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異世界配信サービス  作者: vincent_madder
第6章 越境者 / The Crossing
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第56話 線が面になる

朝の教室はいつもと同じざわめきに満ちていた。


窓から差し込む光が黒板に斜めの筋を描き、机の並ぶ列には紙をめくる音や小さな笑い声が混じる。


その中で城野ユウは机に向かってノートを開いていた。


ペンを走らせる手元は一見普段通りに見えたが、書き込まれた文字はどこか歪み、落ち着きを欠いている。


昨夜、帰還者から授かった“掌の記憶”がまだ鮮やかに残っていた。熱を帯びたような、ぬるい水の中に手を浸したような感覚。


今はどこにも存在しないはずなのに、ペンを握るたびに思い出され、意識を散らしていく。


教師の声が前方で響く。だが数式や単語は頭の奥へ入らず、音だけが虚ろに流れていく。


(……全然集中できない)

ユウは一度深呼吸を試みるが、胸のざわつきは収まらなかった。


「なあ、知ってるか?」


隣の席の春川が机に肘をつき、身を乗り出した。声を潜めているつもりらしいが、周囲にも届いている。


「昨日のニュースでやってた。軌道衛星に不審アクセスがあったってよ」


その一言に、すぐ前の席の男子が笑いながら振り返る。


「は? 衛星をハッキング? そんなの映画のネタだろ。宇宙の機械をリモコンで動かすのかよ」


周囲の何人かがくすくすと笑った。軽口にすぎない。だがその会話は、授業よりもはるかにユウの耳に強く残った。


彼は小さく笑みを作ってごまかす。だが胸の奥には別の響きが刻まれていた。

――“動かす”。

――“鍵”。


軽い冗談にすぎないはずの言葉。けれどそれは、昨夜の掌の感覚と妙に重なって聞こえてしまう。


ユウの筆先はノートの上で止まり、インクのような小さな黒点を残した。


彼の視線はそこで固まり、笑い声の輪から取り残されているように見えた。



放課後の廊下は部活へ向かう生徒たちで賑わっていた。掛け声や足音が響く中、ユウは教科書を鞄に詰め、帰る準備を整えていた。


そのとき、背後から静かな声が届いた。


「城野。少し、いいか」


振り返ると、真宮先生が立っていた。柔らかな口調だが、眼差しはどこか探るようでもある。ユウは戸惑いながら頷き、ついていくことにした。


連れて行かれたのは理科準備室だった。廊下よりも薄暗く、棚には試薬の瓶や古い実験器具が並んでいる。どこか埃っぽい匂いが漂っていた。


先生は机の上に紙コップを置き、腕を組んだまま口を開いた。


帰還者おじさまから学んでいるんでしょう?……私からも、少しはヒントになるかもしれない」


ユウの胸が一瞬ざわつく。なぜ自分が帰還者と接触していることを知っているのか。問い返そうとしたが、先生はそれを遮るように淡々と続けた。


「EWSはね、異世界(あちら)の映像をそのまま流しているわけじゃないの」


「魔素を媒介にして、情報を変換し、さらに電子信号へ置き換えている。だから私たちが見ているのは“翻訳された魔素”にすぎない」


淡々とした説明。まるで授業の延長のように聞こえる。ユウは息を呑んだ。「翻訳された魔素」という言葉が胸の奥でひっかかる。


先生はそれ以上のことは語らなかった。


応用や危険性に触れることもない。ただ、事実を簡潔に示しただけ。短い沈黙のあと、先生は紙コップの中のコーヒーを一口すする。


「……今日はそれだけ。帰っていいわ」



夕暮れの街を抜け、ユウは家の玄関を開けた。

キッチンからは炒め物の香ばしい匂いが漂ってくる。


母の軽やかな鼻歌が混じり、日常の気配に包まれた瞬間、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。


「おかえり、ユウ。手、洗ってね?」


「うん」


靴を脱いで洗面所に向かう。水道の音と石けんの匂い。ごく普通の光景が、今日一日のざわつきを少し和らげていった。


夕食の食卓には、焼き魚と野菜の小鉢、そして湯気を立てる味噌汁が並んでいた。


母はエプロンを外し、椅子に腰を下ろすと、何気ない調子で口を開いた。


「ねえユウ。この前の子、クラヴァルちゃんって言ったかしら」


「……っ!」


箸を持った手が止まる。

母は気づかぬふりで、味噌汁をすくい口へ運ぶ。


「男の子でしょ?」


軽く放たれた一言に、ユウは絶句した。


「な、何言ってんだよ」


声が裏返り、慌てて誤魔化す。

母はくすりと笑った。


「見れば分かるものよ。別にいいじゃない、友達なんでしょ」


その何気ない受け止め方が、かえってユウの胸を締めつけた。自分の部屋に現れた異世界の存在。


その事実を、母は日常の延長にあっさりと飲み込んでしまう。


ユウは俯き、味噌汁の湯気に視線を落とした。

現実の食卓と、あの世界の気配が、ひとつの線でつながってしまった気がした。


夕食を終え、ユウは自室に戻った。蛍光灯の白い光に照らされた机の上には、ノートとスマホが置かれている。


鞄を放り投げ、ベッドに腰を下ろすと同時に、胸の奥に残っていたざわめきが再び浮かび上がってきた。


「……バインド」


小さく呟き、スマホの検索欄に文字を打ち込む。

表示された結果にはいくつもの意味が並んでいた。


「縛る」「結びつける」「データを紐づける」――ユウは画面をじっと見つめた。


「縛る……じゃない。俺が欲しいのは……繋ぎ止める、だ」


言葉にした瞬間、胸の中にすとんと落ちるものがあった。ページを閉じかけたとき、イヤホンの設定画面が目に入った。


“近づけるだけでペアリングします”。

ユウは息を呑む。

近づけるだけで繋がる。媒体を越えて信号を結びつける。


その仕組みが、昨夜掌に宿った“記憶”と重なった。彼は机に置いたペンに視線を移した。

右手をそっとかざし、呼吸を整える。


昨夜の感覚を思い出す。水に触れたような、あの揺らぎ。


一瞬、空気がきしむような感触が掌に走った。


ペン先がわずかに揺れた気がした。だが次の瞬間には何もなく、静寂が戻る。ユウは掌を見つめ、深く息を吐いた。


成功はしなかった。それでも、確かな予感だけは残った。


「……これが、バインド


呟きとともに掌を握る。


その感触は、まだ形を持たないまま胸の奥に灯っていた。


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