第59話 デザートアドベンチャー2
砂に沈み込んだ足が抜けなかった。
必死に力を込めても、砂はずるずると崩れ、逆に踝まで飲み込んでいく。汗が目に入り、しみて視界が滲む。
喉は焼けつくように渇き、呼吸をするたび肺に熱が入り込み、体の芯まで焦がされるようだった。
(もう動けない……!)
迫ってくる影。
砂を割って這い出した異形は、鋭い顎を大きく開き、リゼへまっすぐに襲いかかってきた。
複眼がぎらつき、わずかに映る自分の姿が「死」を宣告しているようで、心臓が握り潰されそうになる。
剣を構えようとした腕は、鉛のように重かった。
足は砂に縛られ、跳ぶことも、走ることもできない。胸に浮かぶのは、遠い約束の声。
――待ってて。必ず、戻る。
けれどその声を支えにする前に、顎が迫る。
自分の叫びも届かず、世界がひと噛みで終わる予感に全身が凍りつく。
「……ユウ」
掠れた声が喉から漏れた。
振り下ろされる刃のような顎が、目前まで迫る――その瞬間だった。
閃光。
横合いから奔った白い光が、怪物の頭部を直撃した。爆ぜるような衝撃音とともに顎が吹き飛び、砂塵と黒い体液が周囲に散った。
「ッ!」
爆風に煽られ、リゼは咳き込みながら砂に倒れ込む。肺に入り込んだ熱と砂が喉を焼き、呼吸が荒く乱れる。
視界は煙と砂で白茶け、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
だが、すぐに――
砂煙の中に、ひときわ鮮やかな銀色が揺らめいた。逆光を背負って現れた影は、悠然とした足取りで砂を踏みしめ、肩越しにこちらを振り返った。
「足元ばかり気にしてたら、食われるわよ」
耳に届いたその声は、皮肉めいて、けれどどこか楽しんでいるようにも聞こえた。
♢
砂煙を裂いて現れたのは、銀色の髪を風に靡かせたクラヴァルだった。
陽光を浴びたその姿は、灼ける砂漠の中で異様なまでに鮮やかに映える。
肩から垂れたマントには黒い体液が飛び散り、剣の刃にはまだ熱が残っているように赤い光が揺れていた。
クラヴァルは軽く剣を払って砂を散らし、視線をリゼへ向ける。口元に浮かんだのは、挑発を含んだ笑みだった。
「足元の確立は冒険の初歩よ。魔術もろくに使えないの?」
吐き捨てるような一言。
その声音に、リゼは反射的に奥歯を噛みしめた。剣を構え直し、砂に足を取られながらもクラヴァルを睨み返す。
「クラヴァル! なぜここに!」
鋭い叫びが熱風に混じって響く。
クラヴァルは肩をすくめ、わざと軽い調子で返した。
「あー、そういうの後。今は目の前に集中して」
リゼの胸に、苛立ちと戸惑いが同時に広がる。
自分を救ったのがクラヴァルだという事実が、素直に受け入れられない。けれど、目の前の脅威を前にして迷っている余裕もなかった。
剣を握る手に力を込め、リゼはクラヴァルの隣に一歩踏み出した。砂が沈み、体勢が揺れる。それでも視線は逸らさない。
「……今は、戦うしかない」
小さく呟いた声に、クラヴァルはにやりと笑みを深めた。
「そうこなくちゃ」
二人の間に言葉以上の合意が生まれる。敵同士でも、恋敵でもない。ただ、この瞬間だけは共闘者。
砂塵を吹き飛ばす熱風の中、二人は同時に剣を構えた。
砂面が大きくうねり、地鳴りのような震動が足裏を突き上げた。リゼとクラヴァルが同時に振り返ると、砂を盛り上げて影が現れる。
「……くるわ」
クラヴァルがため息をつき、剣を構え直す。
盛り上がった砂の山が爆ぜるように崩れ、二体の巨大な異形が姿を現した。
先ほどの怪物と同じ甲殻を持ちながらも、さらに大きく、背には棘のような突起が並んでいる。
複眼がぎらつき、無数の脚が砂を掻き分けながら、リゼたちへ向かって突進してくる。
リゼは息を呑み、剣を握り直した。
すでに体力は限界に近い。砂漠の熱は体力を奪い、砂は自由を奪う。だが目の前の脅威は待ってはくれない。
クラヴァルが片方を指さし、ぞんざいに言い放った。
「えー…ちょっとリゼ、一体相手しなさいよ」
「なっ……!」
リゼは砂を踏みしめ、必死に睨み返す。
「できるわけないでしょ!」
「できるできる。背中は見せなければいいだけ」
クラヴァルは軽口を叩きながら、右側の怪物に飛び込んでいった。砂をものともせず、剣閃が鋭い光の軌跡を描く。
残されたリゼの前には、もう一体が迫っていた。
足元は取られ、呼吸は乱れ、全身に重さがまとわりつく。それでも剣を構え、迫る顎を必死に迎え撃とうとする。
振り下ろした剣が外殻に弾かれ、甲高い音が響いた。腕に衝撃が走り、手が痺れる。
巨体は揺らぎもせず、逆に複数の脚で砂を掻き分けて距離を詰めてくる。
(だめだ……動けない……!)
砂に取られた足は抜けず、斬撃は通らない。
顎が大きく開かれ、影がリゼを覆った。
「そんな……」
胸の奥から、自然と声が漏れる。
「ユウ……助けて……助けてよ!」
その瞬間――
轟音。
天地を裂く爆発音が砂漠全体に響いた。
目の前の巨体だけでなく、クラヴァルが相対していたもう一体も同時に光に呑まれ、爆散する。
砂煙が暴風のように吹き荒れ、光が一面を染め上げた。甲殻も脚も、粉砕されて四散していく。
リゼは砂に崩れ落ちながら、震える手で剣を支えた。耳鳴りが残り、視界は白と金に霞む。
「……今の……何……?」
かすれた声が漏れた時、クラヴァルの姿が砂煙の向こうに見えた。
彼女もまた立ち尽くしていた。
剣を握る腕はまだ構えのまま、だがその目は驚愕に見開かれている。
「……一瞬で……二体とも……?」
砂煙を切り裂く風が吹き抜ける。
クラヴァルの唇がわずかに震えた。
余裕を崩さないはずの彼女でさえ、今の光景には呆気に取られていた。
リゼは荒い息を吐きながら、ただ呟いた。
「ユウ…なの…?」