第45話 巡り合わせ-2-
ギルドで薬草を納品した後、ふたりは宿へ戻っていた。
窓の外では、夕餉の支度を知らせる鐘が鳴り、街は次第に夜の色を帯びていく。
部屋の机には報酬の銀貨が小袋に入ったまま置かれていた。
ユウは袋を弄びながら、どこか落ち着かない心持ちで天井を仰ぐ。
「……お金って、本当にこうやって手に入るんだな」
独り言のような呟き。
リゼはベッドに腰を下ろし、剣を鞘ごと壁に立て掛ける。
「依頼を受けて、働いて、報酬をもらう。それだけのこと」
「それだけ、か……」
言葉を繰り返しながら、ユウは拳を握る。
この世界に来て、初めて自分の手で“得た”報酬。
けれど胸の奥には安堵と同時に、重苦しい予感がまとわりついていた。
「リゼ」
「なに?」
「……俺、このままこっちで暮らせるのかな」
唐突な問いに、リゼは一瞬言葉を失った。
そして、少しだけ寂しげに笑う。
「暮らせるかどうかじゃない。……一緒に生きられるかどうか、でしょ?」
その声は静かで、真っ直ぐで、けれどどこか切実だった。ユウの胸がちくりと痛む。
外では、夜のざわめきが次第に大きくなっていた。
それは突然。
ユウの身体が、ふっと沈んだ。
「……え?」
椅子に腰をかけていたはずなのに、足元の床が感じられない。体が鉛のように重くなり、指先から感覚が抜け落ちていく。
「ユウ?」
向かいに座っていたリゼが眉を寄せ、すぐに立ち上がった。椅子がきしむ音より早く、彼女の手が肩を掴む。
「……ユウ、どうしたの!」
声をかけられても、返事ができなかった。喉が動かない。
白い光が身体の隅から滲み出し、輪郭を侵していく。光は柔らかいはずなのに、足元を絡め取る鎖のようで、抗えば抗うほど引きずられる感覚が強くなる。
「やだ……!」
リゼの声が震える。腕が必死に背中を抱きとめる。
「行かないで! ここにいて!」
だが、力が抜けていく。手も足も、もう動かせない。リゼの体温だけが鮮明に感じられるのに、その温もりを握り返すことすらできなかった。
──俺のせいだ。
胸の奥で言葉にならない声が響く。
リゼを危険に巻き込んだ。クラヴァルに名を呼ばれ、炎上し、狙われて。結局すべては、自分が関わったから。
「俺が……いるから……」
掠れた声がようやく漏れた。罪悪感が喉を塞ぐ。
「違う!」
リゼは首を振る。頬が涙で濡れていた。
「あなたがいるから、私はここまで来れたの!だから……だから消えないで!」
必死の叫びに、光はさらに強さを増す。
視界が白に覆われ、耳鳴りが鼓動を塗りつぶす。
ユウは必死に目を開いた。
白い光は、ますます強くなっていく。
ユウは必死に腕を持ち上げようとした。けれど、重さに逆らえず、リゼの背に回そうとした手は空を掴むように震えるだけだった。
「……一度、戻る」
やっと声が漏れた。喉の奥が焼けるように痛む。
「でも……また来るから」
リゼの目が大きく揺れる。
「いや……いやだ!」
彼女はその胸に顔を押し付け、縋るように叫んだ。
「一緒にいたい!離れたくない!」
ユウの胸が締めつけられる。涙混じりの声が、耳の奥に突き刺さる。
彼女を苦しめるためにここに来たわけじゃないのに。守りたくて、傍にいたくて、それだけだったのに。
「リゼ……」
震える手をなんとか持ち上げ、彼女の背を抱き締めた。力はこもらない。けれど、その温もりを離したくなくて。
「待ってて。必ず、戻る」
「……ユウ……!」
声が涙で濡れる。リゼの頬からぽろぽろと雫が落ち、ユウの頬を濡らした。熱い。胸の奥に刻まれる。
「信じてる……」
リゼは息を詰まらせながらも必死に言った。
「だから、絶対に……!」
ユウの喉が震える。光がさらに濃くなり、二人を引き裂こうとする。リゼの腕に力がこもるが、もう抗えない。
「リゼ…」
「ユウッ!」
互いの名前を叫ぶ声が、光に呑み込まれていく。
最後に感じたのは、彼女の髪の匂いと、濡れた涙の温度。そして、強すぎるほどの愛しさだった。
光は爆ぜるように弾け、ユウの身体を呑み込んだ。
──その瞬間、リゼの腕は空を抱いていた。
♢
