改めて、俺たちは笑えている
「……もしもし?」
『……もしもし、久しぶりだね』
記憶の中より少しばかり柔らかくなったと感じる声が耳元に流れた。
もう何年もその声を聞いていなかったというのに、それでも変化に気が付けてしまった事に時の流れを感じた。
『……元気、してる?』
「……うん、まあ、元気よ。そっちは?」
『そうだな〜、まあ、割とブラックな会社で働いている自覚はある、かな?』
ゴリゴリの接客業で働いていると事前に聞いていたが、中々に大変な様子だ。
というか、記憶の中の彼女の姿はとても接客業などに向いているとは思えないほど虚弱だった気がする。
女子にしては身長が高かったが、それとは対照的に身体の線は細く、肌は心配になるほど色白だった時期もある。
運動部だった訳でも無いし、接客に興味がありそうな感じもしない。
だがよくよく思い出してみると、頻繁に人と話していた気はする。
少なくとも孤立している場面を見た事は無かった。
人から好かれていたのか、人を好いていたのか、はたまたその両方か。
体力的には厳しい面はあると思うが、それでも彼女が人と楽しそうに会話をする光景だけは容易く想像する事が出来た。
「なんの仕事?」
『まあ、あれだね、写真館で働いてる』
写真館か、なるほど。
土日は基本的に休みが取れない接客業と聞いていたが、そういう事か。
『そっちは?』
「……まあ、一応、SEだね」
『うわ!まじ?もう、勝ち組じゃん?』
……彼女はきっと現代日本のSEがどういうものか詳しくは分かっていないのだろう。
少なくとも俺が働いているインフラ系の分野では、システムエンジニアなど名ばかりの事務仕事をさせられる場合も少なくない。
大した知識が無くとも何とかなる、それでいて客先常駐という派遣契約の業務形態、いわゆる”SES”と呼ばれるものだ。
いま俺が働いている現場では専門的な知識を多少は使う場面もあるが、中にはコールセンターみたいなと所に配属される人間も居たりする。
まあそれもこれも知識を学んで専門的な現場へとステップアップ出来れば話は別なのだろうが、少なくとも今の俺は彼女の考える様なエンジニア像には当てはまらないだろう。
故に少しばかりの羨望の眼差しを向けられたのは胸の居心地が悪かった。
「全然、ほんとにそんな事ないよ。新卒ってのもあるけど、まだまだペーペーのガキんちょよ」
まあ、こんなことを彼女に説明しても簡単には理解されないだろうし、詳しく話す必要も無いと思い、それっぽく話を流す事にした。
『新卒って事は、四大卒?』
「ああ、まあそうだね。でも大した大学じゃ無いよ、名前書いて受かった様なもん」
『いやいや、それでも四大卒はすごいよ。私はこれ以上勉強はしたくないなって思って、一応専門だけ卒業して今の会社に入った』
「専門って事は、もうかれこれ今の会社に5年くらい居る?」
『そうなの!もう何回もこのブラック辞めてやろうと思ったけど!他にやりたい事も無いし、ダラダラと続けてるって感じ』
あの頃の様に、かは分からないが、何とか滞り無く会話は出来ている気がする。
というよりは彼女の会話力に助けられていると言っても過言では無い。
『そういえばさ、私A Iに聞いたんだよね、久しぶりに会う人と何話せば良いか。てかA Iって使ってる?なんか私の周りの友達みんな使っててさ、いっつもA Iと話してるって言ってて、私的にはなんで?って感じなんだけど』
少し緊張が解れたのか、彼女はやけに饒舌になった。
あまりの会話速度に内心は少し戸惑ってしまっていた。
「……いや、俺はあんまりA Iと話たりは無いかな。たまに仕事関係で使ったりはするけど」
『え、やっぱそうだよね?なんかA Iと話すくらいだったら自分自身と話すわってならない?私さ、自己対話大好きだからさ、なんか自分と会話した方が満足度高い気がするんだよね』
会話を交わす度に、段々とあの頃の記憶が蘇ってきた。
