番外編 天才はイカロスのごとく太陽に焦がれる
「私はどうしても手にしたいものがあるの。そのために少しも時間と労力を無駄にできないわ。だって途方もない夢だから」
自分とどこか似たところがあると思っていたはずのコレット=レイビィがそう告げた時、リュシアンの胸には初めての劣等感が湧き上がる。
そして逃げるように、リュシアンは彼女の前から消えた。
バルナ男爵家の次男、ティル=バルナが、リュシアン=シェリーと名乗る前、リヴァルタ渓谷に最初に訪れたのは、物心ついたばかりの幼い頃のことだった。
訪れたと表現するのは正しいのかどうかは分からないが、父親の仕事に連れられて南部の辺境へ赴いた時、そこで一泊したのだ。だが幼いティルにとって、リヴァルタ渓谷は非常に印象深い訪問になった。渓谷の他に類をみない地形、鉱山の規模の大きさから、それらと共存する自然と生き物。特にティルの目を惹きつけてやまなかったのは、シーバス鳥の存在だった。
村人が獲ったシーバス鳥の大きさに驚き、そして解体して調理される過程、残った羽や骨の活用方法まで、ティルの父は幼い息子が興味のままに見て回ることを禁じることはなかった。
いつか僕が作った道具で、シーバス鳥のようにこの渓谷を飛びたい。
幼いティルが抱いたそんな夢を父は鼻で笑ったが、一方では馬鹿にすることなくティルの質問に一つ一つ説明して見せてくれたのが、当時はまだ村の若者の一人であるパリスの父親だった。
その日のことをティルは忘れることができず、結局は家を出ることを決意する。
日銭を稼ぎながらリヴァルタで暮らそう、そう考えていたティルに、新しい名前と資金を渡したのは父だった。迷惑をかけるな、他人として生きていけ。そういう意味の手切れ金なのだと悟り、ティルはリュシアンとなり、渡された金を使って城下の庶民向けの学校に入った。
欲しいものは、学術資料。王城に保管されている資料を、教師経由でなら読めると知り、それだけが目的だった。だから同年代の子供なんて相手にするつもりなんてなかったリュシアンだったが、そこで初めて他人に興味を持った。
それがコレット=レイビィだった。
彼女は庶民の女性のなかでは珍しく、勉学に貪欲だった。いや、勉学だけではなく計算……特に金が絡む計算については、並々ならぬ執着を見せた。
庶民学校では、成績優秀者には奨学金が与えられる。彼女はそれを餌にして、同級生たち相手に商売を始めたのだ。奨学金の授与基準は定期的に行われる試験の点数次第。彼女はリュシアンと一、二を争う成績であることを売りに、試験予測とその答えや要点をまとめた自作のノートを売り出したのだ。
結果、その年の点数は群を抜いて上がったのだが、原因がコレットであったことが学校側にはすぐに知られることになる。当然のことだ、派手に売りさばいたことを彼女は隠しもしなかったのだから。
だが彼らは回答を事前に知らされていたり、不正をしたわけではなく、効率よく勉強をしたが故に理解を深めた故の結果だ。コレット自らそう弁明に臨み、同級生を味方につけて教師たちを黙らせたのだ。
そして騒動の中でも、彼女はリュシアンと首位を争うほどの好成績を残す。
そんなコレット=レイビィの望む職業は、父親と同じ会計士になることだった。それを聞いたリュシアンは、彼女に問うたことがある。
計算だけでなく他の学科も優秀ならば、もっと良い職につけるだろう。どうして会計士なのかと。
すると彼女はこう答えた。
「リュシアンに勝てないで悔しがっている私にそれを聞くのね。じゃあ貴方も同じことを聞かれたら、はいそうですかって、やりたい事を諦めるの?」
愚問だったことに、気づく。自分がどうして学校に居たのかを思い出す。
そして彼女は続けた。
「私はどうしても手にしたいものがあるの。そのために少しも時間と労力を無駄にできないわ。だって途方もない夢なのだから」
