第二十五話 玉座
アルシュ侯爵家当主、トーラス=アルシュをラディスに会わせようとしないのならば、それなりの理由が告げられるのは当然であろう。
体調不良で臥せっていることは周知の事実。だがその病状の詳細は相変わらずはっきりとしないのならば、ラディスは医師の見立てを問う必要があった。
「父には、食事の後でご案内いたします。床に臥せっておりますゆえ、ご無礼かとは思いますが別室にてラディス様をお待ちしております」
さあどうぞとシュベレノアから席へ着くよう促されたが、ラディスは動かなかった。
「食事の用意は必要ない」
シュベレノアの言葉を受けて動き始めていた給仕たちに、動揺が走る。足を止めて、主であるシュベレノアの反応を伺っていた。
そうした中でもシュベレノアは動揺を見せることはなく、数歩ラディスに近づく。そして微かに笑みを浮かべる。
「わたくしを信用していただけないのですか?」
悪びれた様子でも媚びるでもなく、淡々とした声音で問う。
だが更にラディスに縋るように手を伸ばしたところで、側に控えていた護衛頭ハルムートが携える剣の鍔が鳴ると、手を止めてシュベレノアは首を傾げた。
「ロゼの者たちが嘆いておりましたわ、ラディス様のためにお出しした食事には一度も手をつけてくださらないと」
事実、ラディスの口にするものは護衛たちが全て用意していた。だがそれは地方の視察をする時にはよくあることでもあり、ましてや今回はリヴァルタ渓谷。視察地の負担となることは避けて然るべきことだ。
だが領主の館を訪れる時には、そのようなことはしない。ティセリウス領での視察でさえ、領主から出されたものに口をつけていた。
アルシュ城でそれを受け入れられない理由は、ただひとつ。
「殿下は先日毒を盛られておりますので、警戒するのは当然のことです。しかもその者がアルシュ領の者であるならば尚更」
ハルムートが口を挟む。
じっとラディスが見下ろすシュベレノアは、ハルムートの言葉がまるで聞こえなかったかのように微笑んだまま。引き戻した手を自らの胸元に当てる。
これまでラディスの視察に付き従う間、幾度と見かけたその仕草。首元まで薄いレースが覆うドレスの下に、禍々しい色をした約束の石のペンダントがあるのだろう。
「わたくしがお側に居りますれば、ラディス様を害する者はすべて排除いたしますわ」
背筋を伸ばし、顎を上げるその姿からは、自信が満ちている。
凜とした姿はその美しい容姿をさらに高潔に見せ、誰よりも高貴な身分と錯覚さえさせる。
「アルシュ家はもうひとつの王家として、長きにわたりこの始まりの地を守ってきました。それは今のような王家の本流が危ぶまれる時のため。王家を継ぐべき者が僅かにも二人……しかも一方が廃嫡の危機ではありませんか。残る唯一となったラディス様をお支えするのに最も相応しいのは、アルシュの者……つまりわたくししかおりませんでしょう?」
「ジョエルが廃嫡……最悪幽閉となっても、傍流がいないわけではない」
「ハインド侯爵家当主は陛下のはとこで、しかも妾腹の筋であることをお忘れになられたのですか?!」
シュベレノアがラディスたちに初めて見せる強い感情は、蔑みに歪んだものだった。
「……論外です」
炎を宿したような瞳はすぐにラディスから外され、シュベレノアは床に触れるスカートをつまみ、淑女の礼で感情を乱したことを詫びた。
「わたくしは、ラディス様の治世を助けたい一心で申し上げているのです。きっとわたくしならば、欠けたる部分を補えるものと自負しております」
「欠けたる部分か……」
「ええ! アルシュ侯爵家でしたら、ラディス様の王の徴を補完できますでしょう? 宝冠の徴は始祖王がもたらしたもの。わたくしを娶れば原始への回帰、正当な王として誰も異を唱える者などおりません」
「なるほど、二つに分かれた血が、再びひとつになることで王の正統性を知らしめると?」
「そうです」
