第三十四話 安心できる場所
初めて感じる浮遊感は頼りなく、この世界から隔絶されたかのような不思議な感覚だった。 抜けるような澄んだ空には雲ひとつなく、空の群青が吸い込まれるかのように青く深く茂った森と混じる境界線が見えた。
断崖からの跳躍はまるで時間が間延びしたかのように私に広く美しい世界を見せてくれた、でも実際にはそれはほんの瞬きする間しかなく、すぐに強烈な落下をはじめる。まるで心だけ空に置いたまま、身体だけを引き落とされるかのようだった。
人間は、どう転んでも鳥にはなれないのかもしれない。
元あるべき場所へ帰れと言われているかのように、容赦なく地上へと突き落とされた。
想像以上の体感に、リュシアンの首にしがみつく腕に、力が入る。
「開くぞ!」
その叫びが耳に届くと、私はぎゅっと目を閉じる。
すると次の瞬間、リュシアンの背にある袋が開かれ、黒い布と紐が空へと放たれた。
同時に、身体が今までとは真逆に、天へと吊り上げられるような衝撃を受ける。どうやら無事に傘が開いたみたい。
ほっとしながら目を開けると、私とリュシアンから伸びる紐の先は谷から吹く風を受けて大きく広がり、それは傘というより黒い翼が生えたかのようだった。以前見たものとは形が違う?
最初のリヴァルタ橋襲撃に見たのは、横長に二つの傘が連なったような形だった。でも今私たちの命を支えているのは、鳥の翼のよう。
細い骨組みが中央二点、それぞれから放射状に広がり、リヴァルタ渓谷を訪れた日に見たシーバス鳥そのもので……まるで私たちが巨大な鳥に掴まった獲物のようだ。
私が口を開けて見上げていると、リュシアンは両手を上に伸ばして、紐が集約する箇所から伸びる二本の紐をたぐり寄せる。
「リヴァルタ村に向かう、しっかり掴まっていろよ!」
びゅうびゅうと風に包まれる中でリュシアンがそう叫ぶと、彼の左腕を引く。
「ひゃああああっ」
風を受けながら、なんと急旋回したのだ。
リュシアンが新たに改良したこの落下傘は、ただ落下速度を緩めて風に流されるのではなく、本当に鳥のように滑空できる。そう聞いてはいたけれど、聞くのと体験するのとでは全く違う。揺れるし、斜めになるし、緩めた落下が逆に加速した気もする。
私が大いに慌てている中、平気で操作しているリュシアンの肩越しに、私たちが跳んだ岩が見えた。
突き出た岩は、私たちが飛ぶ位置からはもう、坑道出口を隠してしまっている。それこそが解放軍たちがあの場所を使っている理由なのだとよく分かる。
私は心の中で祈らずにはいられない。ダンちゃん、パリス、レーニィ、必ず助けを向かわせるから、それまでどうか無事でいて……
「あれが見えるか、コレット?」
大きく旋回しながら、渓谷に半島のごとく突き出た断崖を回り込むと、すぐにリヴァルタ渓谷橋が見えた。
橋の上の街道には、誰も見当たらない。だが渓谷橋の足元、それから谷底のリヴァルタ村には思っていた以上の人影が見える。
そんなに大勢の領兵たちが来たのだとしたら、レスターでは制御できないかもしれない。心配になるものの、風に揺られた中、しかもリュシアンに縛り付けられた状況ではよく見えない。もどかしく身を捩らせていると。
「危ないから動くな、今日は思った以上に風が強い」
両腕を伸ばして、リュシアンにしっかりとしがみつく。今は彼に身を委ねるしかない。
空を滑るようにリヴァルタ橋の上を旋回しながら、ゆっくりと降下するつもりらしい。だが当然ながら、私たちから下が見えるということは、向こうからも私たちを遮るものはないということで。
「気づかれるのは時間の問題だ、さあ……どこに降りるかだが……」
「広場か、水車小屋あたりが無難ではなかった?」
「ああ、そうだな。でも降下訓練の時は、下流まで行って降りている」
リュシアンが顔を向けた方を見ると、確かにリヴァルタ橋の下を流れる川の下流に、少しだけ森が開けた場所があった。
