第78話 Revelations and a Man
遺跡の空気はひんやりと湿っていた。
崩れかけた壁には斬撃の跡が走り、床の石畳には焼け焦げた黒がまだ残っている。激しい戦闘があったのは間違いなかった。
リゼは足を止め、息を詰めて周囲を見回す。
だが、おかしい。魔物の死骸が一体もない。血の痕も、折れた武器も落ちていない。
戦いの痕跡だけが残され、肝心の当事者は影も形もないのだ。
石畳の中央には、淡く光を帯びた陣が描かれていた。
そこだけがまるで清掃されたかのように整っており、砕けた瓦礫や埃すら寄せつけない。
「……ここだ」
リゼは低く呟く。ジャスクの三人が消息を絶ったのは、この陣を境にしてだろう。
「リゼ、やめろ!」
背後から声が飛ぶ。同行してきたハイクラス冒険者たちが、険しい目で彼女を制した。
「転移系の罠かもしれん」
「下手に踏めば、お前まで消える!」
だがリゼは首を横に振った。
「でもジャスクのみんながここに消えたなら!」
「確かめなきゃ」
彼らの止める声を背に、リゼは一歩、また一歩と進み出る。
光を放つ陣が足元に広がり、その瞬間、眩しい閃光が全身を呑み込んだ。
彼女の姿は、跡形もなく掻き消える。
♢
まぶたを開けたとき、リゼは言葉を失った。
そこは遺跡の延長ではなかった。
天も地もなく、上下の感覚さえ曖昧な空間。
淡い靄の光が漂い、足元は確かに硬いはずなのに影を落とさない。
息を吸えば冷気が肺を刺し、吐くたびに白い霧が口から散った。
「……ここは?」
リゼの耳に、聞き慣れた声が届く。
「リゼ!」
振り返れば、そこに立っていたのはユウだった。
傍らにはクラヴァル。剣を抜いたまま、こちらを睨むように構えている。
「ユウ?…クラヴァル?」
「どうして二人が……」
「こっちの台詞だよ!」ユウの声は震えていた。
「リゼを預かった、って……メッセージが来たんだ」
スマホの画面を見せると、そこには不気味な文字列と地図の画像が残っていた。
リゼは目を見開き、首を横に振る。
「そんなの、知らない!」
「私ジャスクの3人を探しに来たのよ」
「じゃあ……誰が」
ユウの胸に疑念が渦巻く。悪戯にしては重すぎる。偶然にしては出来すぎている。
その時だった。
空気が低く唸りを上げ、周囲の靄が裂けるように揺らめいた。
♢
光のない影が膨れ上がり、そこから人の形をしたモヤが現れた。
「…ッ!」
クラヴァルが即座に剣を構える。
靄を裂いて現れた影は、能面のように無表情な顔を浮かべ、両腕を広げるように彼らを見下ろしていた。
ユウは思わず叫ぶ。
「あんた、誰だ!」
影は愉快そうに肩を揺らすと、調子外れの明るい声を放った。
「この異空間の主!」
「キミにメッセージを送ったグッド⭐︎ガイさ!」
「……!」ユウの背筋に冷たいものが走る。
リゼは一歩踏み出し、鋭く問いかけた。
「ジャスクのみんなはどこ!? ここに来ているはずでしょ!」
能面の口元だけがにやける。
「大丈夫♪」
「ちょ〜っと邪魔にならないように、別空間に留置させてもらってるだけさ♪」
クラヴァルが剣を突きつける。
「この黒い球の方が邪魔よ!」
「それも大丈夫⭐︎」
「処罰が終わったら、すぐ消えるよん⭐︎」
軽薄に笑う声が反響する。
ユウは耐えきれず声を張り上げた。
「だから…あんた、なんなんだ!」
その瞬間、影の声色が変わった。
冷たく、抑揚を削ぎ落とした声。
「本来の私には名前などない。矮小で下等な生物が、そもそも知覚できる存在ではないからだ」
ぞわりと鳥肌が立つ。
だが次の瞬間、また軽い調子に戻る。
「だから君の世界の、君の国のわかりやすい名前にしてみたんだ♪」
両手を広げ、舞台役者のように声を張り上げる。
「自己紹介するぜ!」
「俺の名前はTP!」
ユウは息を呑む。
「……TP?」
「そう!」
「タイムパトロールだよ!」
「お尋ね者の、城野ユウ!」
♢
異様な声が響き渡り、空間がざわめく。
「…お尋ね者? ユウを馬鹿にして!」
クラヴァルの瞳に烈火のような光が宿る。次の瞬間、彼女は迷いなく踏み込み、剣を振り抜いた。
空間を裂く鋭い斬撃。続けざまに魔術の光が閃き、稲妻のように影を貫こうとする。
だが──。
「おっそ」
TPは一歩も動かない。ただ指先を軽く弾いた。
瞬間、クラヴァルの剣が弾き返され、彼女の体が弧を描いて宙を舞った。
「ぐ──っ!」
胸を穿つ冷たい衝撃。次の刹那、鮮血が空間に散った。
「クラヴァル!」
ユウの叫びが響く。
リゼは駆け寄り、震える手で治癒魔術を施した。
淡い光がクラヴァルに開いた穴を包む。だが、致命傷にはあまりにも無力だった。
血は止まらず、温もりは指先から失われていく。
「効かない…止まらない…!」
リゼの声は震え、額から汗が滴る。
ユウは必死に彼女の名を呼び続ける。
「クラヴァル! しっかりしろ!」
しかしクラヴァルの唇は青ざめ、目の焦点はゆらぎ始めていた。
血に濡れた手が、ユウの袖を掴んだ。
力は弱々しく、だが離すまいと必死だった。
「ユウ…」
掠れた声。唇が震え、言葉を繋ぐ。
「聞いて、ユウ…あなたが大好きな…の…」
ユウの胸を衝く痛み。
「何言ってるんだクラヴァル!」
「クラヴァルしっかりして!」
涙で声が震えた。
「俺も…好きだ…」
「だから目を閉じないで!クラヴァル!」
刹那、彼女の表情に微かな安堵が浮かんだ。
だが、その温もりは指先から零れ落ちていく。
♢
背後でTPの笑い声が弾けた。
「ほら見たことか!」
「世界を渡るなどと摂理を歪めた代償だぁ!」
突然、声色が変わる。低く、重々しく、空間を震わせる響き。
「いいか城野くん。二つの世界が、君たちを起点に近づき過ぎている」
「とてつもないエネルギーの衝突が起こるだろう」
ユウとリゼは息を呑む。
「このままでは──対消滅」
「あちらも、こちらも、丸ごと消えてしまうのだよ」
その言葉が落ちた瞬間。
――ピシリ。
空間に、鋭いヒビが走った。
黒い闇を裂くように光が漏れ出し、亀裂は瞬く間に広がっていく。誰もが次に起きることを予想できず、ただその音に凍りついていた。