ラディスは、目を輝かせているシュベレノアを見ながら、かつてのコレットの言葉を思い出す。
『宝冠の徴なんて、どうだっていい……そんな徴に囚われてしまうなら、いっそ壊してしまった方がマシです』
ラディスが本当の意味で王になる決意を固めたのは、その言葉を聞いた時だった。
思わずもれた笑いに、シュベレノアは自分への肯定だと思ったのか、再び白く細い手がラディスに伸びる。
「……な」
手を払いのけられるとは思わなかったのだろう。小さく息を呑むシュベレノアに、ラディスが改めて告げるのは、既に親書でも伝えた言葉だ。
「シュベレノア、私はそなたを妃に迎えるつもりはない。例え宝冠の徴が私を王と認めずとも、私は私の意思で王になる」
「で、であればこそ……王位をお望みならばわたくしが必要ではありませんか。権力は盤石でこそ、力を発揮するのですから」
ラディスは首を横に振る。
かつてラディスは浅慮にも、宝冠の徴こそが王たる資格の全てだと受け入れていた。そして徴は不完全なものしかラディスに与えず、自分は王に望まれていない、だから王位はジョエルに譲らねばならないと。
だがコレットに再会し、彼女と過ごす中でラディスは。
王子だからできることがある。王位を目指すからこそ成し遂げられることがあると気づかせた。
ラディスが王になることが当然なのだと言い切った、唯一人。
「相応しいかそうでないかではなく、私が共に生きたいと求めた者を妃に迎える」
シュベレノアの美しい眉がピクリと揺れて、灰褐色の瞳がラディスを凝視する。
「まさか王位を戴くと誓った口で、下々の女子供のように愛だの恋だのとおっしゃられるつもりではありませんわよね?」
「逆に問うが、おまえは何故そこまで私の妃に拘る?」
「高貴な血に相応しい地位が与えられることに、理由など必要ありません……わたくしはフェアリス王国のためを考えているのです。今ラディス様がベルゼ王国の姫を迎え入れたなら、いずれフェアリスはベルゼに呑み込まれることになる、そのきっかけをあたえてしまうのですよ」
「そのような事態にはならない」
「保証などどこにありますか、ラディス様はベルゼ王のことなどご存知ないのです、ましてやその従妹の姫など……」
ふと言葉を切るシュベレノア。
「ラディス様が側に置きたい者というのはベルゼの姫ではなく、やはりあの平民の会計士なのですね……先々代の過ちを再び繰り返すおつもりとは」
「いや、側妃を娶るつもりなどない」
ラディスの曾祖父の代には、側妃が産んだ妹姫が存在していた。王妃とは違う母をもつこの姫は、侯爵家へ嫁ぎ諍いには発展せずにすんだものの、王子であったなら貴族家の均衡が崩れたかもしれない。
その時代を最後に王家での側妃制度は廃止されたが、結局のところ数代経た今は継承者不足に陥っている。それに危機感を抱く者が、王家に側妃を復活させよと進言する者はいないわけではない。
「そうでないのならば、なぜあの者を側に置いているのです?」
「私財会計士としての職務を遂行させるためだと、何度も言ったはずだ」
僅かばかりだが眉が寄り、苦悩ともとれる表情を浮かべるシュベレノア。
ラディスがかつて流した噂のことはシュベレノアも承知で、視察のなかで一度コレットのことを聞いてきたことがあった。その時もラディスは、彼女は会計士として優秀がゆえに同行していると告げた。だが今日、コレットとシュベレノアが遭遇してから、明らかに反応が違う。
二人がどういう言葉を交わしたのかは、リヴァルタ橋を出発する直前で、ラディスが確認することは叶わなかった。
だが確実に分かるのは、コレットがベルゼの姫と呼ばれる存在と同一人物であることを、今はまだ彼女に知られてはならないということだ。
「……分かりましたわ、ラディス様のお考えは承知いたしました」
ふいに力を抜きそう呟いたシュベレノアに、構えていたラディスは肩透かしを食らうものの、安堵する。
少なくとも、いまは引く気になったのならば、先に肝心の侯爵の件に注力できる。
