(3)寝かしつけ係はお祈りする
清らかな水の中のようにひんやりとした空気。古語なのか、うまく意味を拾うことができない言葉も、まるで異国の音楽のようで耳に心地いい。
神殿奥の祈りの間では、朝晩二回、火龍さまへの祈りの儀式が行われている。私は、神殿に子守として雇われた日からここで毎日祈りを捧げていた。
『アンバー、毎日火龍さまに感謝を捧げなさい。大地に満ちる火龍さまの加護を知りなさい。そうすれば、硝子はちゃんと応えてくれるよ』
硝子職人の師匠でもある父は、常々そう語っていた。煌々と燃える炎の中で、珪砂はさまざまに色と形を変えていく。その作業を眺めているのが、私は本当に好きだった。
父の手は、まるで魔法のようにさまざまな作品を生み出した。芸術品のような花々から日常使いできる器まで、そのどれもが手に取った人々に幸せな気持ちを抱かせる。
けれど私の手が生み出す硝子たちは、どうしても売り物に相応しい形にはなってくれなかった。
空に還りたいと跳び跳ねる星のような、海に戻りたいと体をくねらせる魚のような。あまりにも自由奔放すぎる作品たちを見て、父は大笑いしていたっけ。そんな私のそばにいてくれたのが、例の兄弟子だ。
『君の中で生まれた閃きを僕が形作る。それはとても素敵で幸せなことだと思わないかい?』
手先の器用な彼は、今までにない新しい作品を次々と生み出していく。それは王都の貴族の間でも評判になり、彼はお抱え職人として招聘された。共に行くことを望まれたけれど、私は断った。父も祖父も、先代たちも、この地で硝子職人として生きることに誇りを持っていたから。
『せっかく世の中に認められる千載一遇の機会だっていうのに。君は本当に馬鹿だな』
『僕が王都で有名になってからすがりついてきても遅いんだぞ』
『僕を支援してくれている貴族の紹介で結婚することになった。もう僕に関わらないでくれ』
むしろ、誰がすがりつくかっていうの。あなたが工房の作品やら道具やら材料やらを無断で持ち出していたから、返却してもらうために連絡を取っていただけだから。ちなみに最後の台詞は、手紙で送りつけられてきたものだったから、父さんがかんかんに怒って本当に大変だったっけ。
久しく忘れていた兄弟子とのやりとりを思い出し、慌てて深呼吸をする。思い出し笑いどころか、思い出し怒りって本当に不毛よね。はあ、もうやだやだ。せっかくの心穏やかな祈りの時間が台無しだわ。
うおおおおおおおおお
なぜか祭壇のほうで叫び声が聞こえた。この神殿は、儀式の最中に時々こういう騒ぎが起きる。最初はとても驚いたけれど、初日から雄叫びが続くものだから、正直もう慣れてしまった。あの美形神官さまといい、この神殿には変人しかいないのか。
かなり前方での騒ぎだから、私からは何が起きているのかよくわからないのだけれど……。黒光りする虫だとかどでかいネズミでも出ているのかしら。
私にできることは何もなさそうなので、目をつぶったまま再度祈りに集中することにした。閉じたまぶたの裏側に、虹色の光の粒たちが見える。しゃぼん玉に似た彼らは、今日も笑いさざめきあっていた。
お祈りをしていると、不思議とたくさんの声が聞こえてくる。見たことのない景色が見えてしまう。それはもしかしたらこの地に満ちる火龍さまの記憶の欠片なのかもしれない。私はそれらを「閃き」という形で彼に伝えていたけれど、本当のことを話していたら彼はこの地に留まってくれたのだろうか。
今さらどうしようもないことを考えて、首を振る。もう過ぎたことだもの。
火龍さま、いつもありがとうございます。あなたのおかげで、私たちは幸せに暮らしています。これからもあなたのおそばで、ずっと共に穏やかに過ごせますように。
心からの感謝を込めれば、再び悲鳴が聞こえた。もうこの神殿は、一斉大掃除をすべきだと思う。
ただただ一心に祈りを捧げていると、何だか眠くなってくる。いつもこうだ、お祈りをしているといつの間にかどこかに意識を持っていかれてしまう。
『きっとアンバーは、火龍さまと意識を溶け合わせることができるんだろうね』
