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 蝶が飛んでいる、と思った。窓の外に三つか四つの蝶が現れる。スーッと流れてフッと消える。ボーッと見ているとまた現れる。白く、淡いものが風に流されて漂う。しばらく見ているとまた現れる。

 蝶の数はだんだん増えて、やがて、窓いっぱいに広がると初夏の穏やかな風に流されてさまよう。見ていると、それがシャボン玉だということにようやく気がついた。と、ガラス窓の向こうに小さな子供がふっと現れた。

 唐突に現れた女の子は細長いプラスティックの筒の中の石鹸水に漬けたプラスティックの棒を筒から引き抜いて左右に振る、と、棒の先から小さなシャボン玉がたくさん出てきて空中をふわふわと漂い、虹色に輝き、風に流され、やがて、消えていく。まるで魔法のように現れては、また、消えていく。

 女の子はその細長いプラスティックの棒を振り回しながら、やがて、視界の外に消えた。女の子の姿が見えなくなると、その残像のように空中に漂っていたシャボン玉も風に舞い、やがて、見えなくなった。窓の外の風景はいつもの風景に戻り、シャボン玉の虹色の輝きも、その輝きに閉じ込められた時間と空間の一切が消えた。

 ボクはそれが蝶でなくて少しガッカリしていた。初夏の日の柔らかい陽の光の中で午後のうたた寝から目覚めたばかりのボクの身の回りでは、今、どんな不思議が起きてもおかしくないと思ったから。


 サチの友達に柿田祐子という女性がいた。サチとはほぼ同年代で、だから、ボクより一回りは若い。サチとはSNSや電話で連絡を取り合っていて、そう頻繁にやりとりしていたわけではなかったが、我が家には、時々、思い立ったように遊びに来た。

 独身で都内に住んでいたのだが、少し変わった人で、湘南の西の外れにある我が家まで五十ccの原付バイクに乗ってくる。それも、ギア付きのスーパーカブで来る。一時代前の小型バイクでとんでもない距離を走って来るのだ。

 都内の外れから湘南の西の端まで何時間かかるのかよくわからない。しかし、原付バイクだから制限速度があるし、高速道路には乗れないし、……、

〈遠いのに疲れるだろうな……〉

 と思う。

〈ただ遊びに来るだけなら電車で来る方がずっと楽だし早いのに……〉

 と、怪訝に思いながら、来れば一応歓待する。近所のティールームで時間を潰したり、時間があれば少し上品なレストランで食事をしたり。一応、遠来の客だからボクも付き合う。

 彼女が我が家に泊まっていった記憶はない。柿田祐子はどんなに遅くなっても、その日のうちに原付バイクに乗って帰って行った。例のスーパーカブで走り去るその後ろ姿には何か言うに言えない、孤独で、もの悲しい、一抹の寂しさがあった。

 そんな彼女が大腸癌の宣告を受けた。詳しい病状は聞かなかったが、症状は相当進行していたらしい。しかし、柿田祐子は癌の宣告を受けても湘南の西の端まで遊びに来た。都内の外れからはるばる五十ccの原付バイクでやって来る。

 末期の癌だというのに本人は思いのほか元気で、本人曰く、

「特に体調は何ともないし、本当にこれで癌なのかと思う……」

 などと平気な顔で言い、本人がそう言うから、つい、こちらも重度の病人だということを忘れる。ごく普通に言いたいことを言って飲み食いをし、少々時間が遅くなっても例のスーパーカブに乗って帰ることを特に気遣いもせずに見送る。

 当時のボクは概ね健康で、身近な人が癌を宣告されてもあまり実感がなかった。ましてや、その先にある死はもっと遠く感じていたから、末期癌の告知を受けた彼女の体調にも心情にも思いが及ばず、あまり親身に向き合うことが出来なかった。が、ある日、その柿田祐子からサチにSNSで連絡が入った。サチ曰く、

「病状が悪化して身体が痛い、辛い……」

 という内容だという。サチはその日のうちに都内の彼女の部屋に様子を見に出かけ、ボクはちょうど描き上げたばかりの鉛筆画を額装して見舞いに持たせた。帰ってきたサチは、

「もう、あまり長くないと思う……」

 という内容のことを口にし、柿田祐子とはそれきり連絡が取れなくなった。サチがメッセージを送っても返信はなく、電話をしても出なかった。気にはなったが、ちょっと様子を見に行くといった距離でもなかった。

 ふと、死とは人が消えるものだと思った。何の予告もなく突然連絡が取れなくなる、そして、いなくなるのだ。戸惑いがあって、淡い喪失感がある。特に、柿田祐子にはもう少し何か出来たのではないか……、といった思いもあった。