思い返すと、記憶の中の彼女もこれくらい饒舌だった。
誰とでも分け隔て無く接し、常に人との会話を楽しもうとする心持ちが伺えた。
笑顔は絶やさず、真剣な話は茶化さず、それでいてユーモアも忘れない。
その様子だけを見れば”陽キャ”と呼ばれる類な気もする。
だが彼女の本質が“そっち側”では無い事を俺は知っている。
というよりも彼女の内面がその類で無いからこそ、あの頃の俺たちは一緒に居られたのだと思う。
「……ああ、分かるよ、俺たちはきっと“こっち側”だから」
『……確かに、私たちは、そうだね』
始まりは何だったのだろうか、もうよく覚えていない。
彼女からは多くのものを教えて貰った。
ボカロ、アニメ、漫画、ライトノベル、アイドル、インターネット。
俺が知ったこれらの知識のほとんどは、思えば全て彼女がきっかけだった。
2010年代、オタクという言葉が一般にも浸透し始めた頃だったと思う。
彼女はその最先端を楽しんでいた。
その頃の俺はインターネットというものにあまり興味が無かった。
どちらかと言うと家で一人、黙々とゲームに没頭する様な人間だった。
休日になれば1日10時間は当たり前、目の前の画面で繰り広げられる熾烈な戦いに身を焦がすばかりの日々だった。
そんな生活が彼女と出会って一変した。
ネットに流れる文化に身を晒し、革新的な創作物を享受し続けた。
もしかしたら卑猥な知識ですらも、彼女から受け取ったものが幾つかあるかもしれない。
そのお陰か中学では割と多くの女子と仲良くなれた気がする。
そのほとんどは彼女と同じくオタク文化に浸かっている様な人間ばかりだった。
引き篭ってゲームに勤しむような俺にとっては、損得や偏見を抜きにして他人と好きなものを共有して楽しむ事が出来たのは良い経験だったと思う。
それでも中学のほとんどの時間を彼女と過ごしたのは事実だ。
席替えは仕組まれたかの様に幾度となく近しい席になり、2人きりでは無いにしろ部活終わりの下校はほぼ毎日一緒だった。
互いの恋愛相談も、教科書の貸し借りも、悩み事も、全部、全部が彼女との記憶だったと思う。
何故か彼女とだけはクラスの垣根さえも超えられていた。
『こっちにはいつ帰ってくるんだっけ?』
「来月の頭だね、有給を取って帰るつもり」
『休み取ったのは、月曜日?』
「今んとこ、その予定」
『分かった、土日は無理だけど、多分その日だったら私も休み取れると思う』
「じゃあ決まりだ」
予定が決まってからは、そのまま他愛も無い会話を続けた。
互いにハマっているゲーム、アニメ、漫画、まるで過去の空白を埋めるかの様に問と答を繰り返し続けた。
『てかもうこんな時間じゃん、アストロ〇ーアやって寝るわ』
彼女の口からは某サウンドボックス系ゲームの名前が出た。
俺もやらないかと勧められたが、この手のゲームにハマれた事は無かったため断った。
「じゃあモン〇ンは?」と某ハックアンドスラッシュゲームの最新策も勧められたが、ハクスラ系も昔にやったっきりのため、それも断った。
『なんだよ』と少し不満気な彼女は、それでも最後には元気に『おやすみ』の言葉をくれた。
俺は少しだけ申し訳なさそうにして彼女と同じ言葉を返した。
——————翌月——————
……緊張なのか、それとも実家という普段と違う環境の所為なのか、上手く寝付けなかった。
睡眠時間が4時間を超えてからは、少なくとも1時間ごとに目が覚め続けた。
加えて季節特有の急激な気温の変化で少し風邪っぽくなっている事にも気が付く。
目的の駅までバスの細かな揺れが自然と眠気を誘うが、それでも意識が遠のく程では無かった。
昨夜、ふと気が付いたが、これはもしかして世間一般で言う”デート”と呼ばれるやつなのかもしれない。
いや、俺の中だけの解釈の可能性もあるが。
何か目的があって、結果的に異性と二人きりになる事は何回かあるが、目的が”その人に会いに行く”のみの場合、それはもう”デート”なのでは無いか?
