『slave』
・思いつきショートショートですがよろしければ。
・設定的にすでにあれなのでR15とさせて頂いてます。
何故、何もされないのですか――と、彼女は言った。
奴隷商人から彼女を譲り受けて、実に一年ほどが過ぎた時だった。
僅かに逡巡してから、何も、とはどういうことだ、と私は問うた。
彼女は、奴隷とも思えぬ奥ゆかしい表情で言った。
「……ご主人様の下へ身を寄せるようになって一年。その間、ご主人様は、わたくしに指一本触れようとはなさいませんでした。……無知なりに全てを覚悟しておりましたから――……戸惑っています」
私は僅かに沈黙してから、そうだな、と答えつつ、カップの中の茶を飲み干した。
それを見るや、問答の途中であるにもかかわらず、私の貞淑な奴隷は、すぐさまカップの中に新たな茶を満たしてくれる。
……この一年で私が彼女に求めたことと言えば、こんな当たり障りのないことくらいだった。
湯気を立てる茶を一口啜ってから、何か不満があるのか、と彼女に問うた。
彼女は少しだけ逡巡したが、間もなくおずおずと言葉を紡いだ。
「……わたくしは、ご主人様に買われた身です。ご主人様の仰ること、求めることならば、どんなことにも従います……それがどんなことであっても、不満などありません」
ならば、何故、戸惑う?
「……わたくしは、ご主人様に隷属する身です。どんなことをされようとも不満など申し上げません。……何をして下さっても良いのです。……触れて下さっても良いのです。お望みならば、どんなご奉仕でもいたします。……ご主人様は、わたくしをお側に置いてくれて、綺麗な服を着せてくれて、美味しいものを食べさせてくれて、優しい言葉をかけてくれて――……でも、触れようとはいたしません」
わたくしは、ご主人様の何なのでしょうか。そう言って、彼女は俯いた。
確かに、私の彼女に対する態度は、金で買った相手にするそれではないのだろう。それを意識してこなかったわけではないし、矛盾を感じなかった訳ではない。
――だが、私は、その嘘を是正するつもりはなかった。その意味が無かったから。
綺麗な服も、美味しい食べ物も、全ては私が与えたいから与えているもの。お前にしてみれば、『昔の生活』を取り戻したのと変わらないのだから、そこに疑問を持つ必要などない。……そう、嘯いた。
だが彼女は、この従順な一年間の中で、初めて私の言葉に頷かなかった。
「……かつてのわたくしを、ご存知なのですね」
それが、わたくしに良くして下さる理由ですか……と。奥ゆかしくも、譲らぬ気迫を覗かせる言葉だった。
……私も焼きが回ったものだと思った。こんなことで動揺して、口を滑らせてしまうとは。確証はなかったが、それは、核心にも近い失言だった。
――昔話をしよう。
私は子供の頃、とある革細工職人の徒弟だった。まともに仕事など出来ない未熟者だったから、商品納入の使いを主な仕事としていた。
その得意先の一つに、とある貴族の家があった。今にして思えば、さして大きな家ではなかったかもしれないが、当時の私にとってはあまりに恐れ多い存在だった。
初めて使いへ出向いた日のことだ。私は、その豪奢な屋敷の佇まいに興奮していたのか、広大な敷地の中で迷子になってしまった。歩けど歩けど門は見えず、私は激しい焦燥を感じながら、長い時間を彷徨い続けた。
――そうして、一人の少女に出会ったのだ。
彼女は幼いながら、眼を見張るような美しいドレスを身に纏っていて、一目で私とは住む世界の違う人間だと知れた。
けれど、散々道に迷い、途方に暮れていたあの時の私にとって、彼女は唯一の救い主だったのだ。
私は、本来であれば話しかけることすら憚られる彼女に、嬉々として門までの道を尋ねた。
彼女は、ふいに現れた闖入者に、瞬間、不思議そうな顔をしたが、やがてにこりと笑うと――一緒に遊ぼう、と。そう言った。
自分の身に何が起きているのかまるで分からなかった。だが、彼女の笑顔のあまりの眩しさに、私は彼女に手を引かれるまま、いつしか己の立場も忘れていた。
以来、私はその屋敷に使いに出される度、十は下であろう彼女の笑顔を、心から求めるようになった。
だが、元々が相容れない仲であったのだ。幼稚な逢瀬が禁じられるのに、さほど時間は掛からなかった。私は屋敷に足を踏み入れることを禁じられ、以降、二度と彼女の笑顔に会うことはなかった。
周囲から厳しく戒められた私は、幼い恋心を忘れるかのように、職人としての修行に打ち込んだ。数年の内には一人前の職人として認められ――幸いなことに、独立して始めた皮革加工事業も成功して、工房は見る間に巨大なものになっていった。
