第二十四話 迎え
橋脚と最上部の街道に挟まれた場所にある会計資料室は、王都からアルシュに向かって橋を渡る初めの橋脚の上に位置している。その資料室の小さい窓から、谷底を見下ろすとちょうど宿泊所に使っている家屋のある、元リヴァルタ村が広がっている。
もう人が住まなくなって時間が経っているせいか、草木が覆い茂っているが、かつて広場として使っていたであろう場所は、かろうじて判別がつく。
そこに、ひとつ、ふたつと駆けていく人影が見えた。
目を凝らして探すのは、その人影に近衛の白があって欲しいという願いから。
「まずいな……近衛の封鎖が完全ではないようだ。工事関係者はこの迷路のようなリヴァルタ橋に慣れている、怪我を負わせないよう気を遣う近衛には荷が重い」
私の横で窓を覗き込んでいたダンちゃんは、ため息交じりだ。
「何が目的なんだろう……シュベレノア様だって、領地で紛争が起きることを望んでいるとは思えないよ?」
「いや、そうとも言い切れない。彼らが名乗る「アルシュ解放軍」という言葉は、気に障っているだろう」
シュベレノア様にとって、目障りな存在だということか。
「解放軍は移動を拒んだリヴァルタの者たちで、作業人たちも、この近隣の者だ。工事を阻む者と、修復を望む者。両者の対立ならば、あくまでも地域の問題で片付けられる」
「侯爵家が、手を下さずに解決できるというわけね」
「しかも、修復に関わる最高責任者の殿下は、今現在ここに居ない」
「殿下が留守になるのを狙っていたってこと? でもギレン行きはこちらから提案したことよね? こんなに早く行動できるってことは……」
「ああ、準備していたと考えていいだろう。コレット、最悪の状況を想定して動く方が良さそうだ。大事な帳簿を確保した方がいい、出来るか?」
ダンちゃんが、資料室に残された資料の山を振り返る。
ここにある資料の多くは、裁可を求める都合上、王都の各局にも同じものが保管されている。設計関係と資材については建設設計局に、工事中の街道封鎖に関するものは法務局、金銭の出入りは財務会計局といった具合に。
ここにしかないもの、つまり失ってはならない資料は、侯爵閣下の直筆のサインそのものだ。殿下がギレンに行かなければならなかった理由、その証拠を守らなくては。
私は手早く目的の書類を束から外し、一つにまとめて紐で縛る。
そうして急ぎまとめたのは正しかったようで、しばらくもしないうちに、資料室のすぐ外に大勢の足音が迫ってくる。ダンちゃんは私の手を引き、机が並ぶ広い部屋から続く小さな書庫へと入る。そこは雑多なものが集まった倉庫のような場所で、普段は使われていない部屋だ。
ダンちゃんは私を背の高い書棚の間に押し込むと、その小部屋の扉をそっと閉めた。そして私が隠れた書棚を背にした状態で外を警戒し、いつでも対応できるように剣に手を添えたのだった。
緊張しながら息を潜める中、薄い扉の向こうでは、数人が部屋になだれ込んで来たようだった。
「誰も居ないのか?」
「そんなはずはない、探せ」
「アルシュとリヴァルタに反旗を翻す者には、制裁を」
続けて聞こえてくるのは、机を引きずるような音や倒れるような音、それに伴ってたくさんの物が落ちていく音。
彼らが私たちをリヴァルタ渓谷橋の事業を妨害しに来たと、敵だと認識して探しているのだろうか。
退路がない小部屋に隠れていても、すぐに見つかってしまう。
焦ってダンちゃんを見るが、彼の添えられていただけの右手は、しっかりと柄を握りしめている。
「……駄目よ、ダンちゃん」
小さく囁きながら、固く力が入った拳に手を添える。
抵抗して怪我人が出て欲しくない。けれども相手の方が問答無用で武器を振り回してきたのならば、ダンちゃんだって加減していては無傷ではおれないだろう。
そんな緊迫した空気をさらに凍り付かせるかのように、新たな足音が加わった。
「ここで何をしている! 武器を放棄しろ!」
どうやら近衛が駆けつけてくれたみたい。彼らをこの場から連れだしてもらえれば、その隙に脱出できる。
しかしホッとしたのもつかの間、すぐに部屋を荒らすような物音が再び響いた。