思い返せば、何か計画を立てて、異性と会うことだけを目的にしたのは、ひょっとすると高校の時の恋人以来かもしれない。
その証拠に特に二人とも行きたい所もなく、食べて話せれば良いくらいの感じで昼から営業している居酒屋に行く事だけがすぐに決まってしまった。
おまけ程度に午前中に映画を観る事になっているが、正直言って無くても良い位ではある。
とはいえ実際に顔を合わせるのは紛れもなく10年ぶりのため、アイスブレイクとしては映画もありか。
後の食事で話の種にもなる訳ではあるし。
……今になって急激に緊張と不安が襲ってきた。
上手く会話を交わす自信がだいぶ薄れてしまっている。
10年ぶりに携帯越しだが言葉を交わしたあの夜、彼女は少し孤独に悩んでいる様子だった。
裕福な実家、仲の良い姉妹、安定した職業、現代日本で見れば将来を不安がる要素は何一つとして無いだろう。
だがふと思い出す事があるらしい、このまま誰とも一緒にならずに死んでいくのかと。
別に今の生活に不満がある訳では無いと言う。
それはそうだろう、例え田舎とはいえ、彼女の親は農家と不動産業を営んでいる。
そこら辺の一般家庭よりはかなり高待遇な生活を親から享受しているのは事実だ
古い倉庫を潰して立て直した新築の家には自分専用の部屋を作って貰い、現在所有している自動車も就職の際に親から用意されたものらしい。
家族仲も良好で、特に妹とはよくゲームやら外出やらを楽しんでいると聞いた。
そんな彼女でも将来の事を考え、このままで良いのかと不安になる瞬間があるらしい。
とりわけ出不精が影響して男性とはだいぶ疎遠になっている様だ。
まぁ職場もどちらかと言うと中年以上が多いらしく、マッチングアプリとやらも一度だけ入れてやり取りの面倒さにすぐに辞めてしまったと聞く。
その話を聞いた時、俺は醜くも心の中で安心をしてしまった。
俺も今の生活をこのまま続けて良いのかと不安になる時が少なからずある。
周りは世間一般で言う幸せを掴み始め、俺一人だけが夢に取り残されている、まさにあの感覚。
正直言って劣等感や妬ましさから自我を保てなくなるんじゃないかと思う夜もある。
俺は間違っているのか?本当はこんなもの目指すべきでは無いのではないか?もっと幸せになれる手段があるんじゃないか?
そんな不安を「いや、俺にはこれしか選ぶ道は無かった」と説き伏せる日々だ。
故に不安そうにする彼女を見て安心してしまったのだ。
内容がどうあれ、孤独に恐怖する人種が手の届く距離に居た事に、また俺だけ取り残されているのではないか?そんな感覚を感じなくて済んだ事に。
同時に自分の小ささをすぐに恥じた。
醜く、みっともない、不浄と表現するのも烏滸がましい程の、塵にも満たない様な、この汚らわしい胸の奥を。
もうずっと、他人の幸せを喜べていない気がする。
口から出る言葉が、まるで自分のものでは無い様な感覚がずっと蔓延っている。
結局のところ、俺は誰一人として、他人のためには生きて来れなかった。
誰かの為に何かを成す事など何一つとして出来ず、ただずっと、自分の中にある復讐心だけで動く傀儡、それが俺自身への最も適切な評価だ。
そういえば一度だけ、紛れもない私利私欲の為だけに彼女に連絡をした事があった。
誰でも良かった、いや嘘だ、出来れば当時の俺の現状を知らない人間の方が良かった。
ただ、一言、背中を押してくれさえすれば、それで良かった。
だが彼女は当時の俺が沈んでいる原因をすぐに言い当てた。
その時ですらも中学を卒業して短く無い時間が経っていた。
俺の現状など、彼女が知る由も無かったはずだ。
その時、こいつにはもう敵わないのだと悟った。
同時に二度とこんな事は辞めようとも思った。
その時の自分も今と同じくらい酷く醜く見えたのをよく覚えている。
こんな、自分だけ他人の優しさを享受しようなど、まさに愚の骨頂。
俺は彼女に何もしてあげられていないというのに。
それからだったと思う、互いに疎遠になったのは。
少なくとも俺は幾度となく彼女に助けを求めかけた。
だがその度に感情を押し殺し、目の前の壁に目掛けて突撃を続けた。
もう二度と、あんな真似はしない様にと。
気が付くとバスは目的地であり終点である某駅へと到着していた。
寝不足気味の所為か立ち上がろうとすると足元が少しフラつく。
ああ、そういえば田舎のバスは降車時に支払いだったな。
俺は慌てて財布を取り出した。
————————————
ダメだ、じっとしていられない。
待ち合わせ場所の映画館前で彼女を待つ時間が酷くもどかしく感じた。
どんな見た目なのか皆目検討も付かないため、すれ違う人間を片っ端から凝視してしまう。
少なくともメイクを覚えて中学よりはいい顔をしていると冗談交じりに言われたが、顔の良し悪しなどどうでもいい。
問題は俺が気が付けるかどうかだ。
しばらくしても彼女はまだ来ない。
それはそうだ、明らかに俺が早く来すぎている。
少し疲れたなと思い、携帯の画面に目をやった瞬間、聞き覚えのある声が前方から聞こえた。
『あ、居た』
瞬時に顔を上げる。
そこに立っていたのは俺が想像した様な彼女の姿ではなかった。
『久しぶり』
そう言う彼女の髪は見事な金色に染まり、小雨が降っているというのにヘソが見えてしまいそうなほど丈の短い薄着でこちらを見つめていた。
ギャ、ギャルになっている……!!!
