第44話 異世界デビュー
薄明の光が小屋の隙間から差し込んでいた。
干し草の香りと、木の壁のひんやりとした匂いが混じり合い、静かな朝を告げている。
ユウは目を開けた。
最初に視界に映ったのは、乱れた毛布の中で眠るリゼの姿だった。
白い肌が月光の残り火のように淡く輝き、毛布からは肩から腰までなめらかに素肌がのぞいている。
「……ッ」
全身が熱を帯びる。慌てて顔を逸らすが、どうしても目が戻ってしまう。頭がクラクラして、心臓の鼓動がうるさいほど耳に響いた。
(やばい……落ち着け……)
ごそりと音を立てた拍子に、リゼが身じろぎした。目をうっすら開け、まだ夢の残滓をまとった声でユウを呼ぶ。
「ん……ユウ?」
その瞬間、毛布が少しずれ、胸元まで白い肌が露わになる。ユウは慌てて顔を覆った。
「な、なんでもない……」
「なにが“なんでもない”なの?」
リゼは眠たげな目のまま薄く笑った。
「だって……その……裸、見慣れてなくて……」
しどろもどろに口にすると、リゼは一拍置いて肩を揺らした。
「ふふ……なに言ってるの? もっとすごいところ、いっぱい見てるのに」
ユウは言葉を詰まらせ、耳まで真っ赤になる。
リゼは毛布を押しのけ、すっと立ち上がった。
その身体は一糸まとわぬまま、朝の光を浴びて浮かび上がる。
ユウの息が止まった。
だがリゼは気にも留めず、鞄を開け、衣服を一枚ずつ取り出す。
麻のシャツを頭からかぶり、布が滑るたびに肌が隠れていく。腰にズボンを引き上げ、革のベルトを締める。
最後に鎧の胸当てを装備し、腰に剣の鞘を下げると、すっかり冒険者の姿に戻っていた。
「ほら、もう起きて」
リゼは何事もなかったように言う。
「今日はギルドに行くんでしょ」
ユウは慌てて毛布から飛び出し、服を着直した。
まだ顔の熱は収まらない。
リゼの無頓着さと、自分の狼狽ぶりの落差に、さらに胸が騒いでいた。
小屋の外からは、鳥の声と森の風が混ざり合う。
その音に背中を押されるようにして、二人は支度を終えた。
──新しい一日が始まろうとしていた。
♢
街に戻ると、朝の喧騒が広がっていた。
パンを焼く香ばしい匂い、行商の呼び声、石畳を叩く馬車の車輪──現実の重さが肌にまとわりつく。
ユウにとって、いまだすべてが新鮮で、どこを見ても「異世界に来た」という実感を更新させられた。
ギルドの扉を押し開けると、内部はすでに冒険者たちで賑わっていた。木製の掲示板には依頼の札が並び、受付前には列ができている。
酒場の奥では、昨夜の続きか大声で笑う者もいれば、椅子に突っ伏したまま眠る者もいる。
「さ、行こう」
リゼは慣れた様子で足を進め、掲示板の前に立った。ユウは人の熱気に気圧されながらも、後を追う。
「これにしよう」
リゼが手に取った札には『薬草採取・指定地の森』と書かれていた。
「薬草……」ユウは首を傾げる。
「戦闘じゃなくても大事な依頼。薬師や治療院が困るからね」
リゼは淡々と説明し、札を受付へ差し出す。
「ふたりで行くの?」
受付嬢が目を瞬かせる。
「はい」
リゼが頷く。
「……ふふ、仲良しね」
くすっと笑われ、ユウは耳まで赤くなった。
「ち、違……いや、違わないけど……」
「なに照れてるの」リゼが小声で突っつき、ユウは視線を逸らした。
依頼の受理を終えると、ふたりはギルドを出た。
街道を歩きながら、リゼは軽やかに言った。
「これならユウでも大丈夫。森に入って薬草を摘むだけ。少し危険な魔獣が出るかもしれないけど、私が守る」
「……ありがとう」
「だからユウは、ちゃんと見て覚えて」
「見て覚える?」
「冒険者の仕事を。いずれあなたがここに立つことになるなら、最初から教えてあげる」
真っ直ぐな眼差しに、ユウは胸を突かれた。
この世界で生きる未来を、彼女は当たり前のように語っている。
まだ実感を持てない自分との温度差に戸惑いながらも──不思議と嫌ではなかった。
森へと続く街道の先に、朝の光が差し込んでいる。
ふたりは並んで歩き出した。
──この日常が、ずっと続くように。
ユウはそう願わずにはいられなかった。
♢
森の入り口は、朝の光に濡れた木々がしっとりと佇んでいた。
