二人、路線バスで
待っていた路線バスが左のウインカーを点滅させて、ゆっくりとバス停に入るのを見守りながら、もたれていたガードレールから二人して離れるままに二三歩踏み出してなお車両をみつめるうち、突如リンリンと打ち鳴らす警告音に智樹はおもわず振り向くと、思いやりのない自転車が一台、なりふり構わず乗客の前を通り抜けようと駆けてくる。
智樹はとっさに柚芽のブレザーの腕を引っ張りながら身をひくままにこちらへ引き寄せ、途端にうしろの男に軽くぶつかり、ふりむきつつ頭を下げると、コートを着たお兄さんはそれを手で制しながら、「あぶないですよね」と今はもうこちらへ背をむけて悠然と走り去る無頼漢へ厳しいまなざしをやりながら嘆息し、智樹が同調すると、今度は一転、前をむいて目配せし、「開きましたよ」と言った。
智樹は柚芽の肩をそっと押して前を行かせ、乗り込むと、ひと駅前にバスターミナルを出発したばかりの空いた車内をすすむ柚芽の背中におちかかる髪の毛を見下ろしながら、ほこりをひとすじ見つけて、気づかれないようさっとつまみ、下ろした指先にもてあそぶうちこっそりと捨てた。
通路の中程をすぎたあたりで、柚芽はローファーの足元をとめてこちらを振り返ると、制服の襟元にぴんと立てた人差し指で座席をさし、そばに寄って来た彼へ上目づかいをして、ここでいい?
ささやくように訊くと、智樹はその愛らしい顔をみつめながら、うしろから詰めてくる人を気にして、すぐにうなずくままにやさしく恋人の腕を押しながら座席へはいった。
わたしがこっちでいいの? そう問い掛けると、いいよ、とやさしくもぶっきらぼうに答える彼へ、ありがとう、と柚芽はささやかな感謝をつたえ、スカートのうしろを抑えながら窓際に腰をかけると、今日にかぎって片足だけずりさがってしまうハイソックスを引っぱり、きれいに閉じた膝の上に紺地の学生鞄をのせて、グレーの持ち手に片手を差し入れながら窓へもたれかかるうち、発車を告げるアナウンスがきこえた。
*
夕暮れのなか窓から見下ろす乗用車の群れからふと目をあげると、連なるビルの頂から夕日が最終の名残を懸命につたえている。
その光にただ惹かれるままに、わたしも一緒にしずんで眠ってしまいたいと目をつむり、一日の疲れにとろとろしかけたところで、柚芽はびくりと起き直ると、とっさに彼をむいて照れ笑いをし、そのまま足を組んで鞄を抱きよせながらふうっと一つ息をついた。
智樹は身長のわりに軽やかに伸びる、柚芽の細くて肉づきのよい足を見守りながら、ふと左足が上になっているのに心づいて、ひょっとして付き合いたての恋人の利き足は左なのだろうかと推定するが早いか、たちまち嬉しくなった。
右利き手の左利き足である彼は、バランスがわるいばかりでたいした得もないこの身体の性能を、ずいぶんと誇りにも思っていて、おのれの心の二面性を、体の二面性と結び付けずにはいられないのであるが、それというのも、先日読んだスピノザの提唱する心身平行論に立ち所に感銘を受けて、手前勝手にその理論を当てはめているのである。
けれども利き手は右手である柚芽が、利き足は左であるなら、全く嬉しいではないか! 恋人と体の機能を共有できることほど有意義なことはあろうか? 男女は心身ともにわかりあえないというのが世間の通説なのである。しかし右手の共感だけでは足りない。左足も伴って初めて神秘の出会いというものだ。
智樹はひそかに陶然となるまま、いつしかスカートから伸びるその麗しい太ももにじっと見惚れるうち、たまらず顔をあげて口火を切った。
「ねえ、ひょっとして柚芽って左利きなの?」
ちょうどあくびをおさえようと口元へ左手をあてていた柚芽はにわかに目を見開くままに智樹をみた。
それに彼は軽く吹き出し、しかしすぐに調子を整えて、今一度、
「左足を上にして組んでるから左利きなのかなって」
「え、どうなんだろう。わかんないや。でも利き手はこっちだよ」
そういいながら右手を顔の横でひらき、左手で眠い目をこすった。
「それはね、おれもそう。でもほら」
と言うなり智樹が左足をあげてしなやかに組むと、
「あら。わたしと一緒」
忽然神秘に打たれたような柚芽へ、智樹がすかさず問い詰めると、どうやら毎回左足が上に来るのは間違いないので、彼は利き足を左と断定し、にわかに喜びが胸にあふれるまま、お礼代わりのチューインガムを差し出すと、柚芽はふっと微笑んで受け取り、包みをあけかけた手を途端にとめて、
「後でにするね」と言ったまま、手のひらにたたずむささやかなプレゼントを見つめた。
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