これ、本人か?いや、間違い無い、メイクしているとはいえ目元がそっくりだ。
記憶の中では少し丸かった顔の輪郭はくっきりとし、身体の線はより一段と細くなっている気がする。
と、とりあえず、まずは挨拶を……。
「……久しぶり」
上手く声を出せたか定かではないが、何とか意思は相手に伝わっている様だった。
「それじゃあ、行こうか?」
俺たちはぎこちなく映画館の中へと向かって行った。
————————————
思い返せば彼女は中学生にして、今で言う地雷系?というのだろうか、そんな私服を着ていた気がする。
いや、あれはゴスロリか?よく分からないがそんな雰囲気だった。
そのため俺の中での彼女の服装は社会人っぽく綺麗めなコーデになっているか、逆にオタクを拗らせてもっと痛い?感じになっているかの二択だった。
それがまさかギャルで来るとは。
いや、田舎ではこれが大人っぽいのか?そもそもギャルの定義ってなんだ?
分からない、もう田舎の事は何一つとして分からない!
そんな心持ちで俺は上映スクリーンを眺めていた。
だが落ち着いてこんな事を考えられていたのは最初だけ、なんせ今日の俺たちは4DXでの鑑賞だからだ。
内容は昨今話題の二等身キャラによる某アニメ映画、画面の中のキャラクターがちょっとでも跳ねる度に席が脈打つように揺れる揺れる。
もはやジェットコースター並みの揺れに二人して笑いが堪え切れなかった。
途中の猛烈な尿意に耐えながらなんとか上映を見終わると、俺たちはそのまま目的の居酒屋へと歩いて向かった。
だがここで雑に立てたプランの弊害が出たか、目的の居酒屋はまだ営業を開始していなかった。
この時間であれば確かに営業している事を確認したはずだとウェブを見返すと、俺たちが見ていたのは休日の営業時間で、平日は営業開始が微妙に遅いのだとそこで気が付いた。
仕方が無いので駅内部に構えられた大衆寿司屋に入る事にした。
改めて互いに一息付きながら、電話越しでは語り切れなかった話の続きをした。
共通で好きなアニメの推しキャラ、最近聞いている音楽、ペットの話から、体型の話までも、思いついた事は何でも話した。
会う前は不安で仕方が無かったが、話し出すと本当にあの頃に戻ったのかと錯覚するほどに言葉が大量に湧き出した。
まるで10年の空白など存在しなかったかの様な、自分でも驚くほど自然体で居る事が出来たのだ。
そういえば今朝、地元近くの市が核のゴミ最終処分場の候補地として手を挙げたというニュースを見た。
日本で5件目、本州では初の事らしい。
市の意向としては限界集落化しつつある現在の市を保つためには金が要るとの事だ。
今回の候補地として第一段階の調査をするだけで、なんと国から最大20億円が市に支払われるらしい。
同じ県民として地元が核の廃棄場になる事を手放しに喜ぶ事は出来ない。
だが同時に、いつか、誰かが、必ずやらねばならない事だとも思う。
手を挙げた市だって断腸の思いがあったことだろう。
生き残るためには仕方が無い事もあるのだろう。
そう、仕方が無かった、俺たちが今まで疎遠になっていたのは仕方が無い事だったんだ。
俺は昨夜までそう思い込んでいた。
だがこれはきっと違う。
あいつが10年ぶりに連絡をくれた時、俺らはもっと早くに会えたんじゃないかと思えた。
今の俺はその矢印が自分へと向いている。
俺はもっと早くに連絡をすべきだった、こんなにも時が進んでしまう、その前に。
あいつに思い出させられる、もっとその前に。
そろそろ店を出ようかという所で俺はトイレへと立った
戻ってくると彼女は二人分のお茶を入れて待っていてくれた。
久しぶりに温かい飲み物を口にした。
その熱さで自分が猫舌なのを思い出す。
その後、彼女もトイレへと立って行った。
