かわりもの
巨大な雲が街に訪れた。朝日を隠すあれのせいか、街はいつもより暗く不気味に見える。
夏の蒸し暑さを抑えてくれるあの雲の中に、何か良くないものが乗っていた。
それが雨に乗り地へと降りた瞬間、奇怪な何かが芽吹く。
「まただ。」
多色の絵具が混ざったような灰色の空から、ぽとぽとと雫が壁を叩いて滴っていく。ケイは半分ぐらい開いているカーテンの隙に立ち、それを眺めていた。
「いやだな。。。これだと鬱になっちゃうよ。」
自然と目が細くなる。薄い頭痛が目の上でじーんと唸る。湿気が多い日はいつもこうだ。そして梅雨に入ったこの時期はケイにとって不愉快極まりない時期なのだ。
ケイは肩甲骨の辺りまで伸ばした髪をゴムでくくると、頭をゆるっと振りながらキッチンへと歩いた。フローリングから気持ち悪い接触音がする。早くコーヒーでも飲んで気を紛らわしたい。
「あ、ない。」
コーヒーを入れておく瓶にはスプーンで掬うにも難しいであろう量の粉が底に点々とばらまかれていた。これだと1杯はおろかコーヒーの香りさえしない。
「やだ。。。買いに行かなきゃならないじゃん。」
ケイは窓の外をもう一度見た後、眉間を寄せる。雨は先よりも強くはなっているものの、傘をさして出かけるにはジメジメしそうなほどには降っていた。ケイはどうしても気が乗らない表情のまま、玄関のバスケットに刺されていた傘を手にした。
外に出るとふわっと肌に触る湿気が気持ち悪い。ケイは困り顔のまま道を歩いた。最寄りのスーパーまでの道は小道をなんども通らないと行けず、狭い路地に溜まり溜まった水っぽい空気が体を重くした。
「。。。だってさ。」
「え?」
ふとケイは顔を両方に振る。両面に立っている建物の壁にはがらくたや電気メーターなどがついてるが、どこからも人の声が聴けそうなところがなかった。
「え?なに、何?」
「。。れ。。。聴いた?」
「聴い。。。れのは。。し。」
戸惑いながらも声のする方を探る。だが狭い空間に響いてるせいか上手く探せない。ケイは背筋から走る冷気に震える。この路地を出なきゃ。
「水たまりを。。。るとね。。。るらし。。」
「あの。。。ら。。。きた。。。のを。。。」
不気味な声たちは聞き取れないことをぶつぶつと話し続ける。ケイは混乱した。この路地、こんなに長いはずがないのに。それを考えると動きが鈍くなる。金縛りにでもあってるような、恐ろしく不慣れな感覚だ。
「気を。。。けない。。。ね。。。」
「。。。られちゃうから。。。」
「なんなの。。。いったい何なの!!!」
ケイは悲鳴に近い声をあげた。声は楔となりケイの足を、胴を、腕を、首を縛っていく。いったい何が起きているのか。
「きを。。。」
「。。をつけ。。。」
ぶるると体が震えた。冬風のように冷たい風がどこからか吹いてきた。
「きをつけて」
「きをつけて」
「きをつけて」
「きをつけて」
「いやあああああああ!!!!」
必死に力を入れる。暗い何かがケイの体にまとわりつき離さない。歯を食いしばり全身を狂ったように揺るがす。声がどんどん耳元まで近づき、すぐそこで聴こえようとした瞬間、体が動き出した。弾くように体が前へと飛び出す。
ケイは言葉にならない悲鳴を上げながら走った。路地はそこまで長くはない。なのに出口へと辿り着かない。後ろであの声たちがついてきている気がする。こんなに悲鳴をあげてるのに、向こうからは誰の気配もしない。ただただ声が接近してくるばかりだ。
「助けて!誰か、助けて!!!」
涙で目元が熱くなった。死にたくない。聴きたくない。世界がどんどん暗く見える。匂いも、感触も伏せられただあの不気味な会話だけが聴こえてくる。ケイは死ぬ気で走った。声は手のようになりケイの首を掴もうと来る。
冷たい感触が首筋に届こうとした瞬間、光がケイの視野を照らした。転がりそうになり前へと傾く身体をなんとか整えると、いつの間にかケイは路地の外、大通りに出ていた。地獄から聞こえるようなあの会話は今じゃどこからも聞こえない。
