第64話 Way of (bad)future
学校から帰宅したユウは、靴を脱ぐなりため息をついた。
胸の奥に小さな嫌な予感があったからだ。
ドアノブを回し、自分の部屋を開ける。案の定だった。
「おかえりなさい、ユウ」
窓辺に腰を下ろし、頬杖をついていたのはクラヴァル。銀髪が夕暮れの光を受けて揺れている。まるで自分の部屋であるかのように寛いでいた。
「…また勝手に」
「いいじゃないの、気にしないで♡」
「それよりお母様がお菓子をくださったわよ」
ベッドの上にはコンビニ袋が置かれ、中からポテトチップスやチョコの袋がはみ出している。
しかもいくつかはすでに開けられ、中途半端に食べられていた。
「…お前、どんだけ馴染んでんだよ」
ユウは額を押さえ、呆れた声を漏らす。
クラヴァルは悪びれる様子もなく、袋菓子をつまんで口に運んだ。
「だって、あなたの世界をもっと知りたいんだもの」
机の上ではタブレットが開かれ、読み上げ機能の無機質な声が続いていた。
『――鎌倉幕府は…』
「…タブレット? 文字読めないだろ」
「分からないわよ。でも色々いじってたら読み上げてくれるようになったの」
クラヴァルは楽しげに画面をスワイプしながら、耳を傾けている。
「この世界のこと、ユウの国のこと、歴史や文化……とても面白いわね」
その笑顔に、ユウの背中が少し冷たくなる。母親と馴れ合い、現実世界の知識を吸い上げ、こうして当然のように部屋を占拠している。
──日常が、少しずつ侵食されていく感覚があった。
画面からは無機質な声が流れる。
『……DNAはデオキシリボ核酸の略称で――』
ユウは思わず二度見した。
「ちょ、お前……何調べてんだ」
「この世界の身体のこと、仕組みのこと。DNAとかES細胞とか……面白いわね」
興味津々に語る彼女の目は真剣で、冗談を挟む余地もない。
「……お前、ほんとに何考えてんだよ」
冷たい汗が背を伝い、ユウの声は少し硬くなる。
そんな空気を打ち破るように、クラヴァルがさらりと口にした。
「ユウと私のカンケイ、衆道って言うんでしょ」
「ぶはっ!?」
ユウは思わず声を裏返し、顔を真っ赤にする。
「ナニを調べたらそんな単語に辿り着くんだよ!」
クラヴァルはきょとんとし、唇に笑みを浮かべる。
「だって書いてあったのよ。男同士が心を通わせる、美しい関係だって」
「そんな真顔で言うな!」
ユウは頭を抱えた。
茶化しているのかと思えば、クラヴァルの瞳は冗談抜きで澄んでいる。クラヴァルは軽くタブレットを閉じると、ふっと微笑んだ。
「……でも、この理論と魔術を組み合わせれば、願いは叶う」
低い声には妙な熱があり、ユウの胸の奥をざわつかせる。核心は語られない。それでも彼女の中に明確な目的があることは伝わってきた。
「おい……」
「さ、出かけましょうか」
クラヴァルは立ち上がり、スカートを払うようにして言った。
「出かけるって……異世界に帰るんじゃないのか」
「どっちでもいいじゃない。ユウと一緒なら」
彼女の笑みは無邪気に見えて、どこか背筋を冷たくするものを含んでいた。
♢
人通りの多い繁華街に出ると、クラヴァルは目を輝かせて辺りを見回した。
「わぁ……こっちの世界って、建物が空まで届きそうなのね」
ビル群を見上げて感嘆する姿は、まるで観光客そのものだった。
ユウは気まずそうに足を早める。
「目立つから、あんまりはしゃぐなって……」
けれどクラヴァルは周囲の視線など気にせず、堂々と歩いていた。銀髪に整った顔立ち、異様に映えるその存在は、否応なく人目を集めてしまう。
「ほら、ここ入ってみましょう」
クラヴァルが指差したのは、流行のファッションビルだった。
「服なんて、お前……」
「せっかくだから、この世界の衣を体験したいの。ユウも見たいでしょ?」
悪戯っぽく笑い、彼の腕を掴んで引っ張る。
