第三十一話 笛
リヴァルタ橋の下層階、監獄部屋の中で、私を捕まえようと迫る工夫たちから逃げ回る。
なるべく引きつけておかねばならないから、本気で走っているわけではない。わざと彼らに姿を見せて引きつけて、しかも捕まらないように。
それがなかなか難しい。
「おい、そっちに回れ!」
挟みうちのように迫る工夫たち。
ダンちゃんが手を伸ばしてきた工夫の腕を払いのけた隙に、私は並ぶ机の下をくぐり抜けて彼らの背後に逃げる。
「くそっ、すばしっこい女め、待て!」
「待てと言われて待つわけがないです!」
机と椅子を彼らの方に押しのけると、掴みかかろうとしていた体勢を崩して転ぶ工夫たち。そんな彼らを飛び越えるようにダンちゃんが私に駆け寄り、一緒に隣の部屋に入る。
元々監獄だった部屋は、扉をつけて数珠つなぎの間取りになっている。そこを倉庫だったり休憩所だったりと活用していた。私が使った机も、彼らが普段食事をしたり休憩するために使っているものだ。
入った部屋は物置として使われているようで、背の高い箱から、布のようなものがかけられた家具など、雑多なものが多くて入り組んでいた。
物の隙間に身を滑りこませた時だった。
「掴まえた!」
積み上がった高い箱の影から手が伸びて、私は腕を引かれて体勢を崩す。
「コレット、伏せろ」
ダンちゃんの声に、咄嗟に首をすくめて下を向く。
すると私の頭の上をかすめながらダンちゃんの拳が飛び、鈍い音と呻き声が。
「て、手加減っ!」
「した! コレット、上へ!」
ダンちゃんが私の腕を掴んでいた手を振り払い、私の足を自分の膝に乗せる。そして腰を掴んで持ち上げられた。
私は慌てて足に力を入れて、彼の誘導に従って背の高い木箱の上に乗る。
ダンちゃんよりも高い位置なので、そこからなら部屋の様子がよく分かる。私がさっきまで居た場所には、顔を押さえてうずくまる人と、ダンちゃん。そして──
「ダンちゃん、奥の扉方向に三人! 手前から右手戸棚の影、その先で白い箱の後ろ、左奥窓の下!」
私の報告に、ダンちゃんは躊躇なく近くにあった箱を抱えて右方向へ投げる。すると投げつけられた箱が棚にぶつかり、中に入っていた大量のタイルが隠れていた人にぶつかり音をたてて落ちる。隠れていた人は為す術なく埋もれている。
その音の激しさに、タイル入りの箱が相当重かったのだと驚く。軽々と投げていたダンちゃんの腕力に驚いていると、白い箱に隠れていた初老の男性が、木槌のようなものを振り上げながらダンちゃんに迫る。しかしそれもダンちゃんは軽々と木槌を払いのけてしまい、逆に襲ってきた男性は勢いを削がれて無様に転がった。
そして残る窓際にダンちゃんが向かう。
だがそこでダンちゃんが、窓の外を見て足を止めた。
「……あれは」
私もつられるように、ダンちゃんが向けた視線の先を見る。
橋の中央、第二橋脚部分に設置された昇降機を使って入った下層階。そこから私たちは、ギレン側ではないクラウス市側の方へ移動している。窓から見えるのは、リヴァルタ村へ下りる坂。そこに旗を掲げた騎馬が走っていく。
なびく旗の紋章は、緑地に金の斧が交差していて。
「アルシュ侯爵家の旗……」
それだけ呟いて、ダンちゃんが窓の下に座り込んだ工夫の服を掴んで、山積みになったタイルに向けて投げ捨てた。
そして私の方へ戻り、両手を伸ばしながら真剣な面持ちで言った。
「引き延ばしている余裕はなくなった。一刻も早く、目的の場所へ行こう」
私は頷きながら、彼の両手に身を委ねて降りる。
今この状況で領兵が工夫たちに加担してしまったら、リュシアンたち解放軍に勝ち目はない。レスターたち近衛も、どちらにつくか選択を迫られる。
私とダンちゃんは、前の部屋から追いついてきた工夫たちを尻目に、次の部屋に走った。
