第50話 異世界配信サービス-5-
クラヴァルが去ったあとのギルドは、まだ重たい沈黙を引きずっていた。
ざわめきが戻るまでに時間がかかる。つい先ほどまで広間を覆っていた緊張の余韻が、床にも壁にも染みついているようだった。
リゼは深く息を吸い、胸に残るざらついた痛みを振り払おうとした。掴みかかってきたクラヴァルの手、あの冷たい感触がまだ喉元に残っている。
「また来るかもな」
ロアが書類をぱたりと閉じ、リゼを見やった。
「いや、次は依頼の最中に現れるかもしれない」
「同じ冒険者だぞ? そんな真似……」
ナズが苦い顔で言いかけた瞬間、ハナラが食い気味に声を重ねた。
「女の妄執って怖いのよ、ナズくん」
その声音には妙な迫力があった。軽口ではない。ハナラ自身、身をもって知っているかのように鋭い。ナズは思わず肩をすくめ、口を噤んだ。
リゼは三人のやり取りを黙って聞きながら、胸の奥に渦巻く感情を抑えきれずにいた。
ユウを巡るクラヴァルの執着。
そして自分の中に芽生える、言葉にできない感情。
(……嫉妬、なの?)
胸を締めつける熱を抱えたまま、ギルドを後にした。
♢
夜、宿の窓を開けると、風が髪を揺らした。
空は深く、星々が瞬いている。
けれどその光は遠すぎて、手を伸ばしても届くはずがなかった。
リゼはそっと掌を胸に当てる。温もりが消えてしまった場所。そこにまだ残るような気がして、指先に力を込めた。
「ユウ……無事でいて」
掠れた声が夜空に吸い込まれる。
♢
夜、家に戻ったユウは自室のドアを閉めた。
机の上には教科書とノートが散らばり、開きかけの問題集がそのまま放置されている。
学校から帰宅した直後の部屋は、以前ならありふれた光景だった。今は、全てが遠く感じられる。
(……あの人に言われたこと、守らなきゃ)
ラーメン屋を出るとき、真宮先生が背中に向かって声をかけたのを思い出す。
「勉学を疎かにしないように。あと学校には来ること。これは教師としての注意事項よ」
その響きは厳しさと温かさが同居していて、妙に胸に残っていた。彼女が教師である限り、ユウを日常につなぎ止めようとしているのだと分かる。
ユウは机を片付けると、椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に広げた。
帰還者に言われたことを反芻する。
「感じろ。これは直感だが、君の部屋でもできるだろう」
「空気に漂う魔素の流れを掴め」
深く息を吸い、瞼を閉じる。
耳の奥に鼓動が重なり、やがて指先にかすかな熱が生まれる。
光の粒が皮膚の下を走るような感覚――
「……来た!」
ユウの声が震える。
人差し指の先に淡い光が宿り、安定して留まっていた。わずか数秒、けれど確かに「制御できた」と言えた瞬間だった。
「やった……リゼ、待ってて」
笑みが零れ、胸の奥に灯がともる。
しかし次の瞬間、部屋の照明がちらつき、スマホが勝手に震え出した。
「……え?」
光が点滅し、電子音がノイズに変わる。
壁の時計までが一瞬止まったように見えた。
♢
帰還者が虚空を睨む。
「誰かがまた越えようとしている…。あのボウズ、もう出来るようになったのか?」
♢
ユウは息を呑み、立ち上がった。
窓の外に淡い揺らぎが広がり、視界が歪む。
「今のはなんだ?」
♢
森の奥にひっそりと残る“秘密の小屋”。
扉を押し開けたクラヴァルは、ゆっくりと中に踏み込んだ。
「……ここ」
木の壁や床板に染みついた匂い、空気の揺らぎ。
そこには、ユウとリゼが確かに過ごした温度がまだ残っていた。
クラヴァルは静かに目を閉じる。
胸の奥に広がる微かな脈動を辿りながら、唇をほころばせた。
「ふふ……やっぱり」
彼女の周囲に淡い光が浮かび、次第にノイズが混じる。粒子のようなものが舞い、天井の梁や壁を擦るように軋ませる。
ユウの残り香がクラヴァルを導く。
それはただの気配ではない、明確な座標―ユウの世界へ繋がる線だった。
「これで……行ける」
クラヴァルの指先から光が弧を描き、小屋の内部に歪んだ“窓”のような残像を浮かび上がらせる。
EWSの観測網に干渉し、別世界のフレームを開いた証。
その瞬間、現実世界ではユウの部屋の照明が瞬き、スマホが震え始めていた。
クラヴァルは瞳を細め、枠に向かって一歩を踏み出す。
「待ってて、ユウ。今度こそ会える」
小屋の中に渦巻いた光は、彼女の姿をゆっくりと呑み込んでいった。
♢
机に置いたスマホが、突如として震え始めた。
通知はない。画面は真っ黒なまま、かすかに白いノイズが揺れている。
「……まただ」
ユウは眉をひそめた。
照明が一度消えかけ、蛍光灯の光が点滅を繰り返す。空気が重くなり、耳の奥でざらついた雑音が広がった。
次の瞬間、スマホの画面が勝手に切り替わる。
EWSアプリのUI――だが、いつもの配信画面とは明らかに違っていた。
視聴者数もコメント欄も表示されていない。
まるでリゼと繋がったときの“相互通信”に酷似した、異常なインターフェース。
「……これは」
言葉を飲み込んだユウの耳に、声が届いた。
――ユウ……聞こえてる?
息が詰まった。
画面にはまだ像が浮かんでいない。ただ声だけが、はっきりと響く。
「クラヴァル……?」
恐る恐る名を呼んだ途端、スマホの縁から光がにじみ出す。白い輝きが液晶を越えて溢れ、床や壁を照らした。
部屋全体が波打つように歪み、ポスターやカーテンが無風で揺れる。
(違う……これはただの配信じゃない!)
背筋に冷たい汗が伝う。
机の上のペンがカタカタと立ち上がり、時計の針が一瞬止まった。静電気が皮膚を刺すように、世界そのものが軋んでいた。
ベッドと窓の間の空間が膨張し、光が集まって結像を始める。ぼやけた人影が輪郭を持ち、髪の流れ、衣の揺れ、呼吸までが具現化していく。
ユウは凍りついた。
足音。
確かな重みを持って、床を踏む音が部屋に響く。
そこに立っていたのは、もう画面越しの幻ではなかった。
“現実のクラヴァル”が、静かに微笑みを浮かべていた。
ユウの喉から、かすれた声が零れる。
「……え?」
クラヴァルは白銀の髪を揺らし、ゆっくりと首を傾げ、妖艶な微笑みを浮かべた。その瞳は宝石のように輝き、まっすぐにユウだけを射抜いている。
「はじめまして、ユウ」
床を一歩、軽やかに踏みしめる。
爪先がフローリングを鳴らし、その音がやけに大きく響いた。
ユウは無意識に後ずさる。
胸の奥で心臓が暴れ、手足は鉛のように重い。
「来ちゃった♡」
甘い声が空気を震わせた。
その瞬間、部屋の匂いすら変わった気がした。
ラーメン屋の油の匂いでも、教室の紙とインクの匂いでもない。異世界の草木と血と魔素の匂いが、確かにこの部屋に漂っていた。
ユウは呼吸を忘れ、ただ立ち尽くす。
視界にあるのは、憧憬でも恐怖でもなく――
抗えぬほどの強烈な現実感。
夜の静寂に、クラヴァルの笑みだけが鮮やかに浮かんでいた。