第三十八話 誰も代わりにはなれない
殿下が決断をした後には、一転して次々と指示を下していった。
まずは一カ所に集められた領兵たちへ、近衛を代表してレスターが説得を始めた。内容は殿下がシュベレノア様との婚礼の儀を行うために、ギレンに再び向かうこと。会計士である私のことをシュベレノア様が誤解したことなどを伝えて、夕闇が迫る前に先にギレンへ出発させるつもりらしい。
だが実際に領兵たちを誘導するのは、レスターではなくエルさんの担当になった。殿下は、エルさんを今後も領兵たちと行動を共にさせるつもりだという。一度しかない魅了解消のための機会に、軽くとはいえ魅了にかかったエルさんに重要な役割を任せられないという判断だった。
それからリヴァルタ渓谷橋に閉じ込められた工夫たちの元には、トレーゼ侯爵が向かうことになった。彼らにも殿下がシュベレノア様と婚礼の儀を行うことを告げるためだ。もちろん、式の立会人となるフェルゼンさんも、ここリヴァルタに留まる理由はなく、殿下とともにギレンに向かうことになるだろう。
一方、謹慎を言い渡された私はというと、とりあえずリヴァルタ村の宿泊所に戻ることになった。さすがに私が殿下の側にいては、計画が台無しなので、資料室に戻ることはできない。だからダンちゃんたちが戻るのを、宿泊所で待つことになった。
私とともにリヴァルタに留まるのは、イオニアスさんやバルナ卿たちも一緒だ。第二渓谷橋のたもとで領兵たちから武器庫を守ってくれていたバルナ卿たちも遅れて合流してくれたので、すぐに村の宿泊所へ向かうことになった。
朝から続いたリヴァルタの騒動が収まりを見せる頃、日は傾きかけている。
レスターたちは、大人しくさせた領兵たちを連れて、街道に出る坂道を上り始めた。谷底の村に続く広場に残っていたのは、殿下と私、バルナ卿とその部下二人と、フェルゼンさん。それから護衛として近衛が二人のみ。
静かになったリヴァルタ渓谷が、ほんのりと赤く染まりつつある中で、殿下が私を振り返った。
「コレット、今日中にギレンに向けて出発することは不可能だ。今晩はロゼに泊まり、そのまま早朝に出発する」
ここで暫く、殿下とは離れて待たねばならないのだろう。見届けることは出来なくても、きっと殿下ならば上手くやってくれるに違いない。
「やることは山積みかもしれませんが、ちゃんと寝てくださいね」
殿下が「善処する」とだけ答えるので、きっと寝ないつもりでいるのだと悟る。
ヴィンセント様が今ここに居れば、きっと殿下に小言を言うに違いない。
「あ、そうだ、殿下に渡さなくちゃいけない書類があったのを忘れていました」
殿下と別れる前に、思い出して良かった。資料室に残されていたアルシュ侯爵の偽造サインの証拠を、服の下に隠したままだ。
「ちょっと待ってくださいね、すぐに出し……っう」
服の下に隠していた書類を取り出そうと動いた拍子に、すっかり忘れていた足首に痛みが走った。しっかり固定されていたのと、立ちっぱなしで動かなかったから忘れていたが、捻挫していた部分が、ズキズキと主張してくる。
これからギレンへ向かう殿下に気づかれたら、足を止めさせてしまう。歪みそうになった顔に笑顔を貼り付けて、書類を隠していた懐に手を入れようとした時だった。
「わ、殿下っ?」
抵抗する暇もなく、伸ばされた手に抱え上げられてしまった。
殿下の肩越しに橋の方に目を向けると、かなり離れているとはいえ、まだ領兵たちが坂を上がっているところだ。きっと目を凝らせば、こちらの様子を覗える。
「待って、こんな姿を見られたらマズいですってば、せっかく……」
謹慎という不名誉を負った意味が無くなっちゃうじゃないですか!
そう訴えようとしたのだけれども、殿下は私を横抱きにしたまま、宿泊所のある村の入り口に向かって歩き出してしまう。
手足をジタバタさせて抵抗すると、殿下の視線が布で縛られた足首に向かっているのが分かり、咄嗟に膝を曲げて隠すも、時既に遅し。
「なぜ怪我をしていたことを先に言わない?」
「忘れていました、大したことないと思います……現にさっきまで痛くなかったし」
すると殿下はため息をつきながら、足を止めた。一緒に宿泊所に向かうつもりだったバルナ卿たちも、驚いた様子で私たちに追いついてきた。
「分かった、それならばこうしよう」
「ぎゃあっ」
殿下が私を横抱きから、軽々と縦抱きにしたのだ。てっきり下ろしてくれるのかと思っていたら、更に高い位置に持ち上げられて、不安定さに私は殿下の肩に覆い被さるしかなかった。
これはもしかしなくとも、担がれている?
