第63話 片鱗
汗の冷たさで目を覚ました。
ベッドに沈んだまま、天井の木目をじっと見つめる。三日前の光景が、まだ掌に焼き付いて離れない。
砂漠に迫った牙。閃光。爆ぜ飛んだ影。
そして――リゼの声。
「ユウ…ありがとう…」
涙に滲むあの表情を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。あの瞬間、自分は確かに守れた。バインドで掴んだ衛星を異世界に引き込み、弾道ミサイルを撃ち込んで。
どれほどの反動に苛まれようと、その一言がすべてを肯定していた。
けれど今、その衛星はもうない。
現実世界に戻し、墜とした。真宮先生の言葉に従うしかなかった。延命策という意味の本質はわからなかったが、そうするしかなかった。
守る力のはずが、壊す力として突きつけられる。矛盾に胸が裂けそうだった。
ユウは目を閉じる。
「俺は…何をしたんだ」
呟いた声は、自分でも聞き取れないほど掠れていた。
世界を守ったのか、壊したのか。リゼを救ったのか、ただ偶然を繋いだだけなのか。考えるたびに答えは揺れ、やがて喉の奥に苦い味を残す。
それでも――彼女と結ばれた幸福だけは確かに残っている。あの日、互いに触れ、誓い合った温もり。それがあるからこそ怖い。
もう二度と、失いたくない。
守る力を持たない自分には、その幸福を維持できない。そう思った途端、視界が暗く狭まっていく。
なら、どうする。答えは簡単だった。
この世界を捨てればいい。
学校も家族も全部、放り出してしまえばいい。異世界で彼女と生きればいい。食べ物も、住む場所も、必要なものはバインドで用意すればいい。
力が壊すしかないものなら、壊す先を選べばいい。
布団を握り締める手に、じわりと汗がにじんだ。
「そうだ…俺は、リゼさえ守れれば」
その独白は祈りのようでいて、どこか歪んでいた。守ることと壊すことが重なり合い、正しさも間違いも曖昧に溶けていく。
胸の奥で膨れあがるのはただ一つ、失うことへの恐怖だった。
♢
森の空気は冷たく湿っていた。枝葉の隙間から差す光が地面をまだらに染める。その中心で、リゼは剣を構え、深く息を吸った。
「……間に合わなきゃ、意味がない」
頭の中では分かっている。
意識を速め、相手の動きに“気づく”ことはできる。けれど、それだけでは守れない。身体が追いつかなければ、結局ただ見ているだけになる。
「もっと…早く」
意識を沈め、術式で体外の魔素を体内へ必要以上に取り込む。思考が速まる。
木々の揺れ、落ちる枝の角度、すべてが一度に見える。だが足はもつれ、膝を地面にぶつけた。
「ッ…!」
立ち上がろうとした瞬間、吐き気が込み上げ、喉を押さえる。息が乱れ、肩が震えた。思考だけが先走り、身体は遅れてついてくる。
それでも剣を振る。だが刃は空を切り、狙った枝に届かない。苛立ちに唇を噛み、悔しさに涙が滲む。
「わかってるのに……できない……!」
転倒と失敗を繰り返すうち、傷だらけになっていく。額から流れる汗が視界を曇らせ、膝や掌に小さな切り傷が増える。
肺が焼けるように痛むのに、足を止められない。
「ユウ……」
思わず声が漏れる。
胸の奥に響くのは、あの日の気づきだった。
――「届けば、守れる」
その言葉を繰り返すたび、歯を食いしばって立ち上がる。
「……これを……私の力にする」
ふらつく体を無理やり支えながら、リゼは小さく呟いた。守るために必要なのは、誰よりも速く動くこと。遅れを断ち切る力。
「そう…これを私の…特技にするんだ」
「名前は…瞬」
名を与えた瞬間、胸の奥で何かがはじける。剣を握る手に、わずかな光が集まった気がした。
もちろんまだ未熟だ。視界は揺れ、吐き気が喉を焼く。身体は追いつかず、ただ反動だけが残る。
それでも――確かに一歩進んだ。
言葉にしたことで、この発想はただの試行錯誤ではなく、自分の特技として形を持った。
「……負けない。これがあれば、零さないで済む…」
掠れた声は、涙と土に濡れた頬を震わせながらも、決して折れない響きを宿していた。
傷だらけの手を握りしめ、リゼは荒い息を吐いた。
額から垂れた汗が土に落ち、頬には涙と泥の筋が残っている。膝も掌も擦り切れて痛む。吐き気に喉が震え、足は痙攣でうまく立たない。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
「…これが…《ライトニング》」
自分で名を与えた言葉をもう一度口にする。
声は掠れ、震えていたが、そこには確かな誓いが宿っていた。遅れなければ、守れる。たとえ今は未熟でも、この力を必ずものにする。
リゼは剣を杖にして立ち上がる。爪が割れて血の滲む手で柄を握り、歯を食いしばった。胸の奥で熱が脈打ち、拳を強く握り込む。
その瞬間、指先にかすかな光が宿った。
ほんの小さな火花のような明滅。力と呼ぶにはあまりにも弱く、次の瞬間には消えそうな儚さ。だが確かにそこにあった。
「絶対に…届くんだから」
声は掠れ、涙に濡れた顔は土で汚れていた。それでも目の奥には、揺るがぬ光があった。
♢
同じ頃、別の場所でユウはベッドに沈み込みながら独白していた。
「…全部捨てても、俺が全部引き受ける」
その声は危うく、狂気の淵に寄り添っていた。
守るために力を求める少女と、守るためにすべてを捨てようとする少年。
二人の決意は、互いに知らぬまま、静かに重なり合っていた。