第9話 ヘンカクノトキ-1-
夜の空気はぬるく、けれど頬には何かが触れている気がした。
窓の隙間から流れ込む風は弱々しく、街灯に照らされた埃の粒がふわふわと漂っている。
ユウは自分の部屋、ベッドの上で膝を抱えていた。背中を壁に預け、スマホを手にしたまま、ぼんやりと画面を見つめている。
カーテン越しの橙色の光が部屋を染め、壁際に置かれた本棚や机をうっすらと浮かび上がらせていた。
天井の隅では換気扇の微かな振動が響き、どこか遠くで救急車のサイレンがかすかに聞こえる。
何も起きない夜。
けれど、胸の奥だけは静まらなかった。
昨夜の出来事──あのエメラの配信。
それは突然のブラックアウトで終わった。何の予兆もなく、映像も音声もぷつりと途切れ、味気ない終了画面だけが残された。
それなのに、耳の奥には──いや、もっと深いところ、胸の奥底には、あの声が焼きついたまま離れなかった。
誰の声だったのか。なぜそんなに胸を締めつけるのか。
理由すら曖昧なのに、それでも確かに思った。
──あの瞬間、誰かが消えた、と。
SNSでは今もなお軽いノリの話題で溢れていた。
「演出だった説ある」
「中の人、引退なんじゃね?」
「さすがに倫理BANだろw」
流れていく文字列は軽薄で、無責任で、それでいて残酷だった。
ユウは画面をスクロールしながら、乾いた息を吐く。
(それが“演出”なら、どっちの世界のほうが嘘なんだよ)
検索をかけても、もうエメラの痕跡は一切残っていなかった。
アカウントは消え、フォローリストにも名前はない。
関連ワードも消去されたかのように空白で、まるで人々の記憶からも強制的に抹消されているようだった。
冷たいアルゴリズムの指先が「忘れろ」と命じているみたいで、背筋に薄ら寒さが走る。
アーカイブを探そうと指を動かしかけるが、ユウは自然と手を止めた。
──見返しても、意味がない。
あの最後の瞬間、画面が消える直前に聞こえた“何か”は、記録の中ではなく、自分の中にしか残っていない。
耳鳴りのように鼓膜の裏で鳴り続け、忘れさせてくれない。
「届いていたかどうか、じゃない。……それで、自分は何をするのか」
思わず声に出した瞬間、スマホが震えた。通知がひとつ、画面の上に浮かぶ。
──Rize_channel_042:接続確立済み──
「?……ライブ中、じゃない……?」
眉をひそめる。通常なら“配信中”と表示されるはずだ。
それが今回は、接続確立済み。
アプリのUIも、どこか見慣れない。
背景は薄い灰色に沈み、白抜きの文字が不気味に浮かんでいる。
ボタンの配置も違う。アイコンは小さく、輪郭は滲み、まるで開発途中のテスト版に迷い込んだような既視感のないレイアウトだった。
無音のタイムラインが勝手に更新されていき、通知欄には意味のない文字列がちらつく。
(……なんだよ、これ)
ユウは違和感を覚えながらEWSをタップした。
視聴ページはただの白い画面だった。
“読み込み中”のマークもなく、ただ無機質な空白だけが広がっている。
「……こんな表示……前はなかったよな……」
呟いた直後、画面が自動で暗転する。
ユウは驚いてスマホを握り直す。フロントカメラが一瞬だけ起動し、わずかにレンズのアイコンが光ってすぐに消えた。
代わりに画面端に小さなノイズ混じりの文字列が浮かぶ。
──視線方向:未同期──
──cache_sync/err──
次の瞬間、スピーカーから風のような音が漏れた。
街のざわめきとも、通知音とも違う。耳元で囁くように、けれど確かに“向こう”から吹き込む音。
心臓が強く打ち、喉が渇いた。
草原を歩く少女の姿。
廃村での戦闘、荒い息遣い、夜の洞窟。
画面越しに見てきた断片が脳裏に甦る。
偶然だと笑い飛ばすには出来すぎていて、確信するには根拠が足りない。
だからこそ──その曖昧さにユウは救われ、同時に惑わされ続けてきた。
届いていたのか、いなかったのか。
彼女が本当に“こっち”を見ていたのかどうか。
けれど、あの声だけは、本物だったと信じたかった。
ユウは静かに目を開け、もう一度スマホの画面を見つめる。そこには誰も映っていない。けれど、確かに名前が浮かんでいた。
──リゼ。
彼女はまだあの世界で生きているのか。
それとも、エメラのように突然消えてしまうのか。胸が詰まり、呼吸が震える。
「リゼ……届いてくれ」
小さく呟いた瞬間、画面が切り替わった。




