第83話 ジキルとハイド
灰色の画面がモニターを覆った。
中央に浮かぶのはEWSのロゴと、無機質な定型文。
【本配信は倫理規定に抵触したため中断されました】【詳細は開示されません】
スタジオの安堵するようなざわめきが部屋を満たしていた。コメント欄の炎のような流れが強制的に消え、代わりに冷たい沈黙が落ちた。
だが、コントロールルームの奥では別の映像がまだ生きていた。制御卓に並ぶ内部モニターには、夜風に揺れる草原が映り続けている。
倒れたクラヴァル、治癒を続けるロア、剣を構えたままのナズ──。
遮断は“表向き”に過ぎず、運営内部では観測が継続されていた。
「視聴者側は切断完了」
オペレーターの一人が乾いた声で報告する。
目の下には深い隈、モニターに映る光を映した瞳は濁っていた。徹夜明けの体に、予期せぬ突発配信が追い打ちをかけたのだ。
「本部から通達っス」
別のオペレーターが紙片を持ち上げる。
印刷された文字は短く、だが重みを帯びていた。
──【映像に映り込んだ人物の正体を突き止めろ】。
「やっぱり来たか……」
誰かが低く呟き、空気がさらに重くなる。
技術班がすぐに動き出す。
ノートPCを抱えて席を渡り歩く者、音声波形を並べて照合を始める者。
モニターの前にはケーブルが散乱し、指示と報告の声が飛び交った。
「解析班、音声データを回せ!」
「映像からシルエット出して、拡大!」
灰色の画面の裏で、別の戦いが始まっていた。
♢
「音声解析、始めますね。サンプル抽出完了、言語は──まぁ分かる通り、日本語です」
「聞けば分かる。国内に限定できるな」
責任者が短く指示を飛ばす。
数人のスタッフが頷き、端末に向かって指を走らせた。
モニターには波形が並び、声紋のラインがいくつも重なっていく。拡散した切り抜き動画からもデータを吸い上げ、補正をかけながら比較。
「周波数のクセがはっきり出てる。マイクの感度わりかしよかったな」
別の班は映像を扱っていた。
草原の暗がりに浮かんだ少年の後ろ姿を切り取り、体格や髪型の特徴を抽出する。
「これ、背丈からして高校生くらいじゃね?」
「骨格比率はほぼ成人。けど、声の感じはまだ幼いな」
緊張感漂う中で、不意に軽口が飛ぶ。
「で? 正体が分かったらなんかいいことあるの?」
「査定にはプラスになるんじゃね? ボーナスに響くとか」
数人が乾いた笑いを漏らしたが、すぐに視線を戻す。笑いは冗談というより、張り詰めた神経の逃げ場に過ぎなかった。
真宮カオリは黙ってその会話を聞いていた。
表情はいつもの研究者の仮面。
だが心臓の奥が、音声波形と同じリズムで脈打っていた。
──今の声は、城野に違いない。
確信に近い直感が、胸を掴んで離さない。
だが唇は閉ざしたまま。
ここで名前を出せば、彼の人生は確実に終わる。
研究者としての義務と、教師としての責任がせめぎ合い、彼女の喉を塞いでいた。
「候補者リストをアップしろ!」
責任者の声で会議室が再びざわめく。
ネット上にある膨大なデータからヒット・アンド・アウェイを繰り返していた。
真宮はペンを握りしめ、視線を落とした。
紙に触れる手が震えているのを、誰も気づかない。
♢
昼下がりのテレビ画面が、明るいスタジオの光で埋め尽くされていた。
司会者がにこやかにカメラを見つめ、手元のフリップを掲げる。
「最近はネットも大分進化してまして、いろんな動画や配信サービスがありますよね」
アシスタントが大げさに頷き、声を弾ませる。
「そうなんですよ!」
「そんな中で一際注目を集めているサービスがこちら、Echoes Watching Systemなんですねー」
画面下には派手なテロップが流れる。
《異世界から生配信!? 若者に大人気EWS》
司会者がフリップをめくる。
「どうやらこちらのアプリ、異世界からの配信を見ることができるらしいのですが……」
スタジオに笑いが起こり、コメンテーターが肩をすくめて言う。
「そんな嘘か誠かわからんもんに、皆よぅハマってますなぁ」
軽口混じりのやり取りに、明るいBGMがかぶさる。だが、次に流れたVTRの空気は一変した。
【映像をご覧ください──】
画面に映し出されたのは、荒れた草原に横たわるクラヴァルの姿だった。額に汗を浮かべ、治癒の光を浴びながら、意識なく眠るように見える。
その隣には俯いた少年の後ろ姿。
そして、ノイズ混じりの声が何度もリピートされる。
『……俺が……呼んだから……』
スタジオに一瞬、気まずい沈黙が走る。
すぐに司会者が言葉をつなぎ、笑顔を保とうとする。
「えー、ただいまご覧いただいたのは大人気チャンネル?のクラヴァルさんの配信に映り込んだ“謎の影”ですね」
「ネットでは大騒ぎになっております」
リモコンを握っていた主婦の手が止まった。
城野ユウの母親だった。
洗濯物を畳みながら何気なくつけていたテレビ。
最初は軽い気持ちで聞き流していた。
けれど、その声が流れた瞬間、心臓が強く跳ねた。
「……え?」
畳みかけるようにリピートされるユウの声。
角度を変えて編集された映像に、息子の背中の輪郭。
胸の奥に冷たいものが広がり、指先から血の気が引いていく。
「ユウ?」
声にならない呟きが漏れる。
笑い声の残るスタジオと、リビングの静寂。
その落差が、彼女をさらに震えさせていた。
ユウの母はリモコンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
テレビ画面から流れ続ける切り抜き映像。
少年の声は、何度聞いても息子のものだった。
「……偶然よね……」
かすれた声で自分に言い聞かせる。
「似てるだけ、そう、偶然よ……」
だが否定すればするほど、胸の奥で確信が膨らんでいく。あれはユウだ。
母親だからこそ分かってしまう。
頭の中が真っ白になり、洗濯物が膝から崩れ落ちた。
問いただすべきか。
学校から帰ったら正直に聞けばいいのか。
それとも、こんな話は信じてもらえないだろうか。
「どうすれば……」
唇が震える。
そのとき、インターホンが鳴った。
「……!」
心臓が大きく跳ねる。
足が勝手にすくみ、しばらく玄関に向かえない。
もう一度、短くチャイムが響く。
意を決してドアを開けると、そこには黒いスーツの男たちが立っていた。
整然とした立ち姿、無表情に近い顔。
胸元には見慣れぬバッジ。
「失礼します」
「防衛省、異世界特別対策チームの者です」
低い声が告げる。
母親は息を飲んだ。
「城野ユウ君について、お話を伺いできますでしょうか」
耳の奥で血の音が鳴り響く。
喉が渇いて言葉が出ない。
振り返った先、テレビではまだワイドショーが続いていた。コメンテーターが笑顔で言う。
「結局、この“謎の少年”は誰なんやろうねぇ」
リビングと玄関、ふたつの光景が重なり、母親はその場に立ち尽くした。




