第95話 home spice home
霞ヶ関の地下、厚い鉄扉が閉ざされた会議室。
蛍光灯の光は青白く、誰の顔色も悪く見える。
壁一面のモニターには、異世界から届いたとされる《上位存在チャンネル》の映像が繰り返し流れていた。
モニターの光の中で、男が笑っている。
その口元が、まるで画面越しにこちらを嘲っているように見えた。
誰もが沈黙していた。
時計の針の音が、やけに大きく響く。
空調の低い唸りが、まるで地の底の呼吸のように重く漂っていた。
配信開始からバズるまで、わずか三時間。
すでにSNSのトレンドは世界中で炎上している。
“異世界の神の実況配信”。
その文言だけで、各国の通信網が同時に震えた。
「…で、このなんとかパトローナムだっけ?」
不意に沈黙を破ったのは、中央の席に座る大臣だった。疲れ切った顔で眼鏡を押し上げ、苦笑とも諦めともつかぬ声を漏らす。
「タイムパトロールです、大臣」
隣の官僚が、ため息を混ぜて訂正する。
その声には緊張と苛立ちが入り混じっていた。
「そいつがEWSで配信していた内容の信憑性はどうなんだ?」
「当初我々がEWSを開発していたときの懸念点と一致しております」
淡々とした声が響いた。
真宮カオリ。EWS開発チーム、いわゆる初期メンバーの女。
彼女の背筋はまっすぐで、疲労の色すら見せない。ただ、長年この計画を知る者だけが持つ“覚悟”が滲んでいた。
「うーむ。もう一度説明願えますかな?」
大臣の問いに、真宮は静かに頷く。
モニターを指先で示しながら、抑揚を抑えた声で言った。
「今まで異世界側で度々登場していた、我々は脅威と読んでいる個体があります」
「魔獣とは違い、異世界側の意思といいますか、世界の防衛機能が具現化した存在と認識しておりました」
会議室の空気がわずかに揺れる。
“防衛機能”という言葉に、何人かの官僚が小さく顔を見合わせた。
「観察の結果、ですか?」
「いいえ、帰還者からの知識です。そのため我々は異世界側に渡るのではなく、盗み見るという手段を確立しました」
短く、だが強い言葉。
“渡る”ことの危険を、彼女はよく知っていた。
「その脅威をなんらかの形で複数回撃退した結果、意思の疎通を図る個体が登場した、ということですかな?」
「はい。ただ、EWSを逆手に取って配信をしてくるのは前代未聞です」
真宮の声がわずかに震えた。
画面の向こうで笑う“それ”は、もう単なる異世界の存在ではない。こちらを見て、こちらの世界を認識している。
官僚が椅子を引き、かき集めた資料をめくる。
「過去にも警告といった形で極秘に配信やコンタクトがあったのでは?」
「そのような記録は確認できませんでした」
大臣は腕を組み直した。皮肉を込めたように笑い、低く呟く。
「…で、こちらの世界からなんらかの形で異世界に渡った人物がいる、と」
「渡った人物やクラヴァルが現実世界側に来た結果、結びつきが強くなり、二つの世界が時空間的に近づいてしまったようです」
“結びつき”という言葉が落ちた瞬間、室内の温度が下がった気がした。物理では説明できない領域に、誰もが足を踏み入れ始めている。
「信憑性は?フェイクではないのですか?画面の中なら好きに言えるでしょう?」
官僚が笑いを交えて言うが、その笑いは乾いていた。真宮はわずかに視線を伏せ、冷静に返す。
「ありえなくはないのです。そして二つの世界の“当たりどころ”が悪ければ正面衝突、つまり対消滅するほどのエネルギーのぶつかりが起こります」
空気が凍りついた。
誰もがその言葉を理解できた。
それは“終わり”を意味していた。
「そして二人をどうにかしたところで、もう止まらない、と主張しているわけですな」
「もう政治でどうにかできる問題ではないですよ」
静かな絶望が漂う。官僚たちの間で、紙をめくる音さえ響かない。
「パニックにならないようにするのが政治の仕事だろう」
大臣の声には苛立ちが滲む。だがその目には、恐怖の色も見えた。
真宮は一呼吸置いて言った。
「おそらくですが、どうにかできる人、組織に向けて配信してるかしれません」
「どういうことですか?」
官僚が眉をひそめる。
「…そんなオカルトチックな」
大臣が口を挟んだ。
その言葉が出ること自体、すでに“理屈が破綻している”証拠だった。