「あれは……畑?」
「村と一緒で放置され何も作っていないが、かつては森を拓いて作物を作る試みをしていたことがあったんだ。だが村は滅びた、来年には森にのまれるだろうな」
鉱山が機能しなくなり、貧しくなったリヴァルタ村は何とかして生きる糧を探していたのだろうか。
だがそんな努力も、廃村とともに無かったことになっていくのか。
「どうやら、酷い争いにはなっていなさそうだな……見ろ、領兵たちが固まっている」
リュシアンに促されて下を見ると、確かにアルシュ領兵らしき騎馬が、一カ所に固まって動きを止めている。場所は、昇降機と繋がる水車小屋前の広場だ。十頭ほどの騎馬に相対するのはレスターたち近衛兵。工夫たちも数人いそうだ。
だがふと、彼らが一斉にリヴァルタ渓谷橋の方を振り返った。
注目する先に目を向けると、近衛と領兵たちの元へ向かって馬が三頭走っていく。
今度は何? 味方? それとも……
「もしかして……殿下?」
横からの強い風に煽られ、視界が揺れる。
負けじと身を反らして顔を向けると、先頭の馬には長いマントを纏い赤い髪らしき人物が見える。その人物が、近衛たちの前に出て、領兵たちに何かを伝えると、あからさまに領兵たちに動揺が見えた。
間違いない、殿下だ。
「殿下!!」
やっぱり、来てくれた。
囂々と吹く風の中、私の声が届くかどうかなんて、考える暇なんてないままに叫ぶ。けれども当然、こちらの声に反応する様子はない。
そうだ、と私は落下傘を操るリュシアンの首から腕を外し、彼の胸元に手を入れる。
「おい、手を外すなよ」
「まって、すぐだから……リュシアンも持っていたよね……あった」
彼の首にかけられていた紐を引っ張り出すと、その先にはシーバス鳥の骨でできた笛があった。
「ちょ、まて、それを吹く気か?」
「うん、耳塞いで……は無理か、しょうがないから我慢して!」
「我慢って、おい!」
私は目一杯息を吸い込んでから、笛に口をつけた。
「っ……!」
ピーゴロロと甲高いシーバス鳥の鳴き声によく似せた笛の音は、リヴァルタ渓谷の風を伝い、谷全体に響き渡る。
同時に高度を下げた私たちの翼の影が、水車小屋の上をかすめたのが幸いしたのだろう。
人々が一斉に空を見上げた。
その中に見つけるのは、確かに殿下の姿。
……怒られるかな。
彼を見て、そんなことを一番に思いながらも、安心からか身体の芯から力が抜けるような感覚がした。
「コレット、旋回しながら水車小屋前に降りる、掴まっていろよ!」
私は頷きながら、再びリュシアンにしがみつく。
事前にリュシアンから注意されたのは、着地が難しそうならば川に落ちるということ。身動き取れない状況で水に落ちた時には、すぐに固定してある布を切るよう、ナイフを胸元に忍ばせてある。でも使わずに済めばその方がいいに越したことはない。
「行くぞ、舌を噛むなよ!」
リュシアンが操作する落下傘が、水車小屋を大きく旋回するように少しずつ降下する。
同時に下に居る馬に乗った領兵たちがこちらを見上げて、慌てた様子だ。まだ高度があると思っていたのに、地面はあっという間に近くまで迫ってくる。
気づけば目の前をリヴァルタ橋が横切り、私たちは滑り込むように水車小屋を目指す。水車小屋の周囲は岩も少なく土の地面だ。だがそれを行き過ぎると川が横たわる。
広場に居ては落下傘に巻き込まれると判断した領兵たちは蜘蛛の子を散らすかのように逃げていく。
さすがに、落ちたら痛いだろうなぁ。
そう思っていると。
「コレット!」
後ろから、私の名を呼ぶ声がした。
けれども地面はすぐそこ。衝撃にそなえて、もう振り返ることすら出来ない。
リュシアンが両腕を同時に強く引き、シーバス鳥の翼が大きくしなったのが見えた。地面に激突しないよう、たくさんの風を受けるためだろう。傘だけでなく私たちの身体にも風を目一杯うけたのか、身体が浮く感覚がわずかに感じる。
