第51話 キャパ越えの日
そこはユウの部屋。
蛍光灯の白い光が天井から降り注ぎ、勉強机やベッドをくっきりと浮かび上がらせていた。
机の上には、ノートとシャーペンが無造作に広げられ、教科書は開いたままページが折れている。半分読みかけの参考書、プリントの束。
どれも見慣れた、自分だけの日常の風景。
ベッドには脱ぎっぱなしにしたジャージが投げ出されている。窓際のカーテンは少し開き、夜の外気が入り込んで薄く揺れていた。
本来なら、何の変哲もない日常の一部。
それは、昨日までと何ひとつ変わらないはずの光景だった。
──だが。
そこに立つ存在が、その“いつも”を一瞬で異質に変えていた。
見間違いであってほしいと願った。だが目をこすっても、視界の中央にいる彼女の姿は消えない。
白銀の髪が蛍光灯の光をはね返し、きらめいている。肩から背中へ流れるたび、光の尾を引くように錯覚する。
衣服は異世界特有の硬質な素材感。縁取りに施された装飾が、こちらの世界には存在しない手仕事を物語っていた。
クラヴァル。
名前は、EWSを通して何度も耳にした。
配信越しにしか見たことのなかった、遠い世界の冒険者。その彼女が、いま目の前に立っている。
幻影ではない。
スマホの画面から零れ落ちたように、実体を伴って。
床に響く硬い靴音。空気を押し分ける気配。
わずかに甘い、異国めいた香り。
どれもが“現実”としてユウを圧迫していた。
喉が異様に乾き、呼吸がやけに大きく聞こえる。心臓の鼓動が部屋中に響きわたるのではないかと錯覚するほどだ。
「……うそだろ」
声にならない声が、口から漏れた。
夢か、悪夢か。そんな括りすら無意味な現実が、今ここにある。
クラヴァルは、ゆっくりと唇をほころばせた。
舞台の上で観客を魅了する女優のように、洗練された身のこなし。足音を一歩ずつ響かせながら、真っ直ぐにユウへ歩み寄る。
「はじめまして、ユウ。画面じゃない私、どう?」
柔らかな声音。甘い香りをまとい、耳の奥に直接触れるような響き。
その一方で、確かに“侵入者”の気配を孕んでいた。部屋の空気を勝手に塗り替えていくような、異質さと存在感。
ユウの思考は、瞬く間に渦に呑まれた。
リゼのこと。
魔素のこと。
EWSのこと。
そして、目の前のクラヴァル。
あまりにも多すぎる要素が、一斉に脳内で爆発していく。
クラヴァルの眼差しは、まっすぐユウを捕らえていた。虹彩の奥が淡く光を帯びているように見えて、視線を外そうとしても引き戻される。
「……どう、って……」
ユウは喉の奥が詰まるような声しか出せなかった。頭では状況を整理しようとしているのに、体は震えが止まらない。
クラヴァルは口元に笑みを浮かべたまま、机の上に置かれたノートへと視線を移す。
「これが、ユウの筆記道具? ……不思議。見たことのない文字ばかり」
指先がさらりとページをなぞる。
それだけで、見慣れたノートがまったく違うものに見えてしまう。
ユウは慌てて手を伸ばし、ノートを閉じた。
「勝手に触るなよ!」
声は上ずり、意図せず大きくなる。
クラヴァルは一歩引き、肩をすくめる。
「怖がらないで。私はただ、ユウのことを知りたいだけ」
その声音は甘く、柔らかい。だが侵入者の迫力は消えない。ユウは自分の胸の鼓動を聞きながら、机の端を握りしめた。
「なんで……お前がここにいるんだよ…」
「来たかったから」
答えはあまりにあっけなかった。
「ユウに、会いたかったから」
視線が絡む。あまりにも近すぎる現実。
ユウは混乱を振り払うように頭をかきむしった。
「……ああ、もうっ!」
そして、彼女を指さす。
「クラヴァル! この国じゃ──室内で土足は禁止なんだ!」
突飛すぎる叫び。
クラヴァルは目を丸くし、数秒間、言葉を失っていた。
「……足?」
「そうだ! 靴のまま部屋に上がるのはダメなんだよ!」
クラヴァルは唇をすぼめ、わずかに首を傾げた。
「……面倒な世界ね」
ユウは耐えきれず、彼女の手首をつかむ。