「。。。助かったの?」
ケイは後ろを振り向いた。路地はどこでも見れそうな普通のあれだった。
「いったいなんなの、あれ。。。」
大通りを通る人は少なかった。その人々がケイをちらちら見ながら過ぎていく。ケイは青ざめた顔を隠すように頭を下げて足を動かした。
コーヒーを買って戻った頃には曇った空から夕陽が柱のように降り注いでいた。買うものを選びながらもケイは不安をぬぐい切れず、意識して光を浴びるように帰り道を歩いた。
「あれはきっと疲れて勘違いしたのよ。大丈夫。家に戻ったら早めに休もう。ならば忘れるから。」
手に持ったビニール袋がカサカサと揺れていた。ケイは耳に障る音を意識から遠ざけようと努力する。すべてが怖くて、余計に邪魔だと感じるのだ。
「大丈夫。大丈夫。。。」
全部大丈夫。何も起こらない。ただいつものような普通の日々が続くんだ。ケイはそう何度も心の奥を落ち着かせながら低い階段を上った。目の前のエレベーターがちょうど1階に止まっていた。
エレベーターが上り始める。耳がぼーっとつまった。ケイは唾を飲み込んだりしながら圧力の溜まった耳を元通りにしようとした。そして少しずつ耳が治っていくと思った瞬間、一人だけのエレベーターの中から何かが聞こえ始めた。
「それ。。。聴いた。。。?」
「え?」
ぶつぶつと、はっきり聞こえない会話はケイが立っているところの反対端から薄く、でもはっきり聴こえた。
「え?な。。何?」
「水。。。まりから。。。れが。」
「みつ。。。るとね。」
あの声は耳を澄まさないと聴こえなさそうな小さなものだ。だがそれは先よりもはっきりとした文章となってきている。ケイはそれが何なのか思い出した。
「早く。。。早く!!!」
荒い息を立てながらボタンを連打する。スクリーンの数字はゆっくりと、止まっているかのように上がっていく。ケイはエレベーターの隅に顔を隠すようにして目をぎゅっと閉じた。早くつけ、早く。
ちーんとベルが鳴ることと同時にケイの体が弾けるようにエレベーターから出た。足はもう走っている。部屋は廊下を少し歩かないとたどり着けない。ケイは両手で耳を塞いだ。あの不気味極まりない声をもう二度と聴きたくはない。
玄関の前に立つと、袋を床に捨てるように放り出し急いでズボンのポケットに手をさす。鍵を掴もうとするが、緊張で濡れた手から滑り続ける。声は聴こえない。でも聴こえるかもしれない。
「取った。。。!」
ケイは鍵を出すとドアノブを壊すかのようにさして強く引いた。部屋に身を投げるように入るとすぐドアを閉める。そこまでしてやっとケイはその場に尻もちをついた。家は静かだ。あれはきっと人の家までついてくることは出来ないに違いない。
「いったいどうしてこんなことが私に。。。」
何分か座っていたケイはやっと体を起こすことが出来た。部屋は静かだ。外もいつものように騒ぎ無しの様子だった。ケイは窓際に近づきカーテンをもう少し開ける。日は暮れ、見下ろすと道路には帰宅をする何人かが見えた。雨は降り止んでいた。
「そう、きっと疲れてたんだよ。ちゃんと休めばいいんだから。」
ケイは目を瞑りながらカーテンを閉めた。家の中は何故かいつもより冷たい気がした。
ケイは人があまり好きではなかった。人の気を伺うようで自分勝手な、集団で集うとひどいことをこともなげにする。だから距離を置きあまり関わらないようにする。そのおかげで今の一人暮らしの中で、お隣とは顔もほぼ合わせてはいない。彼らにとってケイは変わり者だった。多分彼女が同じ建物に住んでいること自体、分からないかもしれない。
「あ。。。」
ふと眠りから覚めると、真っ暗な部屋の中が少し寒かった。まだ秋に入ったばかりだ、ここまで寒くなるはずがない。薄めの布団から身を出す。そしてやっとか細い音が窓の外からしてることに気づいた。
「またか。」
先止んだと思った雨が今やかなりの強さで振っていた。さーと大きい音が世界を叩いている。ケイは開けたカーテンをまた閉め、ベッドから立ち上がった。しばらくは眠れそうにない。