職人としてより、豪商として世に名が轟き始めた、丁度そんな頃だ。懇意にしていたとある貴族が、爵位売買を持ちかけてきた。正直安い買い物ではなかったが――私は、さして迷わなかった。
金銭と引き替えに、私は爵位を譲り受けた。かつては、平民出身の職人見習いでしかなかった私が、貴族の仲間入りだ。成り上がりと揶揄する者も少なくはなかったが、私は満足だった――過去を、取り戻したような気がしていたから。
だが、そんなものは自分の勝手な幻想だった。失われた過去はけして戻らない。
かつて私が使いに出ていたあの貴族は、疾うに没落していたのだ――私が爵位を買い上げた貴族と同じように。あの少女も、もはやいずこにいるとも知れなかった。
そんな折、私は一人の奴隷商人と知り合う。何のことはない。彼らは金の臭いに敏感だ。成り上がりの成金貴族にすり寄ってくるのは当然のことだった。
正直気乗りはしなかったが、空しさを誤魔化すように、私は彼に導かれるまま、その薄暗い窟に足を踏み入れた。
――そう、そこで。私は、彼女を見つけたのだ。
もちろん、少女と最後に会ったのは遙か昔のことだ。家柄以上に、倫理的に許されない年齢の少女だった。私の中の彼女も、彼女の中の私も――仮に彼女が彼女であったとしても――記憶などあやふやだ。……そんなものは、私の空しい幻想の一つに過ぎなかったかもしれない。
……それでも。彼女は今、確かにここにいる。結局私は、みっともない過去の幻想を振り払うことが出来なかったのだ。
私は、過去の幻想に縋っている。あの時失われたものに焦がれているのだ。……その焦がれているものを、汚したくはない。それが、私の真意。……みっともない本音だった。
こんな青臭い昔話を語るなど、主人にあるまじきことだと思った。私には、もはやそれ以上、私の愛しい奴隷にかける言葉を持たなかった。
「――覚えて……います」
ぽつりと、彼女は言った。
「覚えています……幼かった頃のこと。……毎日孤独だったあの頃のこと。でも、ほんの一時だけ、楽しくて……暖かかった日々を覚えています。……人買いに売られた時、あの時いただいた皮の腕輪は無くしてしまったけれど――……あの喜びは、今でもこの胸に焼き付いています――」
まさか、そんな都合の良いことがあるだろうか。彼女が彼女本人であるばかりか、私のことを覚えているなど。
……だが、私は腕輪の話などした覚えはない。知っているはずがないのだ――彼女が彼女であって、幼い記憶を留めていない限りは。
「ご主人様……?」
穏やかな声で、私を呼ぶ。
……だが、私に返せる言葉などなかった。だって、そうだろう。彼女が彼女であったから何だと言うのだ。私は、彼女を金で買ったのだ。……焦がれたものを、金で手に入れようとしたのだ。
一年もの間、何も問わず、何も求めず、ただ側にあるだけの暮らしをしてきた。それは、何のためだった?
――私には、彼女に触れる資格など無い。
「……顔を上げて下さい、ご主人様」
ふと、そんな声がすぐ側から聞こえた。
見れば、彼女は私のすぐ側に跪いて、私の膝に優しく手を触れていた。
「ご主人様が、どんな苦しみを抱えていらっしゃるのか……わたくしには分かりません。……けれど、わたくしは、今こうしてご主人様の側にあれることが幸せです。どうか……そのような顔をなさらないで下さい」
そんな、暖かな言葉。伝わってくる手の温もりと共に、私の凍てついた心を溶かしていくようだった。
それでも、焦がれたものを汚した自分を、簡単に忘れることなど出来ない。
……逡巡する私に、彼女は言った。
「……ご主人様の望むままになさって下さい。ご主人様の望みがわたくしの望み、ご主人様の願いが、わたくしの願いです――だって、わたくしは、ご主人様の奴隷ですから」
いつかのまぶしい笑顔が、私を包み込んでいた。
私は、許されて良いのだろうか? 彼女を抱きしめる資格があるのだろうか? ――答えなど分からなかった。
けれど、自分は奴隷だから、と言って微笑む彼女に、私は抗えなかった。
……そうして私は、その夜初めて、私の愛しい奴隷を抱いた。失われた時を取り戻すかのように、何度も何度も彼女を求めた。皮の腕輪の代わりに皮の首輪を与えて、あの幼き逢瀬も忘れてしまうくらい、激しく、激しく。愛して、抱きしめて、体を重ねて、幾度も幾度も、彼女の中で果てた。
みっともないほどの繰り返しの中で、彼女は何度も、自分は奴隷だから、と呟いた。
……私は、気づいてしまった。主人として何よりみっともなくて、情けない事実に。
それを、今はまだ告げる勇気はない。……けれど、いつかは告げられるだろうか。
……出会ったあの日から。
――私こそが、彼女の愛の奴隷であったと言うことを。