古い木戸を開き、足を踏み入れるのは、連なる監獄の最奥。
つまり、拷問器具が残っていたという例の地図上で袋小路となっている独房だ。
政治犯を収容していたというそこは、さすがに再利用することは避けられているらしい。
今までの倉庫や休憩所とは違い、荷物も置かれていなくてがらんとした空間だった。ただ石畳と煉瓦の壁で囲まれた小さな部屋。石の床に煉瓦が積まれた台や、箱形の水槽跡のようなものはある。何に使われたものなのかは、あまり考えたくはない。
少しだけかび臭いのは、窓が一つもないからか。部屋の最奥には小さなくぼみが壁にあり、そこから二つの鉄錆に覆われた拘束輪が突き出ている。
「……聞いていた以上に、嫌な部屋ね」
言い切らぬ内に、工夫たちがその小さな部屋になだれ込んで来た。
六人。前の部屋で動けない三人と、最初の部屋でダンちゃんが昏倒させていたのが五人。部屋が小さいから、入って来られない人がいるようだから、予定通りかな。今朝、リヴァルタ橋にやってきた工夫たちはざっと三十人ほどだったと記憶している。そのうち私たちにひきつけられて下層階に来ているのは十五人ほど。水車小屋を動かした時に渓谷の方に十人ほどの影を見た。残りはバラバラに渓谷橋の中にいるとしたら、さほど脅威にはならないはず。……問題は駆けつけてきた領兵がどう動くか。
私たちは追い詰められるように、鉄輪がある壁を背にする。
にじり寄る工夫たちが拾った棒きれや煉瓦を手にしているのは、ダンちゃんが逃走ついでに彼らの斧やツルハシを破壊していたせいだろう。
私は意を決して声を張り上げる。
「私は、王子殿下のご命令で会計監査の職務を遂行していました。あなたたちに拘束されるような、やましい事など一切身に覚えはありません」
これだけは、絶対に言いたかった。
ただ逃げるのは嫌だったし、まったくの濡れ衣だと主張しておきたかった。例え彼らが操られていて、今は話が通じなくとも。ほんの少しでも理性が残っていて、何らかの対処で無事に回復できることを信じているから。
「嘘だ、お前はシュベレノア様が憎くて、アルシュを陥れようとした」
どうして初めて会った人を憎まねばならないのかと訴えるも、違う言い分に取って変わる。
「そうだ、工事を中止させるために、横領をそそのかしたと聞いた」
だから私がなぜ工事を辞めさせる必要があるのだと問うと。
「そればかりかシュベレノア様が嫁ぐはずの王子殿下を籠絡しようと……」
言葉を切って私をまじまじと見るその工夫。顔、背丈、胸、汚れたスカートの裾へ視線が移り、首を横に振る。
いや、そこは言い切ってよ。そこで信じられないって顔されたら私の立場がないでしょう!?
「王子殿下の正気を失わせたに違いない、毒でも盛ったんじゃないのか」
「盛ってないから!!」
前言撤回、正気を取り戻すには荒療治も必要かもしれない。
拳を握りしめて工夫たちへ身を乗り出すのを、冷静なダンちゃんに止められる。
「耳を塞いでいろ、コレット」
そう言いながら胸元に手を入れ、何かを取り出す仕草をするダンちゃんを見て、私は慌てて両手で耳をぎゅっと抑える。
同時に、大きく息を吸い込んだダンちゃんが口元に当てたのは、黒い管が重なり束になった笛だ。
次の瞬間、石と煉瓦で囲われた狭い空間に、ある意味凶器とも言える凄まじい音が響いた。
「…………っ!」
リュシアンに持たされたシーバス鳥の骨で作られた笛が、これほどまでの音量とは思わなかった。ジンジンと耳の奥が痺れるような感覚がする。
しっかり耳を塞いでいても防ぎきれない衝撃をまともに喰らった工夫たちが、顔を歪めて叫びながら床に倒れていく。
それを横目に、私は大急ぎで教えられていたくぼみのある壁の床との隙間に指を入れる。するとそこに触れるものがあり、指先で掴んで引き出す。