雨は降り止まず、雨雲は空がないかのようにこの街を包み、夜の闇をもっと暗くしていた。電気をつけ、キッチンに向く。コーヒーポットをつけて椅子に座る。深夜の静寂を楽しむ性格だが、建物を叩く雨音のおかげでそうもいかない。
「いつ止むんだろう。」
ケイはリビングを眺める。あまり置物のない、質素とも言える光景だ。何かで飾ってみようかなとも思ってたが、中々何を選ぶべきかわからない。
「こういうところかな。。。」
最近は何とかと生活への不満があった。何がきっかけでこうもやっとしているのかはわからない。わからないから尚更もどかしい。私はどうすればいいのか、何が必要なのか。ケイはため息をついた。胸が苦しい。
ぽと。。。ぽと。。。
どこからか水が落ちる音がした。ケイはびっくりしたように顔を上げた。シンクからするのか?シンクではない。部屋の窓は全部閉まってある。視線が洗面所に移る。閉じてあった扉がほんのちょっと開いてる。
「え?どうして。」
身体が委縮する。もう一度思い出してみてもあの扉を開けておいた覚えはない。水の音はいまだに続いている。どうして?ケイは動こうにも動けなかった。静かな空間の中で、その音だけが強く反響する。
「それ知ってる?」
「あれのこと?」
「そう。あれはね、水たまりから来るって。」
「あ。。。」
すぐそばで話してるように鮮明な声。鳥肌が波紋のように全身を揺るがす。
「あれはね、空に昇る水と共にね、雲に乗って来るの。」
「あれはね、探してるの。自分がかわって入れる場所を。」
「だれもしらなさそうな、かわってはいれるばしょを。」
「そしてかわるの。」
「かわる」
「かわる」
声は純真無垢なようで、冷めた刃のように鋭く聴こえた。耳を刺されるような、不愉快で痛々しい、苦しい会話。
「やめて。。。!」
「かくにんシナイノ?」
「カクニンシテヨ」
「カクニンシロヨ」
「カクニンシロ」
「カクニンシロ」
「カクニンシロ」
「カクニンシロ」
あれらは耳元でずっと呟いてくる。ケイは恐怖に体が固まった。息をすることすら忘れそうな恐ろしさが部屋に広まる。そして開いた洗面所の扉の隙間から闇が触手のようにくねくねと出ているように見えた。
「これは幻覚だ。これは幻聴だ。。。疲れてるからだ。何もない。何もない。。。」
強い恐怖は人の理性を麻痺させる。ずっと虚空から聴こえる声を無視しながら、ケイは少しずつ洗面所へと足を運んだ。一歩、二歩、三歩。。。
開いている扉のドアノブを掴み開ける。まずは洗面台に目が行った。蛇口からは何も落ちていない。暗い洗面所の中にリビングからの薄い光が入り、鏡にケイの姿が映る。いつも見る自分の顔が不気味な何かに見える気がする。もしや横に何かがいて、私に声をかけてるんだと思っていたが、幸いか不幸かそこには誰もいなかった。
「お風呂。。。」
音がするのはお風呂場だった。不透明なガラスのついた扉もまた、ほんのちょっと、まるで何かがあそこで外を覗こうとするかのように少し開いてる。水の音はその隙間から聴こえた。
「聴こえるはずないのに。。。」
震える手を伸ばし、扉を開く。暗闇の中にかすかな光源が広がると、シャワーヘッドから雫がぽと、ぽとと浴槽に落ちてるのが見えた。
「これを閉めれば終わる。。。」
ケイは自分を言い聞かせるようにはっきりとした声を出す。ハンドルを押すと小さな動きと共にシャワーヘッドの漏水が止まった。すべてが終わったのだ。このままここを出て、ベッドに入ればいい。
「ノゾカナイノ?」
「マッテイル。」
ケイの視線が勝手に動く。この暗さの中、何かがはっきりと見えるはずがない。だが目線は自分の意思を無視して浴槽の中へと動いた。
「あ、ああ。。。」
絶望がケイの頭を満たしていく。体は抑えられたようにびくとも動かない。視線が浴槽の深い奥を見つめる。浅くともどす黒い水面にはケイの顔が映っていた。
