第九話 手取り足取り悪巧み
王子殿下の会計士を請け負って、十日ほど経った日のことだった。
殿下は午前中からヴィンセント様を伴い、城下の視察に赴いている。元々、会議だの謁見だのと部屋の主が留守なのはいつものことだが、城外に出ずっぱりというのは今日が初めてだった。それでも私のやることは決まっているので、さほど問題は無い。
逆に、遠くへ数日をかけて視察旅行となると、護衛も出払うため殿下の私室が閉じられ、私は完全休日となる。
夕方までには視察から戻ると聞いている。それまではようやく仕分けができた領収書などの帳簿への書き出しをするつもり。とにかく集中して、書くことに専念するので、居ないのは助かる。
しばらく、ペンを走らせる音と、紙をめくる音くらいしかしなかった部屋。
そこに突如として、揉める声が聞こえた。
何事だろうかと顔を上げたところで、扉が勢いよく開く音が響く。
何か問題でもあって、殿下が帰ってきたのだろうか。そんな風に思って振り返ると、ずかずかと部屋を歩いて来たのは殿下ではなく、可憐なご令嬢だった。
その令嬢を止めようと、後ろから慌ててついてくるアデルさん。
なにか不味い状況なのを察して、私は立ち上がってご令嬢を出迎えた。
「あなたが、殿下が雇った平民の会計士ね?」
「はい、会計士のコレット=レイビィと申します」
貴族的な礼儀はすっかり忘れてしまったが、ここは役所風がっちりとした姿勢と礼が最適だと感じて対応する。
すると令嬢は私を頭のてっぺんからつま先まで、じっと観察してから頷いた。
「突然お邪魔して悪かったわね。私はカタリーナ=トレーゼ。殿下の留守に、少しあなたとお話をさせていただきたいの、よろしいかしら?」
にこやかに言うが、トレーゼといえば殿下の最側近の侯爵家。ご当主は現王妃陛下の兄であることから、このご令嬢は殿下の従妹にあたる。
顔面に貼り付けた笑みがひきつるのは、仕方が無いだろう。
「トレーゼ侯爵令嬢、私でお役に立てることがございますでしょうか」
前向きな返答をしたつもりはないが、カタリーナ嬢はそう受け取ったらしい。春の新緑のような瞳を輝かせ、ピンク色の綺麗な唇が弧を描き、艶やかなプラチナブロンドを揺らして微笑んだ。
入って来たときは凜々しい風だったのに、笑うとどこか幼さが出るとは、なんという可愛らしさ。しかもぎゅっと絞られたウエストと豊満な胸、どこをとっても美姫と評するに値する女性だった。
そんなお姫様のような方が、どうして私の前に?
女の私が殿下の私室に入り込んでいるのを知り、誹りに来たのだろうか。と思ったのだが……どうも彼女からはそんな不穏な素振りは見受けられず、首をひねっていると。
「ラディス兄様がお選びになったのなら、あなたはとても優秀なのでしょう? 少しだけ私に知恵を貸して欲しいの」
お願い! と聞こえてきそうなほど、素直に胸元で手を組んだ令嬢は、街で雑談をする友人たちとなんら変わることなく、女の私から見ても微笑ましい。
首を傾けてこちらの様子を窺っている様は、伝承で称えられる精霊のよう。
ほんと、どうして殿下はこの可愛らしい人をお嫁にもらわないのかしら。心底そう考えてから、いやいやと思い改める。
あの仏頂面な殿下にはもったいないかも……
「私の知識がお役に立つのでしたらご協力することもやぶさかではないのですが……今は、殿下がご不在で」
勝手をしていいのか分からずそう言うと。
「今だからこそ訪れました。ラディス兄様に知られずに、どうにか知識を得て事を収めたいの、お願いコレット」
そんな懇願をされ、判断に困って後ろに控えていたアデルさんを見るが、思ったよりも厳しい表情ではない。ならば、無下にするよりも少しだけ話を聞いて、後で言い訳を考えることにした。
「分かりました、私はこれから少し休憩を取りますので、その間にご令嬢のお話を……」
「ありがとう、コレット! 私のことはリーナと呼んでくださる?」
さすがにそのままでは呼べるものではないので、リーナ様と呼ばせてもらうことにした。
アデルさんにお願いして、いつも殿下がお休みになる中庭の椅子に、リーナ様を案内してもらった。そこに私も並んで座るわけにはいかないので、椅子を一脚持ち込んで彼女と向かい合った。
「それで、何かお困りごとでもございましたか?」
「ええ、実はこれは、友人の話なのだけれど……」
女性の話で、これは友人が……という出だしの多くは自分のこと、もしくはかなり他人事ではない話だと思った方が良い。
私はにこやかな表情を貼り付けて、それで? と先を促した。
「貴族婦女たちも最近は、事業をしている者も増えてきていて、友人のカメリア=フレイレ子爵令嬢もその一人なのです。その事業……最初は河川の水を利用したものでしかなかったのです」
「水関係でご令嬢にも簡単に出資できる事業というと、水車ですか」
「ええ、水車の動力を利用した粉ひき小屋を建てて、同時に農地へ水を引き、それらの使用料を取ることで収益を得ていました」
王都から山を二つ越えた先の子爵家領、そこのご令嬢が領民とともに始めた事業だったらしい。そこは山間部ではありながら大きな川があり、その豊富な水量のおかげで、農地は潤っていた。ただそこの山は良質な鉄鉱石が含まれていたようで、近年砂鉄が採れたことで調査が入り判明したはず。