リュシアンと、彼女はよく似ていた。
いや、そう思い込んでいただけなのかもしれない。
リュシアン自身、優秀であるが故に兄の代わりにと家の定めた仕事につくよう強要され、それから逃げてきたはずだった。だがそれを忘れ、安穏と日々を過ごしていたのだと殴られたかのように自覚し、恥を知る。
奢りがあったのだ。彼女に首位を譲らないのは、単に教師が出した問題の正解率に過ぎない。そんなものに何の価値があるのかと、真っ直ぐ曇りなき紫の瞳に突きつけられているようだった。
そしてリュシアンは、再び逃げ出した。
このまま安穏と学校に通うことは、彼女に負け続けることになる気がしたからだ。
自分のやりたい事は卒業じゃない。そう言い訳をしながら。
そうして再び訪れたリヴァルタで、彼女に負けてはおれぬと己の夢を求めて走り出したリュシアンだったが、数年を待たずして、人生で初めての挫折を味わうこととなった。
パトロンと選んだシュベレノアは、リュシアンたちリヴァルタを裏切った。友人を何人も失い、研究と実験はあと一歩というところで日の目を見ることができなくなった。
挫折と後悔はさらにリュシアンをリヴァルタに縛り付けることとなり、気づけば退路を失っている。
命を賭けてアルシュに目を向けさせようとする解放軍に合流し、これまでの夢を詰め込んだ研究が、反逆の道具になった。
失敗すれば、リュシアンは完成させた夢とともに、闇に葬られるだろう。
だが何もかも諦めかけた頃、パリスが懐かしい名を口にした。
何の因果か、コレット=レイビィと再会することになった。しかも行き先も告げずに別れた兄とともに。
少なくともコレットは、まったく変わっていなかった。相変わらず度胸も言動も普通とはほど遠く、なのに真っ直ぐで、どこにも陰りなどなく眩しいまま。
リュシアンは彼女に追いつけないどころか、思いもよらない所に到達している彼女に再び殴られたかのような錯覚を覚える。コレットが、王子妃になるというのだから。
しかもシュベレノア侯爵令嬢から狙われていると知り、憤る。どうして彼女が、身分違いな相手から求められた末に、命を狙われねばならないのか。軽率に彼女を欲したであろう王子に、そして聡いはずのコレットが分からないはずもないのに応じたのは、何か理由があるに違いない。追っ手のみならず、味方になり得ると思っていた王子殿下へも、反発を感じるリュシアン。
そんなのは間違っている。逃がしてやるべきだ。そう考えた。
だが当のコレットは、王子の元へ帰るために落下傘で飛ぶと言い出したのだ。本当に、どうかしている。
退路が断たれたリュシアンたちは、結局コレットの言う通り、飛ぶしかなかった。
「本当に、飛んでいいんだな?」
そうして飛ぶためにしっかりと縛り付けて抱えているせいで、コレットは密着している。そのせいで威勢の良い口とは違い、彼女が微かに震えているのが分かる。
「おい、おまえ……やっぱり」
「ここって、すっごく冷えるのね。風が当たりっぱなしなせいかしら」
口元に弧を描く綺麗な微笑みが、心配そうに見上げるパリスたちに向けられ、リュシアンはそれ以上何も言えなくなった。
投降してもすぐに殺されるわけじゃない。抵抗していいるうちに、相手も諦めるかもしれないし、上手く逃げられる可能性だってある。それなのに、コレットも護衛の殺戮熊でさえも、断崖絶壁を飛ぶ方を選んだ。
──どうかしている、こいつらは。
そうして釈然としないまま、リュシアンはコレットを抱えたままリヴァルタ渓谷へと跳んだのだった。
長いようで、たった数分の飛行の末。
リュシアンは太陽に焦がれた己の愚かさに、大人げもなく泣くはめになる。
コレットが今、その目で追うのはかつてのライバルだったリュシアンではない。それを目の前で突きつけられ、痛いほど思い知るのだった。