スムーズに退店出来る様に、この隙に支払いを済ませた。
しばらく互いに温くなったお茶を片手に話を続け、頃合いを見て店を出た。
いつの間にか支払いが終わっていた事に彼女は驚き、自分の分は出すと俺を引き留めた。
俺は「いつ払ったんだろうね?」なんて軽口を叩きながらそれを拒んだ。
昔の俺だったらこんな事は言えなかっただろう。
……今でも稀に思い出す、一度だけ彼女から下の名前で呼んで欲しいと言われたことがあった。
確かに彼女の周りは男子・女子問わず下の名前で互いを呼び合っていた。
彼女とは小学校が別で中学校から同じになったため、彼女が居た小学校ではそれが普通なのだと思っていた。
だが当時の俺は女子を下の名前で呼ぶ事に謎の抵抗があった。
それは慣れない文化への拒否反応なのか、はたまた気恥ずかしかっただけなのか、今となっては分からない。
だが少なくとも俺が彼女を下の名前で呼ぶ機会は終ぞ来なかった。
そんな自分がエスコート紛いの事をしている姿に、「ああ、やっぱり俺は大人になってしまったのだな」と少しの絶望を感じた。
「……そろそろ、バスの時間だ」
『そうなんだ、じゃあ、ここでお別れだね』
「……あのさ、もう少しだけ、歩かない?」
俺は残りの時間を彼女と駅付近を歩く事にした。
彼女は快く了承してくれたものの、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、少しだけ表情が重そうだった。
「……あのさ、なんて言えば、良いんだろ」
『……うん』
言葉が上手く出てこない俺を、彼女は急かす事なく待っていてくれた。
別に言ってしまえば大した事でも無いのだが、それでも俺の中では勇気の要る事だった。
だが今日はこれを伝えるためだけに彼女を誘ったと言っても過言では無いのだ。
俺は交差点の手前で足を止めて、彼女の方を向いた。
「……あのさ、俺、今はバンドで曲を作ってるんだ。部活とは別でメンバーを集めてさ、そいつらと一緒になって、良い曲作ろうぜって」
『……おおー、凄いじゃん』
「……小説も、書いているんだ」
『あ、そうなの?結構マルチだね』
「ボカロも作ってる、いつかは自分の作品で同人も作ってみたいと思ってる」
『え、めちゃめちゃやってんじゃん(笑)』と彼女は笑う。
だが俺は真剣な表情のまま話を続けた。
「……それでいつか、飯を食える様になりたいと思っている。それが、今の夢なんだ」
『……そっか、良いね』
「……きっかけは、全部、君だった」
『……え?』
「……全部、あの時に君が俺に教えてくれた事ばかりだ。もし君と出会っていなければ、今の俺は存在していない。一度全てを失った俺が、こうしてまた夢を掲げられたのも、全部、本当に全部君のお陰なんだ。今日はそれだけを伝えたかった」
彼女は一瞬だけ驚いた顔を浮かべたが、すぐにいつもの笑顔に戻って言葉を発した。
「……じゃあ、責任重大じゃん、私』
「……ああ、そうだよ、重大だ。なんせ君は、俺の人生を変えたんだから」
少しだけ沈黙が流れた。
だが不思議と居心地は悪くなかった。
「じゃあ、バスが来るから、行くよ」
『……うん、また時間があったら飯でも行こうよ。そんで話、聞かせてよ』
「……ああ、そうだね、そうしよう」
そうやって俺は交差点の横断歩道を渡ろうとした。
『またね!』
瞬間、その声と共に彼女が満面の笑みで俺に手を振った。
少し離れた所から見る今の彼女の姿に、昔の幼い面影は殆ど残っていない。
だがその満面の笑みだけは、あの頃から何一つとして変わってはいないと感じた。
「ああ、また!」
俺も横断歩道を渡りながら半身になって彼女へと手を振った。
あの頃と同じ様な笑顔を、俺も浮かべられていたのなら、それが一番良いと思うばかりだった。
「落日/東京事変」