そう言って父は笑っていたっけ。家族は、目を閉じたら一瞬で眠れるんじゃないかと、呆れ半分心配半分といった様子で私を見ていたけれど。
だめだ、もう眠くて耐えられない。床に寝転がって大の字になって寝てしまいたい。
どうかいびきをかきませんように。せめて私の居眠りが控えめで周囲の神官さまたちに見つからないことを祈りながら、眠気に抗うのをやめた。
***
「祈祷の時間に眠るとは、良い度胸だな」
「え、ちょっとなんですか! なにひとの夢にまたずかずかと入ってきてるんですか!」
意識を失った私に声をかけてきたのは、あの美形神官さまだった。まったく、夢を夢だと理解しているのってなんだか変な感じ。
「お前が俺の仕事場にずかずか乗り込んでくるからだろうが!」
「だって神官さまに聞いたら、どうぞどうぞぜひ参加してくださいって言われましたもん」
「だからあのじじいたちの思惑通りに動くんじゃない」
もう神子さまもこの美形神官も、すぐに他の神官さまたちをじじいって呼ぶんだから。まったく口の悪い兄弟だこと。まあ今は言葉遣いは置いておくとして、ちょうどいい機会だし神子さまのことを確認しちゃおう。
「あの前から気になっていたんですけれど、儀式の最中に神子さまの姿が見えなくなるのはどうしてですか?」
「別に気にするほどのことじゃない」
「本当ですね? 生贄にされているとかじゃないんですよね? 私が祈りの間に来た時にはいるのに、途中で姿が見えなくなるのはおかしくありませんか?」
「残念だが、ここは火龍を祀る神殿だ。どこの邪神と勘違いしているのかは知らんが、生贄を捧げる習慣はない」
「それならいいんですけど。あんな幼気な美少年を好んで喰らうとか、とんでもない神さまもいるもんだと心配していたんですよ」
「一度お前とは、神殿のあり方について話し合ったほうがいいらしいな?」
「暴力反対です!」
「はっ、これはただの話し合いだ」
頬をぐにぐにと引っ張られて、抗議の声を上げるもさらりと流されてしまった。おのれ、この美形め。いくら大事な弟とどこの馬の骨かわからない私が仲良しだからって、当たりが強過ぎない?
この様子だとこの間の突然の求婚も、私のひととなりを確かめるための揺さぶりだったに違いないわ。今だって、求婚相手を前にしているとは思えない態度だし。
まったく。弟想いなところも、度を過ぎると嫌われるんだから気をつけたほうがいいよ。弟妹がたくさんいる私が言うんだから、間違いない!
「お前、また明後日な方向に思い込みを発揮しているな」
「いえいえ、滅相もございません」
「なんだその歯が浮くような適当な尊敬語は。丁寧を通り越して、慇懃無礼だぞ」
「とか言うのを真に受けると、馴れ馴れしいって切り捨てられるんですよね。あー、怖い怖い」
「お前というやつは」
のらりくらりと他愛もないおしゃべりを続けていく。あれ、このひと、祈祷の真っ最中なのにこんな無駄話をしていてもいいのかしら。
***
はたと気がつくと、お祈りはすっかり終わっていた。醜態をさらさずに済んだらしく、私は長椅子に横たわることなくお行儀よく座っている。やった、なんとか助かった!
「おい、目は覚めたか」
「神子さま! ご無事で何よりです!」
「何をもってして無事と言えるのか疑問だがな」
なぜかひどく仏頂面の神子さまが私の隣に立っていた。あの後、お祈りに合流したのかしら。私が気がつかなかっただけで、後ろの方にいたのかも?
それでも姿を見ることができたのが嬉しくて思わず笑顔で話しかけると、神子さまがやれやれと肩を落とした。どうもお疲れみたいね。
「当然だろう、俺が生贄にされるはずがあるか」
「あー、良かったです。結構心配したんですよ……ってあれ、どうして生贄についてのお話をご存知なんです?」
先程の話は、私と若手神官さまだけの秘密のはずなのに……。まさか、神子さまと変態神官さまって、夢の中の出来事を共有するくらい仲がいいの?
「……お前、めちゃくちゃ寝言がうるさかった」
ため息交じりに呟かれて、目覚めて速攻、卒倒したくなった。