第39話 ヘンカクノトキ-3-
リゼの部屋の扉を、コンコンと叩く音が響いた。
夜の帳が落ちて久しい時間。客の訪ねてくるはずもない頃合い、リゼが声を掛けると不思議そうな顔をしたカヤが現れた。
「リゼ、外にすんごいキレイな娘が来てる。あんたを呼んで欲しいって、こんな時間にさ」
怪訝そうな声。けれど、その表情にはどこか圧倒された色も混じっていた。
リゼは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
──来た。
「ありがとうカヤ。行くわ。」
意を決して、外へ足を踏み出す。
街灯の薄明かりに浮かんだのは、白銀の髪を揺らすクラヴァルだった。いつも舞台に立つ歌姫のように華やかなその姿は、夜気の中で異様な輝きを放っている。
リゼが声を発する前に、彼女がゆっくりと口を開いた。
「こんばんわぁ、リィゼェ〜」
偽りの笑みを貼り付けた声音は、甘いのにどこか歪んでいた。
「残念だけど時間切れ。私、これでも“国家戦力”なの。王様との約束の自由時間、ぜんぶ使っちゃった。彼を連れて帰りたかった」
悔しさを隠すように、唇の端がぴくりと吊り上がる。次の瞬間、その瞳は鋭く光った。
「……じゃあね」
背を翻しかけて、振り返る。
「次は──ユウを貰うわ!必ず!」
歪んだ笑みとともに吐き捨てるような宣言。
それは勝利宣言にも、呪詛にも似ていた。
リゼは声を詰まらせ、その背中を見送るしかなかった。
どこからともなく現れた。あれは従者だろうか。クラヴァルの隣に並ぶと、足元に光る陣が浮かび、二人の姿が消えた。
周囲に静けさが戻る。
──だが、その静寂は安堵ではなく、緊張を孕んでいた。リゼは拳を握りしめ、唇を噛む。
「……あの女、次はユウを……」
苛立ちが次第に露わになり、肩越しに部屋を振り返る。そこからは見えないユウの姿が、導火線のように胸の奥で火花を散らせていく。
♢
宿の扉を閉めた途端、リゼの吐息が荒く漏れた。
肩を上下させ、手の甲で額を拭う。けれど冷や汗は止まらない。
「……ユウ」
その名を呼ぶ声は、震えと怒りがないまぜになっていた。ユウは机の前に座ったまま、言葉を探していた。
クラヴァルが残した最後の言葉が、頭から離れない。
──次はユウを貰うわ。必ず。
胸の奥が凍るような感覚に支配され、息をするのも重くなる。
「どうして……」
リゼが呟くように声を落とす。
「どうしてあなたは、あんな女に目を向けられるの」
「……俺が望んだわけじゃない」
ユウの声は低く、掠れていた。
「向こうから勝手に……」
「勝手に!?」リゼが食い気味に遮った。
「じゃあ、あなたは何も思ってないって言えるの?」
その瞳が鋭く光り、ユウを射抜く。胸の奥で燻っていた焦りと苛立ちが、言葉に形を変えて弾けた。
「そんなこと言って……後でクラヴァルのところへ行くんでしょ!? あの女、あなたを呼んでたじゃない!」
ユウは言葉を失った。否定しようとしたが、喉が詰まる。実際にクラヴァルの配信を見てしまった自分の記憶が、反論の力を奪っていく。
「違う……俺は……」
「違うなら、はっきり言って!」
リゼは机越しに詰め寄る。
「私より、あの女を選ぶのかどうか!」
言葉が鋭くぶつかり合い、部屋の空気が震えた。
フレームの光がかすかに揺れ、まるでその緊張を映し出しているかのようだった。
互いの声が荒ぶほどに、部屋の空気は熱を帯びていった。
フレームの光が軋むように揺れ、映像の枠が少しずつ広がっていく。
「ユウ……!」
「リゼ……!」
呼びかけ合う声は怒号に近く、感情の針が振り切れるたびにフレームが膨張した。
最初はただ画面が広がる程度だったものが、次第に壁を押しのけるように部屋いっぱいに拡張していく。
「どうして答えないの!?」
リゼの叫びが響いた瞬間、光がきしみを上げた。
ユウの心も荒ぶっていた。
言葉が出せない自分への苛立ちと、リゼの問いに答えられない罪悪感。そのすべてが混じり合って、視界の端が熱を帯びる。
「…ユウのバカァッ!」
リゼが衝動のまま、拳を振り下ろした。
いつものフレームなら“壁”で止まるかすり抜けるはずだった。
だが──鈍い衝撃とともに、ユウの胸にリゼの手のひらが触れた。
「……え」
一瞬、世界が止まる。
越えられないはずの境界を越えて、確かな温もりが伝わってきた。
ユウは咄嗟にその手を握り、引き寄せるようにしてリゼを抱き止めた。胸の奥に焼けつくような鼓動が重なり、二人の視線がぶつかる。
「……リゼ」
「ユウ……」
互いの名前だけが、やっと声になった。
怒りも苛立ちも消え、ただ触れ合った現実に飲まれる。
その次の瞬間、ユウの頭を鋭い痛みが貫いた。
「──ッ!!」
視界が白く弾け、意識が裂けるような苦痛が走る。ユウはリゼの肩に崩れ落ちた。
「ユウ!? どうしたの、しっかり!」
フレームが悲鳴を上げるように軋み、光が暴走する。まるで崩壊寸前の音を立てながら、部屋を震わせた。ユウの体温が腕の中で重くなる。
呼びかけても返事はなく、ただ苦しげな息だけがもれる。
「……ダメ、こんな──」
リゼは必死にユウを支えた。
フレームの光は暴走し、壁や床に不規則な紋様を浮かび上がらせている。ひび割れる鏡のように世界が軋み、いまにも破裂してしまいそうだった。
「ユウ……目を開けて!」
揺さぶっても反応は弱い。額に触れると、異様な熱が伝わってきた。その熱は病のものではない。まさに魔術の酷使の“反動”だった。
(このままじゃ……ユウが壊れる)
胸の奥に鋭い焦燥が突き刺さる。迷っている時間はなかった。リゼはユウを抱きしめるようにして、顔を伏せた。
「……ごめん。でも、もう迷わない」
そして彼の体を抱きかかえると、迷うことなくフレームへと足を踏み入れた。
安定を失ったフレームは、光が肌を焼くように弾け、視界が揺れる。
境界を越える感覚は、冷たい水に飛び込むよりも過酷で、骨まで軋むような圧力が全身を叩いた。
「──っ、ぁあ……!」
リゼは声を漏らしながらも、ユウを離さなかった。胸に抱えた温もりだけが、彼女を突き動かしていた。
次の瞬間、足元の感触が変わった。
見慣れた宿の部屋の床が、そこにあった。
──異世界側に、渡ったのだ。
同時に、背後で轟音が響いた。フレームが軋みを上げながら、強引に閉じていく。
「……っ!」
リゼは振り返った。だが、青白い光の残滓は一瞬で吸い込まれ、静寂に溶けた。
もう戻る道はない。
重い息を吐きながら、リゼはユウをベッドに横たえた。その顔を覗き込み、指先で髪を撫でる。
「……大丈夫。絶対に、守る」
決意の言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
窓の外の夜風が吹き込み、薄いカーテンを揺らす。その音にさえ、異様な緊張が混じっているように聞こえた。
──彼は、もう異世界にいる。