その瞬間、金属の手甲から伝わる冷たい感触が、彼女が“実体”であることを突きつけてきた。
「来い! 説明する!」
ドタドタと階段を駆け降りる。
クラヴァルは抵抗せず、ただ周囲を眺めていた。
「ふぅん……これがユウの家なのね。石でも木でもない壁……変わってる」
一階の玄関にたどり着くと、ユウはクラヴァルを正面に立たせた。
「ここだ。ここで靴を脱ぐんだ」
クラヴァルは目を瞬かせてから、ゆっくりと視線を床に落とす。
「ここで? …外で脱ぐんじゃないの?」
「そうだ。これがルールなんだよ」
ユウはやけくそ気味に言い切った。
クラヴァルは少し肩をすくめ、ブーツの留め具に手をかける。金属の留め具がカチリと外れ、革靴が床に落ちる音が響く。
彼女は裸足を床に下ろした。
冷えたフローリングに触れた瞬間、クラヴァルの肩がわずかに震える。
「…冷たい」
短い言葉。だがその直後、小さく笑みを浮かべる。
「でも…悪くない」
ユウは喉を鳴らし、言葉を返せなかった。
自分の知るどの同級生よりも現実感を持った“異世界の少女”が、裸足で自分の家の玄関に立っている。その事実が、ただただ異常だった。
その時だった。
ガチャリ、と玄関の扉が開く音。
「ただいまー」
母親の声が響いた。
ユウの顔が一瞬で蒼白に変わる。
クラヴァルは振り返り、無防備に立ったまま。
「……あら?」
買い物袋を両手に下げた母が、玄関に立つ二人を見て目を丸くする。
「ユウ、お友達?」
心臓が一瞬止まったように感じた。
状況は最悪だ。クラヴァルは裸足で、異世界の衣装をまとったまま。説明できる言葉など存在しない。
ユウは必死に笑顔を作り、クラヴァルの肩を押さえた。
「そ、そうだよ母さん! えっと……コスプレが趣味な子なんだ! 部屋にいるけど気にしないで!」
母は「あらまぁ」と軽く驚いた表情を見せたが、深く追及することもなく靴を脱ぎ、袋を提げたまま台所へ消えていった。
玄関には気まずい沈黙が落ちる。
ユウは額に汗を浮かべ、背中を伝う冷たい感覚に身震いする。
クラヴァルが唇を緩め、囁いた。
「ふふ……隠すの、大変そうね」
ユウは顔を赤くし、視線を逸らすしかなかった。
二人は廊下を抜け、再びユウの部屋へ戻った。
クラヴァルは裸足のまま床を踏みしめ、きょろきょろと辺りを見回す。
「……ここが、ユウの部屋。壁も天井も石じゃない。匂いも……知らないものばかり」
机の上に積まれた参考書や、棚に並んだ文庫本。
蛍光灯の明かりに照らされるそれらを、クラヴァルは一つひとつ物珍しそうに眺めている。
ユウはベッドの端に腰を下ろし、息を整えるように肩を上下させた。
「……はぁ……はぁ……。とにかく、いきなり来るなよ。心臓止まるかと思った」
クラヴァルは首を傾げ、ベッドの近くまで歩み寄る。
「でも、会いたかった。ユウに」
その一言で、ユウの胸の奥がさらに混乱した。
リゼのこと。EWSのこと。
どうしてクラヴァルがここに来たのか。
答えの出ない疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
ユウは額を押さえ、思わず声を漏らした。
「……もういい! 考えてもわからない!」
そして、顔を上げる。
「とにかく敵じゃないんだろ? だったら……まずは友達から、でいいか?」
クラヴァルは一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。そして、ほんの少し頬をふくらませ、視線をそらす。
「……むー。友達、ね」
短い言葉。そこに複雑な感情が隠されているのを、ユウは読み取る余裕もなかった。
「悪い。でも今の俺には、それ以上の言葉は出てこない」
ユウは手を差し出す。
クラヴァルは数秒ためらったのち、渋々とその手を取った。
「……変なの」
握られた掌は、小さく、それでいてしっかりとした熱を持っていた。
蛍光灯の下で交わされた短い握手。
世界をまたいだ初めての接触は、友達とも恋人とも言えないまま、ただ確かな“繋がり”として残った。