統合
「クソ! クソどもがよお! 消えろ! 消えろよおおお!」
夜、とある住宅の一室に響き渡る少女の怒声。その獣じみた絶叫に、夫婦はただ耳を塞ぐしかなかった。
以前はこんな子ではなかった。笑えば頬にえくぼができ、素直で、拍子抜けするほど手のかからない娘だった。だが、ある日を境に、何かが壊れたかのように豹変したのだ。
「もう無理よ……あの子がどうしてこんなふうになっちゃったのか、あたしにはわからない……!」
「落ち着けよ。君まで取り乱してどうするんだ。大丈夫、きっと医者がなんとかしてくれるさ」
「……そんなこと言って、病院に連れて行ったのもあたしなのよ!」
「仕方ないだろ。おれは仕事があるんだから……」
「あなたは事の深刻さをまるでわかってないのよ! どうするのよ……ずっとこのままだったら……」
「だから、大丈夫だって。今は薬も療法もいろいろあるだろう。統合失調症? だっけ。治るよ」
「だっけ……? 『だっけ』って、だから! あなたはほんとに何もわかってないのよ!」
妻は怒鳴りつけた。しかし、娘の状態は彼女が考えていたものとは違っていた。これは精神疾患などではない。娘は取り憑かれていたのだ。幽霊に。それも――
『えっ?』
死した女、カナコは迷宮を彷徨うように、夜の住宅街を当てもなく漂っていた。意識は薄れ、無数の家々の窓の明かりが、もはや遠い星のように感じられていた。
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。そして、ある明け方、カナコは一つの家へ吸い寄せられた。自分の意思ではない。そもそも、幽霊となってからは「意思」というもの自体が希薄になっていた。ただ疲れ果て、まるでベンチに腰を下ろすように、そこへ流れ込んだのだ。その家の娘の中へ。
取り憑いたその瞬間、カナコは奇妙な心地よさに包まれた。生前の怒りや苦しみが遠のき、意識がさらにぼんやりとし、まるで小動物を抱いているような温もりを感じた。あるいは、自分が抱かれているかのような。
いつ以来かの穏やかな気分だった。ぼんやりと、ただ身を委ねた。
だが、夜になると霊は活性化する性質を持つのか、次第に意識が鮮明になり、気づけばカナコは娘の心象世界へと引き込まれていた。
そこは、かつては美しい花畑だった。風に揺れる無数の花が咲き乱れ、青空の下に優しい光が降り注いでいた。しかし今、その景色は見る影もない。花は一輪残らず枯れ果て、茎は陰嚢のようにしぼみ、大地は剥き出しになり、ところどころ水泡が潰れた皮膚のように爛れている。空は血のように赤黒く濁り、臭気と湿潤した空気に満たされていた。
娘の心は荒れ果てていた。だからこそ、カナコはすんなりと取り憑くことができたのだ。ただ、その原因は……
『また新入りが来たねえ』
『え、新入り……? あの、あなたは……』
黒い影が揺らめき、その輪郭がぐにゃりと歪み、裏返るように老婆の顔が現れた。老婆は皺だらけの口元をゆっくりと吊り上げ、低く囁いた。
『あんたと同じ、この子に取り憑いた幽霊さ。三番目にね』
『三番目……? それに、またって、もしかして他にもいるんですか?』
『ああ、あんたで八人目だよ』
『八人!?』
『この子は霊に取り憑かれやすい体質みたいでねえ。そのうえ、両親の不仲やストレスで心は穴だらけ。だから次々と取り憑かれていったんだよ。もうガバガバのガバさ』
『そうだったんですか……私、この子の体をちょっとだけ借りて、束の間でも楽しい気分を味わえたらって……。生きていた頃は男に裏切られてばかりで、楽しいことなんて一つも――』
『あー、はいはい。結構。あんたの身の上話に興味ないよ。もう始まってるんだからね』
『始まってる……?』
『そう。向こうを見てごらん』
『あああああああ! おれのだ! おれの!』
『消えろ! 消えろ!』
カナコは戦慄した。黒い影たちが蠢き、時折服を裏返すようにして生前の姿を覗かせる。その姿はどれもひどく歪み、透けて見えるのは憎悪の念。絡み合い、生み出されるのは悲鳴と怒号の協奏。
『な、なにをしているんですか、あの人たちは!?』
『決まってるさ……。誰がこの子の体を奪うかの殺し合いだよ!』
『殺し合い……』
『いずれ、この子の両親は医者に見切りをつけるだろうよ。そしたら、次にどうすると思う? 神頼みさ。寺だの神社だのに連れて行って、お祓いすることになるだろうね。あっちからしたら藁にもすがる思いだろうが、効果てきめん。あたしたちはボン! きれいさっぱり祓われて、おしまいさ。だからその前に、一人がこの子を支配し――ぐうぅ! あ、あんた!』
老婆の言葉が途切れた。カナコの手刀がその喉を貫いたのだ。濁った血がぶくぶくと気泡を作りながら噴き出し、空中に飛び散る。それが顔にかかると、カナコは舌でぺろりと舐め取り、にいと唇を裂くようにして笑った。
『年寄りは話が長くて嫌ですねえ。姑にそっくり……。あの人、旦那が浮気したのは全部私のせいだって……許せない……! 死ぬ前に殺してやればよかった……!』
老婆は血を滴らせながら、顔を歪めて笑った。
『ふふっ、なるほどね……あんたも立派な悪霊だったってわけか。上等じゃないか……さあ、始めようか! 生き残りをかけた、地獄の饗宴をねえ!』
孤独な少女の心は毒虫の坩堝。膨れ上がる浮腫。老婆の身体が身体がぐにゃりと歪み、膨れ上がって巨大な芋虫へと変貌した。爛れた皮膚には、無数の毒々しい目玉模様が浮かび上がり、そこから毒液が滲み出る。
一方のカナコは、裂けるほどに口を開き、無数の牙を剥き出しにする。両腕の関節が異様に増殖し、カマキリのように鋭利な構えをとった。
怨嗟怨嗟、えんさっさ。救済を求め、喰らい合う魂たち。だが、どこまでも暗き世界に勝者などなし。
「ごめんね……ごめんね……幸せになるからね……」
口論の末、夫を刺し殺し、四歳の娘の首を絞めた妻の病状は育児疲れから来る神経衰弱。逮捕後、彼女は夫の暴力と育児への無関心を泣きながら語った。
『母』と『女』。
いつからか二つに分かれていた彼女の精神は、事件のときすでに『女』に統合されていた。