「お前たちもあいつらの仲間か? 工事を邪魔して俺たちの暮らしを奪うつもりなのか?」「まて、落ち着け、どうしてそうなるんだ?」
「あの女はどこに行った?」
「そうだ、会計士はどこだ! このリヴァルタで不正の証拠をねつ造しているに違いない!」
「ちょ、ちょっと待て、何を言っている?」
「おい、そっちの部屋もくまなく探せ!」
私がびくりと身体を震わせると、ダンちゃんが扉から離れて抱え込むようにして庇う。
駄目、駄目だってば、そう言いたくてダンちゃんの分厚い胸板と肩を力一杯押しのけようとするけれど、びくともしない。
どうしよう。
まさか私が目的だなんて思っていなかった。
だがその時、私が寄りかかっていた書棚の隙間の壁が、ガタンと沈む。
「コレット、掴まれ」
びっくりして姿勢を保てなかった私を、ダンちゃんが回していた手で支えてくれた。
そのまま振り返ると、壁にぽっかりと穴が空いている。老朽化したリヴァルタ橋だ、体重をかけたことで壊れたのかと思っていたが、そうではないみたい。煉瓦の形にそってくり抜かれたような穴は綺麗に継ぎ合わされていて、どう見ても人工的に作られたものだ。
しかし驚いたのはそれだけじゃない、空いた壁の穴から、なんと小さな顔がひょっこりと現れたのだ。
「……パリス?」
くりくりとした灰色の大きな目が、暗闇から現れてニコリと笑う。
そしておさげを揺らしながら身を乗り出すと、彼女は白く小さな手で私の服の裾を掴んだ。
「コレット、こっち。はやく」
困惑していると、私たちの後ろから扉のきしむ音。
考えている暇はなかった。
ダンちゃんに抱えられたまま、私たちは外れた壁の中、暗闇に身体を滑り込ませた。
倉庫ですら薄暗かったのに、さらに広がる闇は、深く吸い込まれそうだった。閉じ込められてしまったら、きっと目を開けているのかすら分からない闇。少しだけ怖くなって振り返ろうとした時には、誰かが壁を元に戻して一切の光が断たれた後だった。
視界がきかない闇の中で、「居ないのか?」「もう逃げたのか」などと壁の向こうから聞こえる。暗闇と迫る追手との相乗効果で、上がりそうになる息を必死に堪える。
もしダンちゃんに抱えられていなかったら、暗闇と追われる恐怖で耐えられなかったろう。
そうしてじっと耐えて、どれくらい経った後だろうか。いつしか声や音が絶えた頃、すぐ側で火打ちの音がして、ランプに火が灯され視界に光が戻る。
「もう大丈夫そうだ、怪我はないか?」
聞き覚えのある声からランプを向けられ、眩しさに目を細めながら顔を上げた。するとそこに居たのは、リュシアンだった。
彼の横には、心配そうな顔のパリス。
ほっと息をつく私だったが、一方でダンちゃんだけは緊張を解くことはなかった。私を抱えたまま、リュシアンを睨みつけながら観察している。
「恩人に向かってそれはないんじゃない? あんたが殺戮熊なんだってな、噂は聞かせてもらったよ。やっぱりコレットの知り合いは普通じゃないな」
狭い空間で、鍔なりがする。
「おい、冗談はやめてくれ、子供の前だってのに」
「それはこちらの台詞だ、コレットに危害を加える者は誰であろうと許さない。どういうつもりで我々をここに導いた? まだ助けられたなどの判断はできかねる」
ダンちゃんの睨みが相当怖かったのだろう、パリスがリュシアンの後ろに隠れる。
私は自分の肩に回されたダンちゃんの腕に、手を添える。
「ダンちゃん、私は大丈夫。そんな怖い顔をしたら、パリスが泣いちゃうよ? 彼女は恩人に違いないんだから、お願い」
「おいおい、パリスは恩人で、俺は違うのか?」
「ちょっと黙ってなさいよ、リュシアン」
ダンちゃんが握りしめた柄を、ぐっと押し下げた。
するとリュシアンの目に、鋼色が見て取れたのだろう。すかさずランプを床に置き、両手を広げて武器を持っていないことをダンちゃんにアピールしてくる。
「敵意はない、俺も解放軍も、王子殿下に楯突く気なんてさらさらない」
その言葉に、ダンちゃんの腕の力が少し抜ける。なのに……
「それにコレットを害して何の得があるってんだ」
再び力が入るダンちゃんの腕。
「おい、なんでまた睨む?」