店内の照明に照らされながら、クラヴァルは物珍しそうにハンガーを手に取った。
「この布、魔術で織ったみたいに滑らかね」
「普通に化学繊維だよ……」
説明するユウの声はどこか力が抜けていた。彼女に振り回されるのはいつものことだと、諦め始めていた。
やがてクラヴァルは試着室に入り、カーテンを閉める。
「ユウ、ちゃんと見てなさいよ」
「は? 見なくていい!」
慌てて顔を背けるユウの耳に、布擦れの音が聞こえてきて、心臓が跳ねる。
「できたわ」
カーテンが開かれた瞬間、ユウは息を呑んだ。
クラヴァルは白いワンピースを身にまとい、髪をかき上げながら一歩踏み出してきた。
「どう? 似合う?」
その姿は場違いなほど美しく、周囲の視線を独占していた。思わず見惚れてしまい、ユウの顔が真っ赤になる。
「……っ、似合ってるよ」
「ふふ、やっぱり。ユウに褒められると嬉しいわ」
クラヴァルはわざとらしく腰に手を当て、ポーズを決める。まるでモデルのような仕草に、ユウは頭を抱えた。
「頼むからあんまり目立つなって……!」
だが彼女は人々の視線を意にも介さず、ただ誇らしげに微笑んでいた。
♢
「……ほんと、目立つから落ち着けよ」
釘を刺しながらもユウは代金を払い、団子を手渡す。クラヴァルは一口かじり、瞳を大きく見開いた。
「ん……甘いのに、しょっぱい! こっちの世界のお菓子は面白いわね」
頬をほころばせるその姿に、周囲の視線がさらに集まる。ユウは気まずさで肩をすくめた。
次にクラヴァルが手にしたのは、クレープ。ふわりと漂うクリームの匂いに目を輝かせ、豪快にかぶりつく。
「生地が薄いのに、いっぱい包めるなんて……魔術よりすごいわ!」
「いや、ただの調理技術だから……」
呆れ混じりに答えるユウをよそに、彼女は夢中で頬張る。
人混みの中を歩くうちに、二人の距離は自然と近づいていた。肩が触れそうになるたび、ユウの心臓は落ち着かなく跳ねる。
そんな中、クラヴァルがふいに足を止めた。
「ユウ」
囁くような声に振り返ると、彼女は周囲をぐるりと見渡し、微笑んだ。
「こんなに人が多いなら、私たち目立つことないわね?」
「……何の話だよ」
問い返すユウの声がかすかに震える。
クラヴァルの瞳は群衆の奥を射抜くように鋭く、それでいて愉しげだった。
「群れの中に紛れるのって、案外悪くないのね。あなたとなら」
無邪気な言葉のはずなのに、耳に残る響きは妙に冷たく、ユウは言葉を失った。人混みのざわめきの中で二人だけが切り取られたように感じ、鼓動が速まる。
クラヴァルは再び歩き出し、ユウの手をとり笑った。
「ねぇユウ、次はどこに行く?」
彼女の声は甘く、けれどどこか底知れぬ熱を帯びていた。
♢
夜の街は、街灯の光が並木道を柔らかく照らしていた。
買い物袋を提げたユウとクラヴァルは並んで歩き、吐く息が白く揺れる。
ふとクラヴァルが立ち止まり、横顔をユウへ向けた。銀髪が街灯に照らされ、夜気の中で淡く光を帯びる。
「ユウ」
呼ばれた声は低く、冗談めかした色はなかった。
「あなたとなら、未来を作れる」
真剣な眼差しが射抜いてくる。そこには欲望と独占の熱が滲み、ユウは息を呑んだ。
返事をしようと口を開くが、言葉は喉で絡まる。何を言っても、この熱に呑まれそうだった。
「クラヴァル…」
震える声を漏らすことしかできない。彼女は一歩近づき、視線を逸らさずに囁く。
「ユウ、お願い…逃げないで」
胸の鼓動がうるさく響く。拒む理由はいくつもあったはずなのに、今はどれも思い出せない。
立ち止まった二人の距離は、ごく自然に縮まっていった。
互いに戸惑いながら、それでも抗えず――唇が触れる。短く、ぎこちない口づけ。
けれどその一瞬で、ユウの心に甘さと恐怖が同時に刻まれた。
夜風が頬を撫でる中、二人は言葉を交わせないまま、静かに並んで立ち尽くしていた。