 しかし、人はそんな風にいなくなるのだ。いなくなると、その人の人生とその人との思い出を含めた一つの世界がまるごと消えてしまう。そして、柿田祐子はそんな風に消えていった。


 その数週間後、北側の通りを挟んで向かい合う斜め前の家のご主人が突然の心臓発作で急死した。町内の胃腸器科で病理検査を受けたボクが同じ県内の大学病院でステージ三の食道癌の告知を受ける少し前のことだった。

 それは、丁度ボクが癌の告知と入院騒ぎでバタバタしていたときのことで、それを人づてに聞いたのは斜め前の家のご主人が死んでからもう大分経っていて、葬儀も含めて一切合切片づいた後のことだった。

 それから一ヶ月もしないうちに北側の通りを挟んだ真ん前の家のご主人が脳梗塞で倒れて頭にメスを入れた。緊急手術をし、術後は入院生活となったが、結局、脳の萎縮により痴呆状態に陥った。

 それは県内の大学病院に入院して癌治療を始めたボク自身が無茶な抗がん剤投与で十二指腸潰瘍を併発し、その病院での治療を断念した頃のことで、ボク自身も長期の入院で死とすれすれのところにいたから詳しいことは判らない。

 抗がん剤治療に失敗したボクが退院の日にサチや隣人に身体を支えられながら帰宅したころには、向かいのご主人は治療のすべがなくなり、ご家族も日に日に悪化する本人の病状や、長期入院する病院から退去を言い渡されたり、と、そんなこんなで振り回されて右往左往したあげく、同じ町内の特別養護老人ホームに空きが出て入居したが、その頃には本人はものを食べなくなり、認知能力がなくなり、やがて、家族の顔も判らなくなった。

 その頃、抗ガン剤治療を受けた大学病院の担当医師から残り三ヶ月の余命宣告を受けたボクはその大学病院での治療を断念し、訪問医による終末治療に切り替えて自らの死と向き合っていた。

覚悟を決めていたボクは、しかし、大学病院の治療と安易な余命宣告に納得のいかないサチの必死の説得でセカンドオピニオンを受け、食道を全摘して命を取り止めた。そして、手術の後は半年ほどの辛い闘病生活を過ごした。

 その頃、向かいのご主人が入所した施設からは〈何時どうなっても責任を問わない〉という内容の念書に判を押すよう申し入れがあり、所謂、「死」とは少し違うが、家族にとって、これが「生きている」といえるのだろうかと思っているうちに亡くなった。

 ボクが自分が徐々に治ってきていることを実感したのは退院から三ヶ月ほど経ってからのことだったが、その頃、北側の通りを挟んだ向こう側の家の奥さんは寡婦になっていて、つい昨年建て替えたばかりの新築の家に一人住んでいた。


 術後半年ほど経って幾分体調が落ち着いたと思ったころボクは下血して倒れた。腸からの出血と、意識を失って倒れた時の全身の打撲と、顔の怪我による出血が重なって市民病院のICU(集中治療室)に担ぎ込まれ、二週間ほど入院した。

 一時は深刻な症状だったが、その症状が少し収まって一般病棟に移された頃に母親が死んだ。九十六歳だった。両親とは長い間の確執があって関係を絶っていたから、数年前に逝った父親の死に際しては特別な感慨はなかった。

 今回も母親が死んだというのに不思議と何の感慨もわかない。これでいいのかと思うほど感慨がなかった。悲しみも、寂しさも、喪失感もない。ここ十年ほど殆ど音信不通だったことにも全く後悔はなかった。

 人は老いるにつれて社会との繋がりが希薄になっていく。時間の経つのも早くなる。周りの人との関係性が変わり、時間の感覚が変わり、社会や人と疎遠になる。そして、世界が変わったことにふと気づく。

 特に、大病をして長い闘病生活をおくったボクのような者は外に出るのが億劫になり、人付き合いが面倒になり、友人知人や他の人と会いたいとも思わなくなる。外出しても、人と会ってもあまり楽しいとは感じない。

 社会生活に興味を失ったボクにとって歳をとるとは、つまり、サチと保護猫のダイスケを連れて無人島に移住するようなものだから、嘗ては自分の事であった世界の出来事は概ね他人事になり、日々、テレビのニュース番組で報じられる戦争や殺人事件に対しては押し並べて似たような感慨しか持てない。

 今、世界のあちこちで起きている戦争や紛争や殺人や飢餓や、理不尽な出来事の全てが現実味を失い、何か、別世界で起きていることのように思える。どんなに悲惨で残酷で理不尽なことであってもボクの中では日々の報道で知らされる事柄のひとつに過ぎない。

