第87話 ヴァルカナイズ
朝の通学路。
アスファルトを踏みしめる靴音や、自転車のベルの音が混じり合い、制服姿の生徒たちの談笑が絶え間なく響く。
その光景はいつもと変わらないはずなのに、ユウにはどこか遠く、現実感のないものに映っていた。
(……全部、違う世界の音みたいだ)
石畳を駆ける騎士の足音や、リゼの叫び声がまだ耳に残っている。そう思えば思うほど、通学路の笑い声は異様に浮いて聞こえた。
校門をくぐり、昇降口を抜けて教室に入る。ざわつく教室の空気はいつもの朝のそれだ。だがユウにとっては、どこか作り物の舞台のようで居心地が悪かった。
「よう、また切り抜きバズってるな!見た?」
不意に声をかけてきたのは春川だった。机に腰を掛けて、無邪気な笑みを浮かべている。
心臓が跳ねた。ユウは慌てて視線を逸らしながら椅子に鞄を置いた。
「見れるわけないじゃんか」
「マジで《ユウ》って城野、お前のことなのか?」
春川の声は半分冗談、半分本気の好奇心で揺れていた。
ユウは机の端を指先で強く押さえ、肩をすくめて笑った。
「そうだったら、どうする?」
春川は「冗談だろ」と笑い飛ばした。その場はそれで流れたように見えた。だがユウの内心では、氷の針のようなものが胸に突き刺さり続けていた。
(……平気な顔をしろ。普通にしろ。ここでは、何も知らない顔を……)
頭では分かっている。けれど心臓は暴れ、耳の奥ではまだコメント欄のざわめきが残響している気がした。
クラスメイトの笑い声は、日常の象徴のはずなのに。ユウにとっては、異世界と現実を隔てる残酷な乖離を突きつける響きにしか聞こえなかった。
♢
放課後のチャイムが鳴り、教室にいた生徒たちが一斉に席を立つ。
机を寄せ合う笑い声や部活動に急ぐ足音が消えていく中、ユウは机に突っ伏したまま、ただ時間をやり過ごそうとしていた。
「城野、ちょっといいか」
声が背後からかかった。顔を上げると、真宮先生が教室の入り口に立っていた。
他の生徒たちはその視線を避けるように散り、やがてユウだけが残された。
職員室とは別の小さな準備室に案内される。
窓の外は夕焼けに染まり、影が長く伸びている。机の上には分厚い資料の束と、赤ペンの散らばったノート。
教師の日常の匂いが、ユウにはやけに懐かしく思えた。真宮は扉を閉め、振り返ると、正面からユウを見据えた。
「城野。クラヴァルの配信に映り込んでいたのは君だな?」
ユウの喉が鳴る。呼吸が浅くなり、返事が遅れる。先生の声は容赦なく続いた。
「配信は中断したが間に合わなかった。また騒ぎに火を焚べる形になったな」
淡々とした指摘が胸を抉る。ユウはうつむき、手を握りしめた。
「帰還者の店や異世界に行くのは自由だが」
「君の本分は学生だ。出席や課題の提出など、私との約束はどうしたんだ」
叱責というより、教師として当然の問いだった。だがユウにはその言葉が、異世界と現実をつなぐ鎖のように重く響いた。
「先生……俺のせいで……」
堰を切ったように声が漏れる。
「俺がクラヴァルを星嶺さんに合わせたから……」
「???」真宮の眉がわずかに動いた。
「俺が二人を合わせたから、俺たちの問題だったのに、クラヴァルを庇って!」
言葉の意味を整理する前に、ユウの瞳が潤み、熱が込み上げる。
「星嶺さんは……最後に俺たちを守って……消えたんです……!」
机の上に涙が落ちる。肩が震え、嗚咽が抑えられなかった。真宮は立ち尽くし、目を伏せた。
「なんてこと……おじさまが……そんな」
教師としての顔の裏から、ひとりの人間としての動揺がにじむ。
涙を拭うこともせず、ユウはさらに告げた。
「……それだけじゃない。TPが言ったんです。『対消滅』が起こるって」
その言葉に、真宮の顔が一瞬強張った。
「それは……嘘ではない」
声がかすれていた。彼女の掌が震え、机に置かれた赤ペンがわずかに転がる。
「城野」
「そのタイムパトロールと名乗った存在の意見と、私の推測は同じだ」
その言葉は教師の説得でも慰めでもなく、研究者としての冷たい事実だった。
夕焼けの光が二人の間に差し込み、静かな部屋にユウのすすり泣きだけが響いた。
ユウの涙が落ち着くのを待つように、真宮は静かに椅子に腰を下ろした。
しばしの沈黙のあと、彼女は低い声で切り出す。
「城野。ここが踏ん張りどころだ。ここで挫けるわけにはいかない」
ユウは顔を上げる。赤く腫れた瞳に、まだ涙の跡が残っている。真宮の声は穏やかだが、その奥には必死さが滲んでいた。
「SNSには君を応援する声もある」
「君が一人じゃないと、あのコメントたちが証明している」
机の上にスマホが置かれた。画面には、途切れることのないタイムラインが映し出されている。
《ユウを守れ》
《彼は仲間だ》
《声が震えてた、必死だった》
その文字列が流れていく。
「私も君を応援したいという気持ちは変わっていないよ」
真宮は言葉を強め、ユウを見据えた。
教師として、そしてひとりの大人としての誠意がそこにはあった。
♢
けれど、ユウの心にその真意はまっすぐには届かなかった。
「……応援……」と小さく呟いた唇が、わずかに歪む。
胸の奥で、別の響きに変換されていく。
――俺は正しい。
――俺には味方がいる。
――世界がどうなろうと、俺を応援してくれる人がいる。
鼓動が速まる。涙で濡れた瞳に、妙な光が宿る。
「……そうか」
ユウはゆっくりと頷いた。
「世界がどうなろうと、俺を応援してくれる人がいるんだ」
真宮の表情が揺れる。
その言葉の受け取り方が危ういものであることを直感したが、すぐに否定はできなかった。
今ここで支えを失わせることは、彼をさらに深い孤独へ突き落とすと分かっていたから。
「……城野」
呼びかける声はかすれた。だがユウはもう窓の外を見つめていた。夕闇が街を覆い始め、赤から青へのグラデーションが空を染めていく。
その光景は、ユウの胸に奇妙な昂揚を芽生えさせていた。孤独と恐怖のはずが、今は「選ばれた存在」であるかのような錯覚に変わっていく。
(そうだ。俺を見ている。俺を応援してくれる。なら――)
彼の心の奥で、歪んだ確信が芽吹いた。
ユウは静かに笑みを浮かべた。
その笑みは、これまでの少年らしいものではなく、どこか凍りついた影を帯びていた。
次に踏み出す一歩が、もはや後戻りのできない道へと繋がっていることを、本人はまだ知らなかった。