「私だ。。。私だよ。ほら、何も。」
水の中の顔は恐怖で引きずっていた。そしてそれがどんどん形を変えてく。
「いや。。。」
目を見開いている水の中のあれの目がどんどん真っ赤な色へと変わってく。恐ろしさに満ちていた表情が笑顔に変わり、口元が引きちぎられたように耳へと、目元へと上がっていく。
「きゃあああ!!!」
甲高い悲鳴が洗面所に響く。それに伴い身体が弾くように後ろに飛んだ。ケイは半分倒れた体を無理やり起こし、両手で床を這って後ろへ下がる。足に力が入らない。お風呂の扉がケイの背中に当たった瞬間、浴槽から音がした。
じゃば、じゃば。浅い水場を手でたたくような、辿るような気持ち悪い音。そして浴槽から黒く丸い何かが湧いてきた。
「助けて。。。誰か。。。」
声が枯れ上手く出ない。あれは頭だ。その横に指が一本、二本。。。そしてその反対にまた指が一本、二本。。。浴槽を掴んでその顔が姿を現した。
「あああああ」
言葉にならない悲鳴が上がる。それはケイだった。だが、奇怪に歪んだあの顔は決して人のものではない。それが今、浴槽からこっち側へと出ようとしている。
「カ。。。」
ケイは体を起こそうと狂乱する。
「カワレ。。。」
それは口をぎこちなく開けながら機械音みたいな声を出した。近づいてくる。触れたらいけない。ケイは痙攣しそうに力を入れる。体を起こすんだ。
「カワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレカワレ」
「ああああ!!!」
叫びと共に体が跳ね上がった。ケイはどこかにぶつかることも気にせず洗面所を飛び出した。その時足がどこかに引っかかり、リビングの床に激しく倒れこんだ。
「あっ!!!」
痛みで苦しい喘ぎ声がする。だがすぐ後ろにあれがいる、私を追ってきている。それを想うと体を起こし這いながら寝室へと逃げる。玄関に向かうのはもう遅い。外に逃げようにもまた洗面所の前を通らないといけない。
じゃば、じゃば。
水に濡れた何かが床を踏み進む音。それが後ろから聴こえる。ケイは振り向けない。体は思うように進まない。すぐ追いつかれてしまう。
「なんで。。。なんで私なの!私は何もしてないのに。。。!」
「カワレカワレカワレカワレカワレ。。。」
あれは同じ言葉を繰り返す。雨音が激しく窓をたたく。水の音が世界を埋め尽くし、ケイを飲み込もうとする。
「死にたくない。。。あああ。。。」
熱い涙が頬を伝って流れ落ちた。すぐ後ろ、足のすぐ隣まであれが来ている。もう逃げられない。絶望と恐怖がケイを重圧する。その時だった。
ざああ。。。。
すべての音が刹那に消えた。雨音も、歩いてくる濡れた足音も、呪われたような声も。
「あ。。。。」
ケイはうつぶせになったまま何分か固まっていた。そしてやっと顔を上げ窓を見つめる。雨は止み、先まで夜空を遮っていた雲はどこにもなく丸い月が月光を世に放っていた。
「あ。。。」
光がケイの瞳に落ちる。その瞬間精神が途切れ、ケイはその場で気絶した。部屋は静かで、今まで何もなかったかのような普通の景色だった。
ケイが目を覚ましたのは日が頂点まで登った正午だった。体のあっちこっちが痛い。昨日のあれは夢だったのか?そんなはずはない。私がリビングの床で倒れているはずがないんだから。
でもケイはあえて昨日のあれを否定しようとした。そんな恐ろしい経験はなかった方がいい。全部勘違いでいいのだ。そして体を起こした瞬間、ケイはそれを否定することが出来なくなった。
床には足跡が残っていた。変わり者のケイはその日、かわりものに会ってしまったのだ。
「惜しかったね。」
「惜しかった。」
「雲がね。」
「もう少し残ってれば」
巨大な雨雲は存在しなかったみたいにきれいに消え、風に乗りどこかへと流れて行った。そしてその街から遠く離れているある山の上にまた大きな影を作った。登山客の失踪手配書が山の入口に貼られたのはその日からあまり日が経たない日だった。




