第40話 その向こうへ-1-
薄暗い天井がぼやけて視界に広がっていた。
ユウは瞼を重たく持ち上げ、焦点の定まらないまま、石造りの天井をただ見上げていた。
感覚がゆっくりと戻ってくる。
頬に触れるのは粗い布の感触、鼻をくすぐるのはランプの油の匂い。冷たいはずの床ではない──柔らかなベッドの上に、横たわっていた。
「ユウ!」
耳を打ったのは切迫した声だった。
振り向くと、泣きはらしたような目のリゼが身を屈め、必死に彼を抱き起こしていた。両腕で支えられ、上半身がゆっくりと起き上がる。
彼女の顔が近い。息遣いも、震える指先も、すべてが現実の重みを持って迫ってくる。
「大丈夫? わかる? ここがどこか……」
声は震えていたが、その目は逸らさなかった。必死にこちらを見て、何度も確かめるように問いかけてくる。
ユウの喉が乾き、ひどく重くなった。唇を動かしても声にならない。ようやく絞り出せたのは、掠れた一言だった。
「……本当に、来ちゃったんだ」
リゼの瞳が大きく揺れた。彼女は言葉を失ったように口を開きかけ、しかしすぐに唇を噛んで俯いた。心臓が早鐘のように打ち続ける。
頭の奥では「ありえない」と叫ぶ声が響くのに、手のひらに伝わる温もりがそれを否定する。
今ここにある現実感と、夢かもしれないという非現実感が、波のように押し寄せてはぶつかり合っていた。
「これは……夢じゃない」
ユウは小さく呟いた。
目の前で揺れるリゼの髪、泣きそうな声、震える体温。すべてが、触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、けれど確かに存在していた。
胸の奥で、怖さと安堵が入り混じった。
画面越しの「向こう側」だったはずの彼女が、いまは目の前にいる。越えてはならない境界を、自分は越えてしまった。
その実感が、じわりと身体の芯まで沁み込んでいく。
ユウの胸に額を押し当て、リゼは嗚咽をこらえるように息を震わせた。ぽたり、と涙が落ちる。
「……もう、離さない」
その声は掠れていて、けれど揺るぎない強さを帯びていた。
ユウは目を見開いた。彼女の腕が自分をしっかりと抱き締めている。細いはずの腕が、鎖のように決してほどけない意志を刻み込んでいた。
「リゼ……でも、俺がここにいることで……」
言葉を探しながら、ユウは喉を詰まらせた。
自分がこの世界にいること。それは彼女に新しい重荷を背負わせることに他ならない。
リゼの周囲にさらに多くの危険を呼び寄せるのは明らかだった。
「俺が関わったせいで……君まで危険に晒される。そうなったら、俺は……」
自分を責める言葉が喉奥で崩れた。
ユウの視線は床に落ちる。けれど、リゼは顔を上げ、真っ直ぐに彼を射抜いた。
「違う」
きっぱりとしたその声に、ユウは息を止めた。
「一緒にいることこそが……私を守ることになるの」
涙を滲ませた瞳が、強く光っていた。
「あなたが一人で背負うから、壊れそうになるんだよ。だったら一緒に背負えばいい。怖くても、苦しくても……あなたと一緒にいるなら、私は何度だって立ち上がれる」
ユウの胸が締めつけられる。
リゼの震える手が頬に触れる。その温もりが、言葉以上に真実を告げていた。
「だから、言わないで。『離れた方がいい』なんて」
「…リゼ」
(君が言ったんじゃないか、なんて言えないな)
彼女の涙が頬に伝った。それは弱さではなかった。むしろ決意の証のように輝いていた。
ユウは何も返せなかった。ただその温もりを受け止めることしかできない。
けれど、胸の奥深くで確かにわかった。
──自分は、彼女に必要とされている。
それは恐怖をも超えて、心を震わせる力を持っていた。
♢
宿の階段を上る足音がして、静かな空気が破られた。扉が開くと同時に、カヤが両手に荷物を抱えたまま顔を出した。
「ただいま……って、え?」
言葉が途中で止まった。
部屋の中、ベッドに腰かけるユウと、その肩を抱き寄せるようにして座るリゼ。
現実離れした光景に、カヤは目を瞬かせた。
「ちょ、ちょっと……この人、誰?」
呆然とした声が室内に響く。リゼは一瞬だけ言葉を失った。胸の奥で鼓動が跳ねる。そして迷いを振り払うように顔を上げた。
「……私の、大事な人」
口にした瞬間、頬が熱くなる。
ユウは息を呑み、耳まで真っ赤に染まった。
「お、おいリゼ……!」
慌てて否定しようとしたが、言葉はうまく続かない。
「だ、大事な……?」
カヤは両手の荷物を床に落としかけ、慌てて抱え直す。
「ちょっと、え?え? リゼ、そんな……」
混乱で顔を赤らめるカヤと、さらに混乱して赤面するユウ。部屋の空気は妙な方向にねじれていった。リゼは、少しだけ苦笑を浮かべた。
「……ごめん。でも、もう隠す意味なんてないから」
カヤは頭を抱えながら、部屋を見渡す。
「いやいやいや……連れ込むなら言ってよね。大事な人って事は、あれでしょ?違う世界の、ひと?この状況まずくない?」
