第12話 異世界での闘い(炎の前で)
最初に異変に気づいたのは風の向きだった。
背中から吹いていた風がぴたりと止まる。
次の瞬間、逆巻くように前方から吹き返してきた。葉がざわつき枝が軋む。
空気の流れが乱れていた。
「なにが…?…」
リゼは思わずつぶやく。
その言葉に応えるように、足元の地面がごくわずかに鳴った。
いや、違う。地面が「鳴った」のではない。
──何かが、歩いている──揺れではなく重さだった。
地面の奥から巨大な何かの足音がじわじわと伝わってくる。
木々の間、暗がりの先、目には見えないけれど、確実に“何か”が迫っていた。
剣を構える手に汗が滲む。
胸の奥にまとわりつくような圧力が呼吸を浅くする。風が止み音が消える。音のない空間に圧だけが残された。
“それ”が現れたのはその直後だった。
霧のような影が木々の隙間から蠢くように現れた。明確な形を持たず、輪郭も揺れている。それでも本能が告げていた。
──これは、生きている。
反射的に踏み込んで、リゼは剣を振るった。
だが手応えはなかった。刃は霧を裂いたように空を切り、勢いのまま足場が乱れる。
その隙を影が逃すはずもなかった。
衝撃。
リゼは背中を打ち視界が大きく揺れる。
肺の中の空気が抜け、カ゚ヒュッと喉が鳴った。
地面が遠ざかり木々が倒れる音すら聞こえなかった。
そのとき世界が赤く染まった。
♢
──何かが、飛んでくる。
火球。轟音。熱風。
森の奥から放たれた巨大な“熱さ”が、爆ぜるように炸裂した。木々が裂ける。熱が押し寄せる。全身が巻き込まれる。
リゼの身体は吹き飛ばされ、地に叩きつけられ、動けなくなった。煙が視界を塞ぎ、音が消え──そして、森が白く滲みはじめた。
息が、できなかった。
喉の奥が焼ける。胸がうまく膨らまない。
どこから吸えばいいのかもわからないまま、リゼはただその場に倒れていた。視界がぐにゃりと揺れる。煙が流れ、光が滲み、音が遠のく。
(……まずい……)
そう思った瞬間だった。
ぼやけた視界の向こう、揺れる煙の切れ間に、何かが見えた。人影──のようなもの。
一瞬誰かがこちらを覗き込んでいる気配があった。顔までは見えなかった。声を出そうとしたが喉が動かない。ただ、肺の奥で何かがくすぶるだけ。
そのまま視界が再び崩れたとき、誰かに抱き上げられた。背中に感じる体温、腕の感触。揺れる視界の中で、天井のない空がぼやけて広がっている。
(運ばれてる……?)
身体は重く、四肢はうまく動かない。
意識は深いところで波打っていて、焦点が定まらない。どこかで声がしていた。複数人。男と女。はっきりとは聞き取れない。
「息はある」
「頭は打ってない」
「急いで、まだ倒しきれてない」
自分のことを言っている──そう思った。けれど、返事はできなかった。
♢
頬に風が当たる。どこかへ運ばれている。
木々の葉が揺れ、視界の端で光がちらつく。
赤と灰色に染まった景色が後ろに流れていく。
焼けた空気が肺の奥に残ったまま、リゼはただ身を預けていた。どこに運ばれているのか、誰に助けられているのか、わからない。
けれど不思議と怖くはなかった。その腕には、確かに力があった。
少なくとも──もう一人きりではないことだけは、わかった。呼吸が浅く、心臓の鼓動だけが遠くで響いていた。
「ロア、いける?」
「静かにして。集中する…」
落ち着いた声がそう返すと、すぐに何か冷たいものが胸元に触れた。
瞬間、体内に入り込むような感覚が走る。熱ではない。むしろ逆。
痛みの芯にゆっくりと染み込むように、冷えた水が流れていく。胸の奥にあった重さが、少しずつ溶けていくようだった。
「骨は無事。内出血はちょっと広い。もう少し静かに」
「いや、だからさ──あの距離で撃つなって。こっちの回収が間に合わなくなるだろ」
「あれは狙ってたの、あんたじゃなくて敵だから。もっと右にいたら文句なかったでしょ?」
「……ぜってーわざとだわ」
「二人とも黙ってて」
二人のやりとりが交差する。けれどもうひとりの声だけは変わらず一定だった。リゼの身体に流れ込んでいく“何か”と、同じ温度。
「もう少しで終わる。……焦らなくていい」
言葉の意味を追うより声の響きに意識が引き寄せられていた。はっきりとは見えない。けれど肩に当たる指の感触だけは確かだった。
痛みは薄れていく。代わりに全身が妙に軽く、なのに力が入らなくなっていく。
(身体が……)
感覚が戻ってくるはずだった。なのにまるで、深い水に沈んでいくような重さが残っていた。まぶたが勝手に落ちていく。
目を開けていたのに、視界が静かに閉じていく。
どこかでまた誰かが何かを言っていた。
けれどもうその意味は耳に届かなかった。
遠くで誰かが呼吸する音。誰かが立ち上がる音。
それらがすべて、膜の向こうから聞こえてくるように感じられた。
(……あれ…?)
身体の痛みは薄れているはずだった。
でも、全身が自分のものじゃないみたいに動かない。肩に置かれていた手の温もりも、ゆっくりと離れていく。
言葉にしようとしても、喉が動かない。
まるで、水の中で叫ぼうとしているような感覚だけが残る。
(……もうちょっと……だけ……)
手を伸ばそうとした。動かなかった。
誰に、何に、伸ばそうとしたのかもわからないまま、力が抜けていく。
最後に見えていたのは、白く浮かぶいくつもの魔術の陣だった。
それがすべてを塗りつぶしていくのをリゼは抗うこともなくただ見つめ、そして意識を失った。




