んだ声が、名無しの癇に障った。熱い血が一瞬で頭にのぼっていった。
「お前は名前があるからそんなことがそんなことが言える……! 自分の名前が分からないことが、どれほど不安にさせるのか、お前には分からない! 自分がどこのだれで、何をしていたのか、何しなければならないのか、どこに行くのか、何も分からない。……分からないんだよ!」
頬を紅潮させてまで怒りをあらわにすることは、記憶がある間ではなかったことだった。
詩は一瞬だけ身体をこわばらせたが、再び微笑んだ。
「でも、名前なんて、ただの飾りじゃない? つけてくれた人の想いはあっても、結局それを形にするのは自分じゃないかしら。適当なものよ、名前なんて。その人がそう名乗っちゃえば、それが名前にもなるし……」
名無しは押し黙っていた。何も言い返せない自分がいた。それも、自分に比べればほんの少ししか生きていない少女に。
「そうだ、名前が分からないなら、今日ここでつけちゃえばいいのよ。……浮かばなければ、わたしがつけてあげようか?」
それまで黙っていた名無しが、重く口をあける。
「お前は、どうしてそんなに明るくいられる? 目がみえず、たった今親にも捨てられたのに。お前は今、誰にも必要とされていない。お前は、見上げた空の青さもしらないのだろう? そこに咲く花の美しさも、溶けていく雪の儚さも。海の力強さも。何も、何も感じられないはずなのに……」
詩は少し悩んだ後、手を草の上で滑らせる。名無しが指した花に触れると、その花全体を撫でるように触り、それから鼻を近づけ、その匂いを嗅いだ。
「……でも、わたしは、この花を感じることができるわ。あなたよりも、もっとね。手で感じ、鼻で感じ、耳で感じ……、目以外のすべてで、私はこの花そのものを感じられる。この花の中を水が駆け巡り、わたしたちの身体の中のように、命を育んでいる。この花の隣にも、同じ種類の花が咲いているけど、一つ一つ違うの。あなたにはそれが感じられる?」
名無しは詩の手元にある二輪の花を見比べた。まったく見分けがつかない。同じようにみえる。
「香りが強かったり、花びらが瑞々しかったり、蜜の甘さが違ったり……。一輪一輪、違う。たとえ名前は同じでもね。わたしの『みている』ものは、本当はあなたよりも多いかもしれないのよ……」
またも黙りこくる名無しに向かって、さらに詩は続ける。
「両親に捨てられたこと、実はあまり気にしていないの。わたしが家族の足手まといだってことは理解していたから。こんな身体じゃ嫁の貰い手もないし……。だからわたしは、今が幸せなの。誰にも必要とされないけれど、誰のことも気にせずに、生きていけるから……」
名無しは初めて、詩を『みた』。
森の中を歩いてきたからか、顔など肌が出ているところは泥や汗で所々黒くなっており、着ている物もぼろ布だった。腕や脚は持てば折れそうなほどに細い。全体的な容姿は、とても美人とはいえなかった。ただ、その微笑みは、名無しがこれまで見てきたものの中で、最も美しいように感じられた。みていると、身体の内側がくすぐられるような感覚になる。
名無しは詩をまっすぐに見つめる。
なんと強く、そして美しい人間なのだ、そう名無しは本気で思った。不死の身体となってから、初めて、強烈に人間に憧れた。
その後に出てきた言葉は、気がつけば口から飛び出していた。
「……私に、名前をくれないか? ……お前から貰いたいんだ……。その、もしよかったらだが……」
名無しは赤面した。
詩は満面の笑みを浮かべると、歌うような調子でいう。
「いいの? じゃあ……、藤丸ってどうかしら? 子供っぽい名前かもしれないけれど、わたし、藤の花が好きだから……」
名無しには、それは初めて聞いた名前のはずだが、妙に懐かしく感じられた。包み込まれるような、不思議な暖かさが風となって肌を撫でていく。
「ありがとう。一度でいい……。その名で、わたしを呼んでくれないか?」
詩は笑顔でうなずく。
「一度じゃなく、何度でも呼んであげるわ、藤丸……」
名無しの目の端から、水の粒が頬をつたって流れていく。何度ぬぐっても、溢れてきた。あとから、あとから。
名無しの中で、なにかが産声をあげた。
「藤丸……。私の、名前……」
少しずつ、少しずつだが、人間に近づいている。そんな感覚が、全身で感じられた。