だがまだ空を滑ってきた私たちの速度は、速いまま。
地面がスレスレに近くなって、リュシアンが伸ばした足が地面を擦った。
砂埃が舞い上がるが、それでも減速しない。
このままだと川に落ちる。そう思った瞬間、何かにくるまれながら地面へと転がり、そして止まったのだった。
「いたた……大丈夫か、どこか痛めてないかコレット?」
痛いのはリュシアンの方だろう。
私は地面が近づく瞬間、操作紐を手放したリュシアンに抱き込まれていたのだから。
「大丈夫、何ともないから……待って、ナイフを出す……」
今気づいたけれど、どうやら視界が反転している。
しかも私たちはそのまま地面に転がり落ちたのではなく、網にひっかかるようにして受け止められたようだった。リュシアンに繋がれた布だけでなく、細かい目の網がぐるぐると絡まっていて身動きが出来ない。
だからナイフも上手く取り出せないし、ちょうど着地点は岩場ではなく土の上だったようで、土埃も酷い。
その土埃を払ってから、とりあえず網を持ち上げて視界を広げると、その手を取られた。
「コレット、無事か?」
掴まれた手の先を見ると、そこに青ざめた顔をして私たちを覗き込む殿下がいた。
「……はい、無事です、私は」
引っ張られるようにして一緒に起き上がったリュシアンに目を向けると、顔を歪めてはいるものの、とりあえず無事そうだ。
「ちょっと待ってくださいね、これ切りますので……」
ナイフを取り出そうとしたところで、膝をついていた殿下が立ち上がり、長剣を抜く。
え? と私が驚いている間に、私とリュシアンを縛り付けていた布の隙間に剣を当て、切り裂いてしまった。
殿下は再び膝をつき、はらはらとほどける布を、手で払いのけて私を見る。
その目はいつも通り……いや、いつも以上に鋭くて、私はひゅっと息吸い、背筋を伸ばして、叱られる覚悟を決めた。
うん、私でもびっくりして怒るな、分かる。ここは叱られよう……そう決めたのだが。
「……無事で良かった、コレット」
殿下の声は、普通に凜としていて。でもいつもの彼を知っている私には、全然普通には聞こえなくて。
たまらなくなって両手を彼に伸ばした。
温かい手が私を受け止めてくれて、ぎゅっと抱きしめられると、急に全身が震え出した。もう恐れることはないのに、怖いことは全部終わったのに、度胸で見ない振りをしていた恐怖がぶり返す。
「殿下、殿下……私」
「もう、大丈夫だ、安心していい、コレット」
わなわなと震える身体を、さらに強く抱き込まれる。
温かい体温と、強い力、殿下の匂いに、泣きたくなるほどの安堵。無事に戻るべき場所に、帰ってこれたことを実感する。
けれども泣いている暇はない。私は震える手に力を込めて、殿下を押しながら顔を上げた。
「ダンちゃんが、坑道に残ってくれています。側には子供たち……パリスとレーニィの二人が一緒です。早く助けに行ってあげてください。領兵たちが私を捕らえようと、坑道を使って集まってきていました」
「コレットが目的だと、そう言ったのか?」
「はい、領兵たちが私を捕らえるつもりだと坑道を追ってきました。解放軍のついでというより、坑道教会を通り過ぎて追ってきたからには、絶対に掴まったらいけないと思って逃げました」
「それで逃げてきたのか……空を?」
一度空を見て、そして殿下は私と私の後ろでじっと様子をうかがっているリュシアンとを見比べた。
「他に道はなかったので……怒っていますか?」
恐る恐る訊ねると、殿下は小さく息をつく。
「手段については思うところはあるが……怒ってはいない。コレットが捕らえられていたら、私は妥協せねばならなくなる。お前は、最良の選択をした」
殿下の言葉を聞いて、私は思わず笑みがこぼれる。
そしてもう一度、温かい胸の中に飛び込んだのだった。
 




