第53話 衝動は若者の特権-2-
風呂から上がったばかりの熱が、まだ肌にまとわりついていた。
ユウは乱れた前髪をタオルで拭きながら、クラヴァルを先に部屋へ通した。
蛍光灯の白い光の下、机も棚も、見慣れたはずの空間。
けれどそこにいるのは異世界の少女――濡れた銀髪を背に流し、そして今はユウのスウェットを身にまとっている。
少し大きめのサイズが布地を余らせ、袖が手の甲まで覆っていた。
「……へえ、柔らかい。動きやすいし、あったかい」
クラヴァルは裾を軽く引っ張りながら感想を漏らす。ユウの普段着が、彼女の身体に触れているというだけで、妙に胸がざわついた。
落ち着きをなくしたユウは、思わず声を荒げる。
「さっきのことは忘れろ! ……絶対だぞ!」
クラヴァルは袖口で頬にかかった髪を拭い、ゆるやかに首を振った。
「忘れない。だってユウ、面白い顔してたもの」
「うるさいっ!」
ユウは顔を赤くして視線を逸らす。
胸の奥で、いまだに高鳴る鼓動を抑えられなかった。
クラヴァルは笑いを収めると、ふっと表情を引き締める。瞳に真剣な光を宿し、ユウをまっすぐに見つめていた。
クラヴァルはベッドの端に腰を下ろし、タオルで濡れた髪を押さえながら口を開いた。
「ユウ……少し、私の話をしてもいい?」
いつもの挑発めいた調子ではなかった。
ユウは黙って頷き、机の椅子を引き寄せる。
「小さい頃の私はね、どこにでもいる普通の子どもだったの」
クラヴァルの声は淡々としていた。
「父と母と三人で暮らして、毎日が平凡で……でも、それが幸せだった」
一瞬だけ、遠くを見るように瞳が揺れる。
「けど、国が戦に巻き込まれて……父は母を庇って死んだ」
短い言葉に、鋭い痛みが潜んでいた。
ユウの胸がひりつく。
「母も……疲れ果てて、病に倒れた。残されたのは、まだ幼い私だけ」
言いながら、クラヴァルはユウのスウェットの裾を握りしめる。布地にしわが寄るほど強く。
「それからは、生きるために冒険者になった。選んだんじゃない、生き延びるためにそうするしかなかったの」
ユウは言葉を失い、ただその横顔を見つめていた。
「冒険者になってからは、生き残ることばかり考えていた」
クラヴァルは膝の上で指を組み、淡々と語る。
「仲間はできても、長く続かない。戦場に出れば、次の日にはいなくなる。……背中を預けても、帰ってこないことの方が多かった」
ユウは黙って耳を傾けた。
彼女の声音には、諦めにも似た冷たさが混じっていた。
「そんな暮らしの中で──ずっと感じていたの。誰かに見られてるって」
クラヴァルの視線が宙をさまよう。
「剣を振っても、眠っても、食事をしていても……常に背中にまとわりつくような感覚」
「最初は鬱陶しくてたまらなかった。振り払いたくて、苛立って……」
言葉を切り、薄く笑う。
「でもね、あれがあったから私は折れなかった。誰もいない夜でも、どこかで“誰か”が見ている──そう思えただけで、孤独に沈まずにすんだ」
ユウの胸に強く響く言葉だった。
クラヴァルは自嘲気味に肩をすくめる。
「矛盾してるでしょう。うざったくて、でも救いでもあった。……そこからよ。僕が“私”になったのは」
静かに放たれた一言に、ユウは目を見開いた。
クラヴァルは視線を落とし、かすかに唇を噛む。
「視線に形を与えられて……気づいたら、自分を“私”って呼ぶようになってた。女として演じる方が、あの視線に応えられる気がしたから」
タオルで濡れた銀髪を押さえながら、彼女は小さく息を吐いた。
「演じるつもりだったのに…そのまま“女”になっていった。気づけば、そういう自分でしかいられなくなったの」
クラヴァルは膝の上で指を絡めたまま、少しの間黙っていた。やがて、その瞳をユウに向ける。