葉の間から滴る露がユウの肩に落ちるたび、ひやりとした感触が現実を突きつける。
「ここが指定地」
リゼは手にした依頼札を確認し、視線を奥へ向けた。木々は密集し、道はすぐに途切れて土の斜面に変わっていく。
「……なんか、雰囲気あるな」
「森はいつもこんなもの。油断しなければ大丈夫」
そう言いながら、リゼは腰のポーチから小さな布袋を取り出した。
「薬草をここに入れて。目印は──葉の縁が赤く染まってるやつ。根まで抜くと駄目だから、葉だけ摘むんだよ」
ユウは頷き、足元の草を探り始める。
「これ、かな……?」
指先で葉を摘み取る。縁が赤い。けれど、ぎこちない手つきで少し裂けてしまった。
「そうそう。……でも、もっと優しく」
リゼが後ろから手を添える。彼女の指がユウの手を包み込み、草を正しく摘み取らせる。
「こうやってね」
「……あ、うん」
彼女の声は淡々としているのに、体温が近すぎてユウの耳は真っ赤になった。
「大丈夫?」
リゼが覗き込む。
「だ、大丈夫」
「顔、赤いよ」
「……森が暑いから」
「ふふ」
リゼは小さく笑った。
やがて二人は袋を薬草で満たしていった。
風が木々を揺らし、鳥が枝を飛び移る音が響く。
戦いの緊張感ではなく、静かな作業が続いた。
「ユウ」
名前を呼ぶ声に振り返ると、リゼは空を仰いでいた。
「こうしてると、不思議。私、ずっと誰かと一緒に薬草を摘むなんて想像しなかった」
「……そうなの?」
「うん。いつも一人で、依頼をこなして。仲間がいても、結局は戦いばかりで」
言葉が途切れ、少し間を置いてから彼女は笑った。
「でも今は、違う」
その笑顔はどこか照れくさそうで、けれど誇らしげだった。
ユウの胸が熱を帯びる。
ここに来たこと、この時間を過ごしていることが、確かに意味を持ち始めていた。
「……リゼ」
言葉を探したが、続きは出てこなかった。
リゼは首を傾げただけで、何も言わなかった。
森の奥で薬草を摘み続けるうちに、袋はじゅうぶんに膨らんでいた。
ユウは額の汗を拭い、深く息をついた。
「……結構、大変だな」
「ふふ。依頼って、みんなこんなものだよ」
リゼは袋を手に持ち、軽く振ってみせる。
「剣を振るうことばかりが冒険じゃない。むしろ、こういう地味なのが大半」
「なるほど……」
「ねえ、ユウ」
「ん?」
「こうして、ふたりで並んで歩いたり、働いたりするの……楽しい?」
唐突な問いに、ユウは少し戸惑った。けれど、すぐに頷いた。
「楽しいよ。すごく」
リゼの表情が和らぎ、胸に抱えていた袋を大事そうに抱きしめる。
「よかった。私も、楽しい」
短い沈黙が落ちた。
鳥の声と、風に揺れる枝葉の音が心地よく響く。
ユウはそっと口を開いた。
「なんかさ……こういう時間が続けばいいなって思う」
リゼは視線を伏せ、足元の草を軽く蹴った。
「……続くといいね」
その声は穏やかだったけれど、どこか遠い響きを含んでいた。
ユウは言葉を探したが、何も言えず、ただ隣を歩く彼女の横顔を見つめるしかなかった。
森の中で一陣の風が吹き抜け、袋の中の薬草がさらさらと鳴る。
♢
森を抜け、街の屋根が見えてきた。
袋に収めた薬草の重みを肩に掛けながら、リゼは振り返る。
「ほら、もうすぐだよ」
額に汗を浮かべながら追いついたユウは、深く息をついた。
「……けっこう歩いたな」
「だから言ったでしょ。薬草採りって案外たいへんなんだって」
リゼが笑みをこぼす。
道の先に石畳が続き、門番の姿が見えてくる。
冒険者たちの往来も増え始め、街のざわめきが耳に届きはじめた。
──ただいま、と言える場所ができたみたいだ。
ユウの胸にそんな感覚が広がる。
「ユウ」
名を呼ばれて顔を上げると、リゼが真っ直ぐこちらを見ていた。
「……今日は楽しかった」
「え?」
「一緒に依頼に出て。すごく自然で……普通で。そういうの、久しぶり」
彼女の言葉に、ユウの心臓がひときわ強く鳴った。
普通。
画面越しにしか繋がれなかった自分にとって、その一言は何よりも重かった。
「俺も……楽しかったよ」
二人の声が重なった刹那、街の鐘が低く鳴った。