「我が儘を言いました……これもラディス様を想ってのことです、どうかお許しください。それでは父の元にご案内いたしますわ、どうぞこちらへ」
拍子抜けするほどあっさりと話題を変えるシュベレノアに、ラディスはハルムートとともに顔を見合わせる。
だが当初の目的はアルシュ侯爵の無事を確認することだ。ラディスは頷き、シュベレノアの後を追うことにする。
侍女を退け自ら案内を買って出たシュベレノアの後を追い、廊下をしばらく歩くと暗い渡り廊下に出た。
中庭を臨み、肌寒い外気のなか、別棟の尖塔が連なる離れに辿り着く道だ。
「こんなところに、侯爵様が?」
先頭を歩くシュベレノアには聞こえぬくらいの小さな声でハルムートが呟き、ラディスが小さく頷き警戒を高める。
古びた扉をくぐりその先に入ると、石造りの螺旋階段がある。その前に置かれていたランプを手にしたシュベレノアが、ラディスを振り返った。
「父は精神を病んでおりまして、限られた者の世話しか受け付けてくれませんの。ですからこうして、不用意に人が入り込まない場所で、お休みいただいております。どうぞ足元にお気をつけください」
「精神を病んでいるとは、どういった症状なのだ」
階段を登りながらラディスが訊ねる。
「……正気の時と、そうでない時がございます。父らしからぬ大きな声でわめき、時には介助する者に襲いかかる時もあるようです。今日は調子が良いと報告を受けておりますので、わたくしならお話できるでしょう、どうぞご安心ください」
階段の果てにあったのは、一枚の扉。閂がかけられ、そこに頑丈な錠前が付けられていた。扉の上部には小さな窓があり、しかしそこには鉄の格子がはめ込まれている。まるで牢獄のようなそこに、本当にアルシュ侯爵がいるのだろうか。
そんな疑問を抱くラディスたちの前で、シュベレノアが錠前に鍵を差し込み、扉を開ける。
重く軋む音とともに扉が開かれると、ほんのりと灯りがさす部屋が現れた。
「どうぞ、お先にお入りください」
促されて入ると、薄明かりの中に寝台が見えた。天蓋から清潔な布がかけられ、その中で誰かが横になっているようだ。
「お父様、ラディス殿下がお見えですわ、お加減はどうですか」
シュベレノアの言葉に、寝台の中が揺れてむくりと陰が起き上がる。
「起きていたようですわね、どうぞお二人とももっと中へ」
促されて進んだ先は、離れの外観とは真逆にしっかりとした調度品で揃えられていた。石の床にはしっかりと絨毯が敷かれて、暖炉にも火が入っている。
侯爵が酷い扱いを受けているのではと杞憂はあったものの、そうではないとほっとした時だった。
ギイと再び軋む音がした。
振り返った時には、既に扉は閉められていて、閂が再び下ろされたような金属の音が響く。
当然ながらラディスの後ろに続いていたはずの、シュベレノアの姿がない。
急いで扉に手を伸ばし、開けようとノブを掴むハルムート。
だがそのハルムートをあざ笑うかのように、格子の嵌まった小窓からシュベレノアが顔を覗かせていた。
「シュベレノア、どういうことだ!?」
「開けろ、何をしているのか分かっているのか?」
窓から覗くその瞳に、王族に害をなす者が抱く畏れは一切なかった。
「わたくし、ラディス様にはとてもがっかりいたしましたの」
例えるのならば侮蔑。
「ラディス様はまったくもって相応しくないのですもの。せっかく私が王にして差し上げようといたしましたのに……残念ですわ。でもご安心なさって?」
彼女が手にしているだろうランプの灯りが、下から白い顔を照らす中、女神と謳われた美貌に笑みが浮かぶ。
「ジョエル様に続いてラディス様が不適合でも、わたくしが居るのですから……そう、最初からこうすれば良かったのです。わたくしが玉座に就けばいいのだもの」
その明るい声音が、尖塔連なる離れの石壁に不気味に反響する。
ラディスの背筋に言い様のない悪寒が走った瞬間だった。