「ユウを初めて見つけたとき…ふっと思い出したの。小さい頃に母から聞かされた、古い話」
ユウは息を呑む。
「“別の世界に帰ってしまった人”の伝承。突如現れて、人々と交わり、そして……。まるで夢のような存在として語り継がれていた」
クラヴァルはゆっくりとスウェットの裾を握りしめる。
「母は言ってた。……“異界の人”と呼ぶのだって。そして私は、その血を引いているのだと」
「…この世界の…?」
ユウは思わず声に出す。クラヴァルは小さく頷いた。
「だから、ユウを見つけたとき、理解したの。私がずっと感じていた視線……あれは運命だったんだって」
その声音には迷いがなかった。
「私は選ばれてる。……そして、君を選ぶためにここに来た」
濡れた髪から落ちる雫が、彼女の頬を伝って落ちる。蛍光灯の下、その横顔はひどく真剣だった。
クラヴァルは立ち上がり、ユウの正面に歩み寄った。濡れた銀髪が肩口から滑り落ち、スウェットの胸元を濡らす。
「私は君を引き寄せたい……友達でも仲間でもなく、恋人として」
差し出された手は、ほんのわずかに震えていた。
それが演技ではないと、ユウにはわかった。
「い、いきなりそんな……」
ユウは身を引こうとしたが、視線を逸らせなかった。クラヴァルの瞳は、切実さと焦燥で潤んでいた。
「今だけでもいい。…ユウ、私を選んで」
静かな声だった。けれどその一言は、ユウの胸を強く打ち抜いた。喉が乾き、思考は警鐘を鳴らす。
(ダメだ。これは踏み込んじゃいけない……なのに……)
ユウの手が、ゆっくりとクラヴァルの手に重なる。瞬間、彼女は小さく息を呑み、体を預けるように抱き寄せてきた。
♢
ベッドが軋む。打ちつける音が部屋を満たす。
交わる吐息。
互いの鼓動が触れ合い、熱を帯びて重なっていく。彼は後ろから覆い被さるように彼女の手首を押さえつける。
「痛いよユウ…でも嬉しい…」
お互いの指が絡む。
耳元で囁かれる声に、理性の糸がほどけていく。
「ユウッ!私セツゾクしてるッ!」
その夜、二人は境界を越えた。
誰にも許されないと知りながら、ただ互いを求め合うように。
♢
互いの熱が徐々に鎮まり、部屋に残るのは重なった吐息だけだった。
ユウは天井を仰ぎ、まだ早鐘を打つ鼓動を抑えようとする。クラヴァルはその胸元に身を預け、細く息を吐いた。
「…ありがとう、ユウ」
次の瞬間、彼女の手の甲が淡く光を帯びる。
脈打つように明滅し、部屋の空気がわずかに震えた。クラヴァルは目を閉じ、苦笑を浮かべる。
「……あーあ。時間切れ」
ユウは身を起こし、その光を見つめる。
「……戻るのか」
「うん。これは合図。務めがあるから、行かないと」
クラヴァルは息を整えながらも、真剣な目でユウを見つめた。
「ユウも来る?」
ユウは首を振る。
「……無理やり連れていくんじゃないんだな」
クラヴァルは小さく笑った。
「そんなことしたら、君に嫌われるもの。……それじゃ意味がない」
わざと肩をすくめ、軽口を叩く。
「初めてなんだけど、これが“賢者タイム”? リゼと同じ土俵に立った気がして、ちょっとすっきりした」
「……何を調べたらその言葉を知るんだよ」
♢
装備を着こなした彼女は[女神クラヴァル]に戻っていた。クラヴァルは唇の端を上げ、光に包まれながら囁いた。
「ユウが渡ってきたら感知できる。来ないなら、私が来る。それはリゼにはできないこと」
「……リゼに言ったり、配信でバラすなよ」
「ああ、その件ね。ユウには振られたことにするわ」
「やめろ、余計に炎上する」
「あはは! じゃあね!」
光が一層強まり、クラヴァルの姿を包み込む。
最後に、ほんの一瞬だけ名残惜しそうな瞳がユウを見た。
次の瞬間、残されたのはユウひとり。
まだ互いの熱の残るシーツに横たわりながら、彼は息を詰めて天井を見つめていた。