「ちょ、殿下、下ろしてください!」
文句を言う私におかまいなく、再び歩き出す殿下。
胸の辺りに分厚い書類を隠しているせいで、揺れるたびに体重がかかって苦しい。加えて担がれたことで、殿下の後に続くバルナ卿と設計局の方々と目が合う。
バルナ卿はさすがイオニアスさんの父、相変わらず硬い表情のまま動じた様子はないのだけれど、設計局の方々は微妙に笑いを堪えているのが分かる。
「殿下ってば!」
このまま宿泊所まで運ばれてしまうのかと思ったけれど、村の入り口にある岩の上にそっと下ろされた。そこは大きな木が枝を伸ばし、ちょうど西日を遮っていた。
ここならば、影になって遠くからは人影くらいしか見えないだろう。
「特殊な環境下で興奮状態が続いていると、痛みを感じない場合がある。早めに確認した方が良い、触るぞ?」
そう言うと、殿下は膝をついて布で固定された私の足に触れた。
靴の上から巻き付けた布を解くことなく、腫れた足首をそっと動かす。
「痛いか?」
「捻ると少し……でも動かさなければ痛まないみたいです」
「そうか、骨に異常はないようだな。ダンジェンを側に置いていて正解だった」
どうやら巻き方で誰が手当してくれたのか分かるみたい。体術が得意なダンちゃんは、怪我の手当も上手いようで、もし怪我がもっと酷かったのならば、きっとダンちゃんは私が飛ぶことを許さなかっただろうと殿下は付け加えた。
「予定を変更する」
立ち上がった殿下が、振り返って残っていた近衛たちを呼び寄せると、彼らにレスターを呼び戻すよう告げる。
「待ってください、殿下。私は大丈夫ですよ。ここで大人しくしています」
私のために予定を変更する必要なんてない。そう言おうとしたのだけれども、殿下は首を横に振った。
「ダンジェンが戻り次第、交替させる。解放軍とやらの詳細を確認できていない以上、護衛もなしにお前をここに残す訳にはいかない」
「でもっ……」
「それならば、私が残りましょう。護衛としては心許ないかと存じますが、盾にくらいはなれましょう」
そう言ってきたのは、フェルゼンさんだった。
「式の準備まで、しばらくかかりそうですし、この魅力的なリヴァルタ渓谷には、興味がつきません。それに今お聞きしたら、こちらの方々は私と同じく鉱山に詳しい専門家というではありませんか。ぜひともじっくり時間をかけて意見交換をしてみたいものです」
バルナ卿との僅かな会話がよほど嬉しかったのだろうか、フェルゼンさんの表情は、今までで一番明るい気がする。
「それだけではございません。コレット様は、我が国にとって重要なお方。彼女の元を離れている間に何かあっては、我が主に顔向けできません」
そう言われてしまえば、殿下とて反対をする理由がないのだろう。フェルゼンさんの申し出を受け入れて、ギレンでの準備が整い次第、迎えを寄越す約束を交わした。
そして再び、殿下は私を振り返る。そして彼の視線は、私の胸元に落ちる。
「証拠書類は、コレットが持っていてくれ。それらは必ず必要になるが、シュベレノアの手の内に居ては、いつ掠め取られるかも分からない」
「わ、分かりました。大事な証拠は、私が責任持って保管します」
私が手を胸に添えて答えると、殿下は頷きながら、嵌めていた右手袋を外した。
そしてゆっくりと私にその右手を伸ばすと、温かい指が頬を撫でながら、左耳の後ろまで伸ばされる。
「コレット、これだけは伝えておく」
「……はい」
真剣な様子の殿下を見上げると、琥珀色の瞳に私が映る。
「私は理想の王にはほど遠く、足りないものが多い。だから私にはお前が必要だ、コレット」
「な、何を言い出すんですか殿下!」
ただでさえ、頬に手を添えられてちょっと恥ずかしいところに、急にそんな事を言われたら、一気に頬が熱くなるじゃないですか。
慌てる私を、殿下が笑った。
「こんな時に、か、からかっているんですか?」
「いや、真剣だ。私が理想の施政者であるために、空を飛ぶ女はお前以外いない。だから、改めて伝えておきたかった。私が妃に望むのはコレットであり、他の誰も代わりにはなれない。例えアルシュの人々に一時でもシュベレノアとの婚礼が流布されようとも、彼女を妃に迎える日は来ない。それだけは忘れないでいて欲しい」
ああ……殿下は、私を安心させたいのだ。
アルシュの人々のためにシュベレノア様と偽りの式をするべきだと、提案したのは私の方なのに。不安にさせないよう、言葉にしてくれたのだ。
不器用だけど、優しい人。
頬と耳、それから耳の後ろの傷跡を触れる大きな手に、私は少しだけ身を寄せた。
「じゃあ約束してくださいね、二度と私をお城の奥に仕舞っておこうなんて考えないって」
「……私の心臓が持つ間は、善処する」
王になる定めの人から、それを切り離すことなど不可能なのだ。王子であることをひっくるめて、私は彼の助けになりたい。だからきっと、何度同じ状況になったとしても、私は躊躇しない。
そんな私を、殿下が必要としてくれる限り、彼と共に生きる。
二人で笑っていると、蹄の音が近づいてくる。どうやらレスターが知らせを受けてきてくれたようだ。照れくささを誤魔化すように殿下から離れ、レスターに手を振る。
「姉さん、怪我をしていたって本当?」
「うん、足首を捻ってしまって……心配かけてごめんねレスター」
慌てて馬を降りて駆けつけたレスターに、殿下はダンちゃんが合流するまで私の側についているよう告げると、近衛たちに馬を用意させる。
「コレット、明日にはここに業者が荷を搬入する、受け入れをしてくれ」
「業者……? ああ、工事資材ですか?」
そんな予定があっただろうか。会計記録を思い出しながら首を捻っていると、殿下が馬上から続けた。
「業者の名は、プラント商会だ」
プラント……
レリアナ?!
驚く私に、殿下はニヤリと笑う。
「特殊な荷を運ぶよう依頼されて来ている、経緯詳細はその荷に聞くといい。では、後は任せた」
それだけを告げて、殿下はリヴァルタ渓谷を後にしてしまう。
荷に聞けとは、いったいどういうことですか?




