第13話 キミの羨望 ボクの切望
朝の光が木枠の隙間から不確かな線を引いていた。包帯の端がわずかに揺れ、床に落ちたその影もまた、小さく波打っている。
リゼは目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
呼吸の感覚を確かめるように、ひとつ息を吸い、そして吐く。腕の内側に巻かれた布が微かに擦れ、その感触が目覚めを現実へと引き戻していく。
起き上がろうとしたとき、脇腹に重みが残っているのを感じ、ほんの少し動きを止めた。
それでも今日を動き出させる理由は十分にあった。
洗面器の水を手で掬い顔を洗う。
冷たい感触がまぶたの奥に染みていく。装備を整えながら、リゼは窓際のガラスにちらりと目をやる。そこに映った自分の姿をすぐに視線から外した。
「起きた?」
扉の外から、柔らかい声がかかった。カヤだった。
「うん、いま支度してる」
「ゆっくりでいいよ。女将さんが、あんたの好きな甘いパン取っといてくれたって」
「……そう。ありがと」
壁越しの声のやりとり。姿は見えないけれど、温度だけが部屋に届いてくる。
「リゼ」
「なに?」
「ちゃんと歩くんだよ。あんまり無理しない」
「……わかってる」
扉の向こうでしばらく沈黙があった。
それから足音が遠ざかっていく。
宿の扉を開けると、ひやりとした朝の空気が頬をなでていった。
屋台を開く音、焼き菓子の香り、木の床を掃く音が混ざり合って、街の朝はすでに始まっている。
道を歩くと近所の少年が「あ、お姉ちゃんだ」と声をかけてきた。
「もう大丈夫なの?」
問いかけにリゼは一瞬だけ驚き、そして小さく頷いた。
「……うん。大丈夫」
そう返すと、少年は満足げに笑って走っていった。
ギルドの建物が見えてきたときリゼは一度だけ足を止めた。深呼吸ひとつ。
「大丈夫。たぶん」
そうつぶやいて扉に手をかける。
♢
中に入ると冒険者たちの声と、武具の音と、椅子が引きずられる音が一気に押し寄せてくる。
石床の感触、酒と油の匂い、日常がそこにあった。
ふと視線を向けると、左手の壁際。見知ったふたつの背中。ソファに浅く腰掛けているのはハナラとロアだった。
「よっす、復活の人」
ハナラが振り返り手をひらひらと振る。
リゼは少し戸惑いながらも、頷いて近づいた。
「歩けてんじゃん。えらいえらい」
そう言いながら、ハナラはリゼの腰のあたりをぽんぽんと叩く。
「こっちは補給済み。ナズくん干からびたけど、アタシは元気」
「……え、補給って」
「エネルギーよエネルギー。生命力ってやつ」
指先で下腹部を撫でまわし、にやりと笑う。
「生きてる限り、出せるものは出すってさ」
ロアが静かに視線を上げる。
「存在維持のための補充。効果は3日。おかげで毎回ナズは動けない」
「でもさー、うちらだけでも動けないと依頼回らないし?」
「この問いに解はない。それだけが答え」
二人はさらりと続ける。
「……ありがと、ふたりとも」
リゼが静かに頭を下げると、ハナラは手をひらひらと振って笑った。
「拾っただけだってば。キミだって同じことするでしょ?ま、助けたのはロアだけど」
「搬送手順、今回は最適だった」
「それ、ちょっとくらい感情込めて言えない?」
「事実に感情は必要ない」
「うわー冷たい」
ふたりのやりとりにリゼの口元が少しだけ緩んだ。
「で、今日は?」
「軽めの調査。北の遺構周辺。あんたは?」
「……まだ、決めてない」
「のんびりしときなよ。パンでも食べて」
ロアが立ち上がりハナラも続く。
「じゃ、行ってくるー。無理すんなよマジで」
リゼは静かに頷く。
「……いってらっしゃい」
去っていく背中を見送りながら、リゼは胸の内側にほんのり灯った熱を感じていた。
掲示板の前で少しだけ立ち止まったあと、リゼは依頼を取らずにギルドを出た。
今日は、無理をする日じゃない。
♢
街はすっかり朝の顔をしていた。
粉をまぶした焼き菓子の匂い、桶に落ちる水の音、誰かの笑い声。
すれ違う人々の中で、リゼの足取りだけがどこか異なる速さを刻んでいるように感じた。裏通りの細い道に入り、よく行く雑貨屋の前で立ち止まる。
軒先に吊るされた薬草が風に揺れていた。
視線で追っているうちに、ふと自分の足元が少しだけふらついた気がした。
痛みはもうない。けれど抜け落ちたものがまだどこかに残っている気がする。あの時、焼けた空気の中で、手放してしまった“何か”。
──静かだ。
ポケットに入れていた小さな木片を取り出す。
以前カヤが「お守り代わりに」くれたものだ。焦げた匂いがわずかに残る。だけどそれが今は少しだけ安心する。
路地を抜けた先、街の鐘が静かに午前を告げた。
街を見ながら考えをまとめよう。
それに、少し呼ばれている気がするから。
リゼは、向きを変えて進み始めた。
♢
教室の窓から午前の光が差し込んでいる。
その光の中、ユウはぼんやりとスマホの画面を見つめていた。
「最近さ、見てないよね。EWS」
隣の席から、春川が声をかけてくる。
「……まあ、ちょっと忙しくて」
ユウは画面を伏せ、適当な笑顔で返す。
本当は違う。
リゼのチャンネルはずっと「配信休止中」のまま。声も、映像も、なにも届いてこない。
昼休み。
昇降口を出たユウは、空を見上げる。
青空を横切る鳥の群れ。その中にひとつだけ逆方向に飛んでいく小さな影があった。それがなぜか気になって、しばらく目で追ってしまっていた。
夕方。
家に戻っても当然のように画面は変わらない。
通知も、アーカイブも、静まり返ったまま。
沈黙の時間だけが、ただ過ぎてゆく。
あの出来事は自分が望んだ幻覚だったかもしれない。そんな気さえしてくる。
夜。
ユウは机に突っ伏すようにして、スマホを片手に持っていた。画面には相変わらず「配信休止中」の文字。
そのとき。
不意に画面にノイズが走ったように見えた。
ユウは目を細めて画面を覗き込む。
けれどそこには何もない。
「……気のせい、か」
指を伸ばそうとしたところで画面がパッと輝きを増した。