「わかってる」リゼは真っ直ぐに答えた。
「でも、それでも一緒にいる」
短いやりとりに、揺るがない決意が滲んでいた。
カヤは深くため息をつき、結局それ以上何も言えなかった。
重苦しい空気の中に、かすかに笑いが混じる。
♢
観測室のモニタが一斉に赤い光を弾けさせた。
《越境反応 検知》──警告の文字が重なり合い、表示が雪崩のように流れていく。
「境界が…なんだこれは!?」
「制御…アンコントローラブルです!」
「観測点が…潰された!リゼの座標が消失しました!」
報告が錯綜し、室内は騒然となった。
誰かが椅子を蹴倒し、別の誰かは書類を抱えたまま立ち尽くす。恐怖と焦燥が波のように押し寄せ、誰も収拾できない。
「これは帰還者の仕業じゃ……!」
「いや、クラヴァルだ!あの女が境界を破ったんだ!」
「違う、リゼからの反応が──!」
混乱と怒号が渦巻く中、真宮が静かに口を開いた。
「静かに」
凛とした声が空気を切り裂き、喧騒が一瞬で凍りつく。眼鏡の奥から鋭い視線を走らせながら、真宮はモニタを見据えた。
「問題はただ一つです」
彼女は淡々と語り始めた。
「境界そのものが“人為的な干渉”で拡張された。
観測者の影響でフレームが膨張することはあっても──越境はありえない。それが、いま起きた」
ざわめきが再び走る。
だが彼女の声は揺るがない。
「つまり、こちらと向こうの隔たりは“触れ合える段階”に入った。誰が意図したにせよ、それは国にとって最大の脅威です。」
「異世界に“感知できる術”が存在するという事実、そして境界を越える可能性が立証されてしまった──」
「この二点だけで、十分すぎる」
重苦しい沈黙が落ちた。オペレーターの一人が震える声で呟く。
「……そんな、じゃあ侵略も……」
「可能性は否定できません」
真宮は短く答えた。
「そして問題は、どこからの干渉かが断定できないこと。」
「クラヴァルかもしれない、リゼかもしれない、あるいは我々の知らぬ第三の因子かもしれない。」
「──特定できない状況こそが、最大の危機です」
その言葉に、室内の空気がさらに重く沈む。
真宮は一度だけ小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
「……以上。至急、官邸への報告を準備します。これは研究の段階を超え、国家安全保障の問題です」
誰も反論しなかった。赤い警告がなお瞬き続ける。その光は、未来に何が待つのかを誰にも教えてはくれなかった。
全員が沈黙に飲まれる中、真宮だけがわずかに視線を逸らした。赤い光のちらつくモニタを見つめながら、唇が動く。
「……渡ったのは、あなたでしょう? 城野君。どうか無事でいて」
♢
リゼの部屋は、深夜の静けさに包まれていた。
窓から差し込む月明かりが、薄いカーテンを透かして揺れ、二人を包み込む。ユウはまだ体の力を失ったまま、ベッドに横たわっていた。
リゼはその傍らに座り、彼の額に手を添えていた。越境の余波で痛む身体は、未だ震えを残していたが、確かな現実感がそこにはあった。
「……もう、画面越しじゃない」
ユウは掠れた声で呟いた。
天井を見上げるその瞳には、恐怖と、信じ難いほどの安堵が混ざっている。リゼはその言葉に静かに頷いた。
彼の髪を指先で撫で、震える声で言葉を紡ぐ。
「そう。あなたは……ここにいる」
もう幻ではなく、確かに隣にある命。抱きしめれば、体温が返ってくる。リゼは震えを押し殺しながらも、彼を抱き寄せた。
沈黙が落ちる。けれど、互いの心音だけが確かに響いていた。やがて、リゼが顔を上げた。
赤く濡れた瞳で、ユウを真っ直ぐに見つめる。
「ねえ、ユウ……そういえば、まだちゃんと言ってくれてないよね」
声は小さく、けれど拒めない切実さを帯びていた。
「言ってほしいの。あなたの言葉で。そうしたら……私も、ちゃんと答えるから」
ユウは息を呑んだ。何度も喉で詰まってきた言葉。けれど今なら。彼女がここにいて、手を伸ばせば触れられる距離にいるのなら。
「……リゼ」
名前を呼んだだけで胸が熱くなり、視界が滲む。
鼓動は破裂しそうで、呼吸は震える。けれどもう逃げられなかった。
「……好きだ」
短く、けれど震えもなく、確かな響きで告げた。
魂を削るように絞り出した言葉は、空気を震わせ、リゼの心を貫いた。
リゼの瞳から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。泣き顔のまま笑おうとするその表情は、痛々しいほどに愛おしく、どんな宝石よりもまぶしかった。
「……私も。ユウが、好き」
互いの言葉が重なった瞬間、部屋の空気がやわらかく震えた。二人は互いを抱き寄せ、確かめ合うように寄り添った。
胸と胸が重なり合い、震える鼓動が同じリズムで打ち鳴らされる。
──もう離さない、と互いの身体が語っていた。