それを思い出して、先の話がなんとなく見えた気がした。
「水車で粉をひいているよりも、鉄鋼業を始めたほうが利益を見込めると、協力者の村人が仕事を放棄してしまったそうなのです。鉄鉱石を許可なく採掘するのは、子爵が急ごしらえではありますが法を整え、かろうじて避けられたのですが……友人の投資分がほとんど回収の見込みが立たなくなったのです」
「ここのところ鉄加工の技術が上がって、様々な用途が広がった分、需要がかなり膨らんでいますからね」
「そうなのです、実は友人は……この事業を学園での最後の試験課題に選んでいるの。私は別の試験課題をこなしているけれど、友人の事業に賛同し、出資をしているわ。このままだと友人は最後の試験を合格できず、卒業できなくなるかもしれません。私は自分の課題をこなしておけば卒業はできるでしょう、ですが友人をこのままにしておけないわ。事業を回復させるのは無理にしても、負債を出さないで整理する会計方法があれば、及第点はいただけるかもしれない。あなたにはそれを教えてほしいの」
なるほど、卒業試験として事業の財務管理を提出しようとして、思わぬ落とし穴にはまった。それに出資者としてかんだリーナ様も減点をくらうだろうと。
「リーナ様とご友人は、この課題を解決させて卒業したいということで、よろしいのですね?」
貴族の子女が通う学園では、必ずしも卒業は必須ではない。特に女性は、卒業を待たずして結婚し、勉学の途中でもおかまいなしという風潮がある。私が通った下町の学校でも、同じようなことは少なくなく、それについて個人的に思うところがあった。
「もちろんよ、私も彼女も、この数年の自由をどれほど大切に過ごしてきたか……良い夫のもとに嫁いで、言われた通りに家のことをまとめ、子供を産み育てていればいいと、そう言われて育ちました。それは大事なことだと分かっているのです。でもだからこそ、この数年は自分のやりたいことを試してみたかったのですわ。それが失敗で終わったとしても悔いはない、最初はそう考えていたのですけれど……」
途中から、リーナ様は元気を無くす。
でもその気持ちは痛いほどよく分かった。なんと声をかけていいのか迷っていると、リーナ様は「でもね」と顔を上げて微笑む。
「もし私たちが失敗したまま終わったら、ほらやっぱり女は余計なことをしない方がいいと言わせてしまう。後に続く後輩たちの足を引っ張ることになると思うのです。だから、最後まで諦めたくなくて、こういうことを相談できる相手を探していたら、お父様からあなたのことを聞いて……」
「リーナ様のご希望は、よく分かりました」
「なんとか……なりそう?」
不安そうなリーナ様に、私はにやりと笑って見せた。
「方法は、いくつかあります。ただし、リーナ様にちょっとお手伝いをお願いしたいです」
「もちろんよ! 私に出来ることでしたら、なんでもするわ」
時計を見ると、まだ昼前。
殿下が戻られるのは恐らく、早くても午後休憩の頃だろう。それまでに資料を集めたい。
「私はここを出ることができませんので、少し前に殿下の視察なさった、ある領地での公共事業の記録をこちらに揃えていただきたいです。それから、フレイレ子爵令嬢がされていた事業の、最後の収支報告書を」
「すぐに用意いたしますわ」
リーナ様はいったん部屋を出て、すぐに資料を揃えて来てくれた。
鉄鋼産業は、近年特に技術が上がった分野の一つだ。元々用途が限られていたが、最初のきっかけは蹄鉄だった。これらを使うようになってから、輸送が伸びた。利益が出ると産業が活性化し、技術が上がる。その利益で更に工夫をするようになり、新しい技術が試されたのを殿下が視察した記録があったはず。
リーナ様と二人、集めた資料を眺めながら作戦会議をする。
「どうせです、事業に始末をつけるのではなく、利益を回復……いえ、増収させたらより良いですよね」
「そんなことができるのかしら、こちらの事業が上手く回らなくなった原因は、元々の契約者たちよ。多少こちらが融通していい提案をしても、足元を見られて損切りされるのでは」
「そうさせないための、数字を見せるんです。ただし出し方が重要です」
本当に事業をあきらめるならば、早い方がいい。だが今回のこれは捨てるには惜しい材料がいくつもある。
私はメモを書きながら、リーナ様に考えたシナリオをレクチャーする。
すると私の提案を聞いて、すぐに理解するリーナ様。
「ふふ……これは、面白いけど、際どいわね」
「背に腹は代えられません。どのみち賛同した者は、相当の利益を得るのですから、遠慮はいりませんよ」
「そう、そうよね」
「はい、やっちゃってください」
「うふふふ」
いつの間にか膝をつき合わせるくらいの距離で、資料を囲み手取り足取り指南を続けていた。出資割合と利益の分配、法を順守しつつもグレーでいけるところと、絶対に外せない約束事。女であることで舐められないための後ろ盾の確保や、それらの情報の小出しの仕方。つまるところ悪巧みをしていた私とリーナ様。
そんな状況だったので、すっかり時間を忘れていたのだ。突如降ってきた声に、私たちは飛び上がる。
「ここで一体なにをしている、カタリーナ、コレット?」
両腕を組み、仁王立ちしたラディス王子殿下だった。
ええと……万事休す?