桜の道
「夏坂、夏坂、夏坂、そして、夏坂」
僕は窓辺から注がれる光に照らされた7体の夏坂のフィギュアを眺めていた。自己紹介で、夏坂の言葉に背中を押された僕にとって、夏坂薫はもはや嫌悪の対象ではない。しかし、あの少年にとって、夏坂は紛れもなくハズレである。あの少年は、桃色ピーチに付属するおまけで、別の選手を望んでいる。僕はあの少年が、僕のように夏坂に救われることを夢見る。夏坂が当たりに変わる瞬間を期待する。
春の風に吹かれてページがめくれている夏坂の著書を手に取って、しばらく眺めた。
「好きなものから逃げてはいけない。正直いえば、つらい練習で投げ出したくなったこともあった。けれども、そこには恩人としての野球があった。僕を救ってくれたもの。裏切れるわけがない。僕の心には、いつだって野球に対する愛情があった。不思議なことに、その純粋な愛は、すべての困難に打ち勝つのだ」
好きなものか。好きな人ならいるな。湯川かのんのことを、僕は想う。あの天使のような微笑みは、僕の心に沈殿して、僕の濁った心を清めてくれた。高幡不動にある喫茶店ルージュ。かのんのお気に入りの喫茶店。僕はそこに行ってみようと思った。
僕は自転車に乗って、坂道を下って行った。暖かい陽光に照らされて、桜の漂う香りにうっとりとしながら、最高潮の気持ちでペダルを漕いでいく。川沿いの道、桜の花びらが乱れて浮かんで流されていく。とても美しい光景のなかを、自転車で走っていく。しかし、こんな清々しい気持ちも一つの怒号で打ち壊された。
「おい!逃げんな!」
というその声に、僕は思わずブレーキを握った。僕のことではない。声は公園から聞こえた。少しの好奇心から僕は公園をのぞいた。こちらに向かって走ってくる少年。金髪の少年。あっ、今朝の少年だ!少年は僕の顔を見ると、一瞬、顔をほころばせた。そして、そのまま走るスピードを速めて、僕の自転車の後ろにまたがった。
「お兄さん、久しぶり。走って!早く!」
と、少年は叫んだ。僕は言われるがままにペダルを漕いで、桜の舞う川沿いの道を駆け下りて行った。後ろを振り返ると、少年を追っていた人影は小さくなっていた。念のため往来の激しい道路を横断し、バイク屋の隣の空き地で止まる。
「お前、けっこう嫌われてるんだな。友達か?」
「友達っていうかエネミーだよね」
「エネミー?」
「敵だよ敵。あっ、いけね。本を忘れた。引き返して」
「大丈夫かよ。まだいるんじゃねえのエネミー」
「なんとかするよ。大事な本なんだ」
僕はまた自転車の後ろに少年を乗せて、来た道を戻って行った。面倒なことに巻き込まれた。断ればよかった。