それは麻紐のようなもので、ぎゅっと握って思い切り引っ張ると、くぼみの横の壁が細長い形で外れてくるりと半回転して、ぽっかりと穴が開く。
真っ黒な穴の先は、資料室の倉庫に続く抜け道と同じく、荒く掘られた細い道。ううん、あそこよりもずっと細くて狭い。
それも聞かされていたけれど、もしかしたらダンちゃんも通れるんじゃないかって思っていたけど、これはダンちゃんどころか小柄な私しか無理だ。
私はダンちゃんを振り向こうとするのだが、そのまま大きな手に背中を押される。
「行け、コレット」
「でも、ダンちゃん」
「僕は別口から追いつく、必ずだ!」
押し込められて振り返ると、すぐに扉がダンちゃんによって閉められてしまう。
「ダンちゃん!」
「紐を引くんだコレット、早く!」
閉じられる瞬間に目に入ったのは、音の衝撃に倒れたと思った工夫たちが、再び立ち上がってダンちゃんに迫るものだった。
私は真っ暗になった狭い坑道で、足元や壁に手を這わせて紐を探す。
「あった!」
荒い縄をぎゅっと掴み、念のため扉が再び開かないように背中で抑えながら、思い切り引く。
すると扉と繋がっていない方の端が、するりと戻ってくる。
これで、独房からはもう扉が開くことはない。
煉瓦の隠し扉の向こうでは、ダンちゃんと工夫たちがたてる鈍い音が微かに聞こえる。
目も開けているかどうか分からない真っ暗な中、私は縄を手放し、自らの身体をぎゅっと抱きしめる。ドクドクと早い鼓動を感じて、自らを落ち着かせるために深呼吸をする。
「大丈夫、ダンちゃんなら絶対に合流してくれる」
だから私は、しっかりと自分の役割をこなさなくちゃ。
荒削りの岩壁に肩や頭を擦りながら、私は最初の一歩を踏み出した。
ここは絶対に抜け出せる道。かつての政治犯が脱走に使った抜け道なのだから。私はリュシアンから教えられた曲がり角を間違えないよう、両手を壁に添えながら慎重に進んだ。
最初の右手の穴は袋小路だから通り過ぎて、次に分岐となる場所で左側に進む。そうして行くとすぐにとても狭くなるので這って十五歩くらいの距離を何とか進み、開けた場所に出る。そこで慌てずに向きを変えず、壁を伝って二つ目に入る。
緊張で息が浅くなるけれども、何とか持ちこたえて進んだ先に、ふと小さな明かりが揺れているのに気づく。でも揺れる灯りがどうも霞むのは、しばらく緊張でぎゅっと目を閉じていたせいだろう。
しばらく瞬たいていたら、はっきりと見えた。
「コレット!」
「パリス?」
まだまだ狭い坑道を通れるのは、私やパリスなどの子供くらいだ。それでも彼女が迎えに来てくれるなんて予定になかったから焦る。
急いで駆けつけた先には、パリスだけでなくレーニィまで居るではないか。
「どうしたの二人とも、何かあったの!?」
解放軍たちの隠れ家に何かあったのかと心配したのだが、彼女たちはただ私を迎えに行くように言われたのだという。
「明かりがなくてちょっと怖かったから助かったわ、ありがとうパリス、レーニィ」
パリスは嬉しそうに微笑むけれども、隣のレーニィは硬い表情を作ったまま、私の手を引いた。
「急ごう、こっち」
「あ、うん、そうだね」
レーニィはパリスよりも二つ年上だ。パリスとの様子の違いから、幼い彼女には知らされていないが、やはり何かあったのだ。
隠れ家には解放軍として活動する元領兵たちは出払っていて、リヴァルタ村の村民しか残っていないはず。彼らが私たちに子供たちを託したのだ。
守らなければ。
必ず、ダンちゃんとの再合流地点まで無事に向かわないと。
危険を顧みず水車小屋まで向かってくれたリュシアン、彼らを信用して工夫たちを隔離するために動いてくれているレスターたち、それから一人残って私を逃がしてくれたダンちゃんを思い、私は改めて気を引き締めるのだった。