「では大臣…定例会見ではどのように」
官僚の声は震えていた。
大臣はわずかに目を細め、吐き捨てるように言った。
「ありえない、ぶった切る、以上だ」
その瞬間、モニターの光がひときわ強く瞬いた。
画面の中で、トレンチコートの男がこちらを見たように見えた。
♢
夜の住宅街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
テレビからはニュース番組の特集が流れている。
キャスターが冷静を装いながらも、声の端にわずかな震えを残している。
《異世界の上位存在チャンネル、世界同時視聴者数が一億を突破しました》
ユウの家のリビングでは、蛍光灯の光が柔らかく壁に滲んでいた。カーテンの隙間から月の明かりが差し込み、食卓の上に白い影を落とす。
父と母、そしてユウの三人。
食器は片づけられ、テーブルの上には温くなったお茶が三つ。
外の世界では各国が緊急会議を開いている。
――世界の命運が語られるその裏で、
一つの“家族会議”が、静かに始まろうとしていた。
食卓を囲む三人の間に、微妙な沈黙が漂っていた。
母親によってテレビの音は消され、聞こえるのは冷蔵庫のモーター音と、外を通り過ぎる車のタイヤの擦過音だけ。
母親の指先が湯呑みの縁をなぞり、ユウはその動きをぼんやりと見つめていた。
父親が、ゆっくりと口を開いた。
「母さんから大体は聞いている」
「非行に走っているとは思えなかったが、まさか異世界でヤンチャしているとはなぁ」
ユウは思わず顔を上げた。
父親の声には叱責の色はなく、むしろ苦笑に近い。呆れと信じられない気持ちの中間にあるような、複雑な響きだった。
「ヤンチャって……」
ユウは小さく抗議する。けれどその声は弱く、反論というより照れ隠しのように聞こえた。
父親は椅子の背にもたれ、腕を組む。
「父さんもEWSの配信見たぞ。なんだあのヤバいやつ。言ってること本当なのか?」
「俺にも同じ事言ってたよ。本当なんだと思う」
ユウは俯いたまま答えた。
どこか遠くを見るような目。自分が異世界にいたあの感覚が、まだ身体の奥に残っている。
父親は短く唸った。
「……ふむ」
その表情は、厳しさではなく、ただ純粋に“考えている”顔だった。
長年サラリーマンとして生き、数字と報告書でしか世界を測ってこなかった男が、初めて“現実では説明できない出来事”と向き合っている。
沈黙の間に、母親が口を挟んだ。
「お父さん?」
問いかける声には、不安と優しさが混ざっていた。
「…あの口っぷりからすると、本当だったとしても今すぐ、今日明日といったリミットではないだろう」
父親は小さく息をつき、天井を見上げた。
冷静さを取り戻そうとするように。
「どういう事?」
母親の声が震える。
父親は、ゆっくりとユウを見た。目の奥に、かすかな覚悟の光が見える。
「ユウ。何か考えてるんだろう?言ってみなさい」
ユウは一瞬ためらい、唇を湿らせてから答えた。
「異世界にいれば、多分“その時”っていうのがわかるんだ」
「だから、その時になったら」
ユウは父親の目をしっかり見つめ答えた。
「バインドで躱す」
その言葉に、母親が目を丸くした。
「ユウ?お母さんにもわかるように説明してくれる?」
ユウはうつむき、手の中で指を絡める。
説明しようとしても、理屈が現実の言葉にならない。ただ、あの“光”を思い出すだけで胸が締め付けられた。
沈黙を破ったのは、父親だった。
「なるほど……質量の概念が存在する前に座標を一瞬ずらすわけか」
「ねえ、ちょっとお父さん??」
母親が呆れたように言う。
彼の口調は、まるで研究者のようだった。ユウも父親が元々理系の出身とは聞いていたが、理解の速さにユウ自身がついていけていなかった。
父親は数秒間、何かを考えるように目を閉じた。
やがて、パッと立ち上がり、声を上げる。
「よし!俺にできることがないことはよく分かった!母さん出かけるぞ!」
「父さん!?」
「お父さん!?」
ユウと母が同時に声を上げた。父親はニヤリと笑い、スーツの上着を掴む。
「ユウ。会わせたい人ってのがいるんだろう?」
唐突な言葉に、ユウは一瞬きょとんとした。
「…は?」
「さぁ母さん!家族旅行だ!」
「行き先は異世界だけどな!」