 人の死には鈍感になる。日々、遭遇する周りの人の死もやはり現実味を失って切迫感がなくなり、傍観する側になる。大方の人の死は自分とは関わりのない外側の出来事になるのだ。ボクが向き合うのは内側の死、つまり、自分自身とサチの死だけなのだろうと思う。

 血縁という生物学的結びつきはあっても、長い間疎遠だった母親の死は、ボクにとっては、やはり、外側の死だった。外側の死はボクの内側には何の感慨をもたらさず、ただ、心のどこかでまた一つの世界が消えたと感じただけで通り過ぎた。


 それから一ヶ月ほどして左隣の家の娘が死んだ。娘の歳は、多分、四十を少し過ぎた位だと思う。独身で、親と同居していたが、睡眠薬を多量に服用して自殺した。自ら命を絶った理由はわからない。

 その日は夜中にけたたましい救急車の音で目が覚めた。救急車は隣の家の門前で停まり、サイレンの音も止んだので、何かがあったとは思った。そのうちパトカーが駆けつけ、救急隊員が隣の家に出入りする騒がしい音が聞こえ、窓のカーテン越しに赤い回転灯の光が見えたが、睡眠導入剤を服用していたボクはその光を見ながら寝てしまった。

 精神的な病を患っていた隣の家の娘は近所付き合いは一切なかった。一年ほど前に母親が脳の障害で倒れて寝たきりになり、口やかましかった父親は軽い認知症を発症していたらしい。

 娘は精神障害を抱えながらそんな両親を介護していたが、そんな生活に疲れたのか、本人の精神疾患が原因なのか、それとも、他に理由があるのか、何れにしても、その日、また、一つの世界が跡形もなく消えた。

 誰かが死ぬとしばらくは何か違和感がある。決まり切った日常のリズムが変わり、淡い喪失感がある。しかし、少し時間が過ぎるとそれがあたりまえになり、死んだ者の記憶も薄れ、やがて、初めから居なかったもののようになる。その時もあまり行き来のなかった隣の娘がいないことにはすぐ慣れた。

 しかし、この一年間で通りを挟んで向かい合う三軒と軒を接する両隣の合計五軒の家族のうち三人が死んだことになる。通りを挟んで向かい合う両隣の家の奥方二人はほぼ半年違いで寡婦になった。隣近所には一人暮らしの家がずいぶん増えた。


 数日経ってからふと思いついて二十年以上前に死んで寡婦となった埜田さんの奥方に電話を入れた。親友であった埜田さんの家族は埜田さんの死後大規模な再開発事業によって同じ町内の反対側に居を移し、それ以来、一年ほど連絡を取り合っていなかった。

 彼女ももう八十歳半ばになる。年老いた彼女の安否を確かめようと入れた電話に応答はなかった。夜になってもう一度電話を入れたが、何回電話しても発信音が鳴るばかりで出るものはいない。

 新しい住所を探し当てて安否を確かめるほどの行き来はないし、実際、夢中で安否を探ったところでどうなるものでもない。この歳になると、お互いに何時何が起きるか判らないし、何か起きればこんな風に連絡が取れなくなると思うしかなかった。

 埜田さんの奥さんとは、普段、特に連絡を取り合うことはなかったが、毎年、年賀状のやりとりだけは欠かさず続けていた。しかし、年が明けたその年の始めに彼女からの年賀状は届かなかった。

寂しさと淡い喪失感があり、二十数年前に逝った埜田さんと、奥さんとの思い出の一切合切がまるごと消えてしまった気がした。そして、埜田さんの奥さんはそんな風にしていなくなった。


 その月の終わり、数ブロック離れたところに住む川内さんの奥さんが死んだ。年の初めに末期の癌で寝たきりになっていたがサチとは親しく行き来していたので、半月ほど前に急遽嫁ぎ先から戻った娘さんから、

「すべての治療を断念して終末医療に入る」

 との連絡が入っていた。

 次の日、サチは横須賀に住む自分の叔母の入院する鎌倉の病院に見舞いに出かけた。サチの叔母は肺癌を患って入院して二月ほど経つが、何日か前、もう長くないという連絡が入ったので最後の面会に出かけたのだ。

 医師の見立てではあと一週間程度の命だろうという。その日は北海道に住むサチの弟も見舞いに駆けつけた。叔母はサチの顔もサチの弟の顔も識別出来たし、短い会話も出来たらしい。思いのほか元気に見えたというが、その数日後に亡くなった。

 その翌日、寺田さんが亡くなったという連絡が入った。風呂場で倒れて意識を失いそのまま亡くなったという。寺田さんはサチとボクの入会する瞑想会のメンバーで、サチとは特に親しい。八十歳を過ぎているが元気で、我が家から車で一時間ほどのところに住んでいた。

