第10話 交差-1-
ユウは、自室の照明を落としていた。
暗がりの中で光を放つのは、手元のスマートフォンだけ。ただそこに意識を預けるように、イスにもたれて画面を見つめていた。
通知欄には、見慣れぬ文言が浮かんでいた。
──「フレーム:Rize - 接続中」
EWSの配信通知とは明らかに異なる。いつものような“Live”マークも、評価バッジもない。
ただ淡々と、灰色のUIにその言葉だけが浮かんでいた。
何気なく画面をタップする。
すると、映像がゆっくりと浮かび上がった。
……そこに映っていたのは、リゼだった。
けれど、これは“配信”ではなかった。
映像はやけに鮮明で、まるで──ビデオ通話のような構図。ユウは息を呑む。
画面の中、リゼがゆっくりと歩いている。視界の揺れ、空気の質感、そして音──すべてが、今までの“視聴体験”とは違っていた。
♢
雲が低く垂れこめていた。
鈍く沈んだ空の下、リゼは草むらの獣道を歩いていた。依頼帰りの帰路。荷は軽く、剣も鞘に収まっている。けれど、足取りは重かった。
「……今日は、何も起きなかった。平和だった、けど……」
誰に言うでもなく、そんな独り言が漏れる。
その声は、曇った空と同じ色に溶けていく。
風が、前髪をやさしく揺らす。その瞬間だった。
「……?」
足元の草が、そっと揺れた気がした。けれど風はもう吹いていない。
──歩いていたはずなのに、気づけば立ち止まっていた。
視線をゆっくりと周囲にめぐらせる。
誰もいない。何もいない。
「……あれ?」
自分でも驚いたように、ふと足元を見る。いつの間にか、周囲の空気が変わっている。
風は止み、さっきまで聞こえていた虫の声も、どこかへ消えていた。まるで、世界の音だけが抜き取られたような沈黙。
葉擦れの音も、自分の足音さえも、耳に届かない。
リゼは首をかしげ、ゆっくりと振り返る。
「……誰か、いる……?」
誰かが呼吸しているような、柔らかな気配。
背中の方で、確かに“何か”が視線を送っていたような──けれど、誰の姿も見えない。
♢
一方、現実世界のユウは、スマホ画面の奥から立ちのぼるような緊張に、思わず息を飲んでいた。
視線が、音が、空気が、まるでこの部屋にまで染み出してきているようだった。
「……リゼ……」
無意識に漏れたその声に、画面の中のリゼが、ぴくりと肩を揺らす。
「……誰か、いますか?」
彼女はカメラを見ているわけではない。
けれどその視線は、空を仰ぎ、何かを探すように漂っていた。
角度も、焦点も、こちらに向けられていないはずなのに──その言葉の温度だけが、確かにユウの胸に届いた。
ユウのスマホ画面の上に、一瞬だけ何かのテキストが浮かぶ。
──音声入力解析中
──送信ログ:エラー
彼は思わず画面に問いかけた。
「……聞こえてるのか……?」
応答はない。けれど、リゼの姿が徐々に“正面”を向くように変わっていく。
映像が、まるで“構図”を持ち始める。
単なる配信ではなく、「視線の交錯」を意図しているかのように、フレームの中のリゼがカメラの正面に立つ。リゼが振り返る。
そして──空中に、光の枠のようなものがぼんやりと揺れていた。
「……え……?」
ビデオ通話にように。
ユウの姿がそこに映っていた。
「……あなた、なの……?」
リゼが、息を呑むように問いかける。
その目に浮かぶのは、驚きと、微かな戸惑い。
けれど、次の言葉は、まるで確信をもって選ばれたようだった。
「……あなたが、“声”の……?」
ユウの喉が鳴る。
夢に見た光景が、今、目の前にある。
言葉が、ようやく唇を通り抜ける。
「ずっと、見てた。……君のこと」
音が、たしかに届いたのだろう。
リゼがゆっくりと頷き、小さく口を開いた。
「……届いてた。……ずっと、どこかから……」
それは、数秒にも満たないやり取りだった。
けれど、確かにふたりは“つながって”いた。
異なる世界を越えて、同じ時間を重ねていた。
♢
会話が途切れた瞬間、空気が急に重くなった。
ユウの画面の中で、リゼの背後に広がる森がざわめき、風が反転するように吹き抜ける。
葉が逆巻き、木の幹がきしむ。その音に混じって、低く響く“地鳴り”が足元から忍び寄ってくる。
リゼの表情が凍りつく。
「…地震、じゃない」
「…何かが…歩いてる…?」
そう呟いたその声にも、わずかな震えが混じっていた。
木々の奥。闇の向こうに“それ”の気配があった。
姿は見えない。けれど、確実に“いる”。
圧倒的な気配が空気を圧縮する。
風が止み、周囲の光がにじむ。
ユウのスマホにも異常が走る。異世界の映像がブレ、ノイズが走り、警告メッセージが点滅する。
──frame_connection unstable──
リゼはそれに気づいていないのか、あるいは見えていないのか──真っ直ぐに前を見据えていた。
だが次の瞬間、彼女の目が、はっきりとこちらを見た。
「……あなた、見てますか?」
その問いに、ユウは衝動的に叫んでいた。
「見てる!……いる、ここにいるから!」
TLに、再び赤いエラー文字が走る。
映像が急速に乱れ、音が潰れ始める。
「リゼ!逃げて!!」
「待って、まだ……!」
互いの声が、重なりかけたその瞬間──
バチンッ
鋭い破裂音と共に、フレームが崩れ落ちた。
画面が一瞬フリーズし、ノイズの波が押し寄せ──そして、映像は完全に途絶える。
──Connection Error
Frame Disconnected──
ユウのスマホには、ただその文字だけが残されていた。部屋の中には、スマホのバックライトの淡い光と、静寂だけがあった。
ユウはその画面を握りしめたまま、微動だにしない。胸の奥に残るのは、リゼの“声”と、“視線”の余韻。
それは確かに──つながっていた証。
けれど今、その手は空を掴んでいた。
静かに目を閉じて、ユウはぽつりと呟く。
「……リゼ。無事でいてくれ……」