リュシアンは、頭はいいけど馬鹿なんだよね。口は災いの元という格言を地でいく。それで何度、学校の教師たちと無駄な衝突を繰り返したか。
思い出しても楽しくはない過去を思い出しつつ、双方をなだめて場を取り繕う。
「それで、とりあえず現状を把握させて欲しいのだけれど、ここはいったい何なの?」
資料室に繋がる小さな倉庫、その壁を抜けた先は洞窟のような岩穴だった。しかも自然にできたような岩穴ではない、私たち四人が立って話をできる空間の端から、細い道が延びている。暗くてその先は見えないが、すべて人の手で掘られた跡がある。
「何って、金鉱の古い坑道だ。リヴァルタ渓谷には金脈がいくつもあって、それを利用してかつての囚人たちが脱獄に利用した名残だ」
「脱獄……じゃあ、設計図にはない通路ってこと?」
私の問いにリュシアンはニヤリと笑い、真っ暗な穴の先に向かって指差した。
「そうだ、この先にアジトがある。半日遅れになったが招待してやろう、俺たち「シーバスの翼」に。そこで話を聞いて決めたらいい、俺たちが味方かどうかを」
私とダンちゃんは頷く。
戻っても捕まる可能性があるし、そうなったら近衛と工事作業人たちとの衝突の原因にもなりかねない。
指示を仰ぐ殿下との連絡は、エルさんが到着しないからには私たちに何の手立てもない。
ならば、行くしかないだろう。
決意とともに、坑道をうなり声のような音をたてて風が吹く。この先に何が待っているのかは分からないが、もう進むしかない。
私たちはたった一つのランプに照らされて、深く先の見えない坑道を歩き始めるのだった。
◇ ◇ ◇
時はしばし遡り、場所はアルシュ領都ギレンの、アルシュ城。
半日かけての馬車での移動は何度かの休憩を挟み、予定通りに到着した。ラディスは同伴させた護衛頭のハルムートとともに、アルシュ城での晩餐に臨む。
もう一人の護衛官エルは、深夜に再びギレンを発たせてリヴァルタに戻らせる予定だ。そのタイミングはアルシュ侯爵と面会を済ませてからを考えて、いつでも出られるよう待機させている。
アルシュ城の執事に招かれて、ハルムートを従わせながらラディスは豪華絢爛な廊下を歩く。
「殿下の居室が質素に感じられますね」
ハルムートが苦笑いを浮かべながら、前方を歩く執事に聞こえないようにラディスに耳打ちをする。
彼の言い分は嫌味でもなんでもなく、客観的事実である。
かつて王族を生み出した土地でもあり、金をもたらす土地であるギレンは、かつてフェアリス王国が建国されるまでは首都も同然であった。だからこそ始祖王の弟が治め、自治に騎士を有することを許され、城を持つ。
だが金鉱は掘り尽くされ、ギレンを有するアルシュ家はここ数十年は衰退の一途。金銭的にも苦しいはずだ。
だが古いとはいえ城。その維持だけでも相当の負担であるはずが、入ってみれば内装は細かな部分にまで手が行き届き、ラディスの足元には真新しい絨毯が途切れなく敷かれている。
ラディスが足を止めた先にある大きな扉は、よく磨かれて手垢ひとつない。それを執事が開けると、そこは晩餐の支度が調った広間だ。
伝統に倣った長いテーブルには、光沢のある白い布がかかり、美しいカトラリーが並ぶ。ラディスとシュベレノア、そして側近として同席することになったハルムート、三つの席が用意されているようだった。
調度品は煌びやかで、天井からは豪華なシャンデリアがぶら下がる。深夜に近い時間にもかかわらず、灯された室内は時刻を忘れさせてくれるほどに明るい。
その部屋でラディスたちを待ち構えていたのは、侍女を二人従えたシュベレノアだ。
ギレンに到着してまださほど時間が経っていないのにもかかわらず、身支度をしっかりと整えている。白地に金糸で刺繍が入るドレスに身を包み、背筋を伸ばして凜と立つ。
淑女と言うよりも、性別が違えば領主のそれだ。
「お待ちしておりました殿下。お疲れでしょう、どうぞお食事を」
そう言いながら侍女に目配せをするシュベレノア。
待ち構えていたのだろう給仕が入ってきたところで、ラディスは片手を上げる。
「その必要はない、下げさせてくれ」
ラディスの冷たい声が、広間に響いた。
 