 整体治療士として仕事をしていたから患者の治療もしていたし、つい二~三日前までサチと普通に連絡を取り合っていたからずいぶん唐突な死だったが、その日、一つの世界がまた消えた。


 それから半月ほど経ったある日の朝、もう十数年治療を受けている整体治療院の先生が急死した。ボクより一つ年上だがまだ現役で治療を続けていた先生で、頸椎を矯正する特殊な治療法で、行けば大抵の不具合は治してしまう。ボクを含めて頼りにしている患者は多かった。

 三日ほど前に大動脈剥離で突然亡くなったという連絡で、亡くなる前日まで元気で死ぬ予兆など全くなかったということだった。ボク自身もほんの十日ほど前に治療を受けたばかりで、その時は元気だった

 先生は治療士としての道をストイックに追求した求道者といってもいい人物で、若い頃から鍼灸マッサージ、指圧、気功と手がけて頸椎矯正カイロプラクティックという治療法にたどり着いたという経歴の持ち主だった。

 西洋医学や薬には絶対に頼らないという強い信念を持って治療にのぞみ、頑固なほどその考え方に拘り、患者にもその考え方を強く説いた。少し行き過ぎだ、と思っていたが、その死に方を見るとその信念はあながち間違っていなかったように思う。実際、一本筋の通った生き方を貫いた彼の死はその言葉通りの死だった。

 彼の一途な生き方とその潔い死は、死がその人の歩んだ生の延長線上にあることをボクに実感させた。死の気配に怯えて健康診断や医師の診察や検査を受け、対処療法的な治療や手術をすれば取りあえず命は長らえたかもしれない。しかし、彼にとってそれが何になっただろう。

 何ヶ月に一度治療を受ける先生とは治療の時に会うだけだが、その短い治療の間に彼がボクに与えた影響は計り知れなかった。彼の信念に満ちた生き方と、七十五歳を過ぎても治療に専念する姿はボクの生き方に強い影響を与えていたのだ。その彼が突然消えた。


 同じ町内にいくちゃんという女性がいる。本名は知らないが皆いくちゃんと呼んでいる。特に親しい人ではないが、ビィが生きていたころに犬仲間として知り合い、犬の散歩の途中で会えば言葉を交わす程度の間柄だった。

 歳は六十歳前後で、長年重度の糖尿病に苦しんできたが、少し前に帯状疱疹にかかり、その後、腹膜炎を起こして入院し、退院後、犬の散歩中に意識障害で倒れ、背骨を二カ所骨折して車椅子生活になり、暫くして大腸癌が見つかってまた手術し、結果、人工肛門身体障害者四級となった。

 それから間もなくして骨盤の後ろにまた癌が見つかったが、その癌は骨盤を削らないと取れないという医師の見立てで数ヶ月前に抗ガン剤の治療を始め、最近切除手術をしたが、退院後すぐに今度は小腸に癌が見つかり、その手術を受けるためにまた抗ガン剤の治療を始めたという。

 彼女の生への執着は強いように思える。自らの死と向き合うのは誰にとっても覚悟のいることだから、彼女に終末治療や死という選択肢はないようにも思える。今の医学では、生きているだけなら投薬と手術で肉体だけは生き続けることが出来るから、どのような状態であっても生きられるところまで生きるのも一つの選択肢かもしれない。

 ただ、どうなんだろう。一旦、生を受けたら老いと病と死は誰にでも訪れる。早いか遅いかだけのことだ。避けることは出来ない。いろいろな向き合い方があるが、結局、ボクらに出来るのは静かに受け入れることなのだろうと思う。


 そんなわけで、最近、ボクの周りではこんなふうに人が死んでいる。不思議なほど次々と人が死ぬ。死は明け方に見る夢のように取り留めがなく、そして、切れ目なく続く。70歳以上の老人が人口の三十パーセント以上を占めようとしている超高齢化社会の中では人の死は特別なものではない。大事件でもない。いや、事件でさえないかもしれない。

 死は自然の摂理として受け入れられる事柄のひとつ。日々過ぎていく日常の中の出来事のひとつでしかない。命は石けん水が作り出す薄い膜が外界と隔てるシャボン玉のように小さく、儚く、頼りない世界だ。

 いくつもの世界が、皆、あの女の子の作り出すシャボン玉の泡のように消えていく。虹色の泡が消えると、シャボン玉の中に閉じ込められていた時間も、空間も、生きたことの一切合切が跡形もなく消える。

 午睡から目覚めて、ついさっきまで窓の外に舞っていたシャボン玉の残像を追っていたボクはそんなことをふと思い、そして、また浅い眠りに落ちた。                       了、


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