視界が白に塗りつぶされ、音も匂いも奪われた。
重さも痛みもなく、ただ宙に浮かぶような感覚。
次にまぶたを開けたとき、そこにあったのは木の壁でも干し草でもなかった。
「……え」
自分の部屋の天井。
白い壁紙の模様、机の上に積みっぱなしの教科書、ポスターの隅がめくれ上がっている。
耳を澄ませば、窓の外からはいつもの街のざわめき。車の走る音さえ届いてきた。
ベッドが軋み、背中に馴染んだ布団の柔らかさを感じる。
ユウは目を見開き、額に手を当てた。
「……帰ってきた、のか」
ポケットから充電切れのスマホを取り出す。ケーブルを挿して起動させる。画面をつけると、そこにはただのホーム画面。
特に変わったところはなく、EWSアプリのアイコンもそこにあった。
さっきまで繋がっていた“向こう”は、跡形もなく消えていた。胸の奥に、重たい喪失感が広がっていく。
──リゼの声。
──リゼの涙。
──腕に抱いた温もり。
すべてが確かにあった。それなのに、いまここには何も残っていない。ユウは顔を覆い、布団に崩れ落ちた。
指先にまだ残る体温の記憶が、逆に胸を締め上げる。
「……リゼ」
その名前を呼んでも、返事は返ってこない。
静まり返った部屋には、時計の秒針だけがやけに大きく響いていた。
♢
翌朝の教室。
久しぶりに顔を出したユウに、ざわめきが一斉に集まった。数日ぶりの登校。机に座るだけで、周囲の視線が妙に重い。
「お前、体調悪かったんだろ? 大丈夫かよ」
前の席の男子が振り返り、半分からかうように声をかけてくる。
「……ああ、大丈夫」
ユウは笑みを作ったが、声は少し掠れていた。
春川が眉を寄せ、机の端を軽く叩く。
「マジで心配したんだぞ。三日も休むとか、らしくないだろ」
「……ごめん」
そう返した瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。リゼと別れた後の空白が、現実の“病欠”としてしか説明できないことが苦しかった。
休み時間になると、数人のクラスメイトが近づき、ひそひそ声が飛ぶ。
「なあ、“ユウ”ってさ、この前の配信のやつじゃ……」
「ばーか、同じ名前ってだけだろ。アイツがそんな大層なわけ……」
笑い交じりの会話はすぐに逸れたが、耳に刺さる。春川が机にスマホを置き、声を潜めるように話しかけてきた。
「なあ、昨日ニュースで見たんだけど……軌道衛星の話、知ってるか?」
「知らない」
ユウは素っ気なく返す。
「なんかさ、通信用の衛星ってあるじゃん? あれが実は内緒で兵装してて、軌道兵器なんじゃないかって話」
「そんなことある?」
「それがさ、某国側はノーコメント。当局は“一切関知してません”ってやつ」
「……」
「だから日本の重工系の衛星も、もしかしてってやつ」
ユウはため息をつき、わざと肩をすくめて言った。
「配信に飽きたら、都市伝説に夢中か?」
春川はにやりと笑った。
「まあな。でも火のないところに煙は立たないって言うだろ?」
♢
放課後。
「城野、少し」
廊下で呼び止められた声に振り向くと、真宮先生が立っていた。
準備室に入り、扉が閉まる。
先生はしばらく黙ってから、低い声で言った。
「あなたが──異世界に渡ったこと、私は知っています」
息が止まる。喉の奥が焼けつくように乾く。
「……先生は、いったい」
ようやく絞り出した声。
真宮は小さく首を振った。
「EWSの初期開発に携わっていました。私は研究者で、教師です。本来ならば、咎めて運営本部に突き出すべきでしょう」
「それでも──どうしても、あなたを応援してしまう」
「先生。リゼに会わなくては、1人で置いてきてしまったんです。別れだって突然」
「…会わせたい人がいます。今度時間をちょうだい」
感情を抑えた声色の奥で、立場と個人がせめぎ合っているのが伝わる。越えてはいけない一線を自覚しつつ、それでも後戻りできない。
ユウは目を伏せ、拳を握った。
信じていいのかはわからない。
けれど──あの言葉は確かに胸を支えた。
(……俺は必ず。またあの場所へ)




