第二十三話 リヴァルタの異変
殿下がアルシュ領都ギレンに向けて出発した日の深夜。
満点の星が瞬く谷底で、漆黒の森と切り立つ岩壁に、揺れる光が現れるのを私は待ち続けた。しんしんと冷えていく身体を擦りながら、何度葉擦れの音のする方向に目を凝らしただろうか。
けれどもそれは時折り谷を吹き抜ける風であるか、虫が撥ねる音、小さな小さな小動物たちの気配だった。
そうして待ち続けてどれほどの時間が経っただろう。
それでも諦めきれずに、宿舎の庭先に立ち続けていると。
「コレット、もうそろそろ戻ろう」
ダンちゃんが後ろから声をかけてくる。
「もう少しだけ……ダンちゃんは中で待っていて?」
「駄目だ、このままでは風邪をひく」
きっぱりと言い切るダンちゃんの声は、言葉とは裏腹に優しい。
この夜、リュシアンは来なかった。
私の提案を言い出せなかったのだろうか。それとも、子供たちを預けるには、信用が足りないと判断してのことだろうか。
いいや、子供たちをダシにして、邪魔をしようとしていると思われたのかもしれない。子供たちを危険な場所に置くのは心配なのは嘘じゃない。でもそれだけじゃないのも、本当だから……
私は肩を落としながら、踵を返す。
宿泊所は、今や谷に唯一明かりが灯る場所だ。渓谷の岩壁に無数にのびる坑道のどこかに居る彼らには、容易く監視できるだろう。ここが標的にならないようにと、近衛はレスターを含めて近寄らないことになった。
解放軍に居るリュシアンに、私たちから接触する方法はないのだ。
「そう肩を落とすな、コレット。まだ時間はある」
「……うん、そうだね。そうだと、いいな」
私はもう一度だけ振り返り、真っ暗な森と星を目にしてから、宿泊所に戻ったのだった。
そうして失意のなかで開けた朝、私はダンちゃんとイオニアスさんとともに、いつも通りにリヴァルタ橋の会計資料室へ向かう。
ロゼの寺院から出ている最初の馬車が到着したとはいえ、まだ早朝。誰もいないと思っていた資料室には、既にバルナ卿が部下とともに到着していた。
「おはようございます、随分早いですね……」
そう声をかけると、バルナ卿の手にあったのは私とイオニアスさんでまとめた会計資料だった。
説明はまだだが、不正が疑われることと、搬入された資材が会計資料と照らし合わせて不足がある場合、かなりの金額が使途不明となっている件だけは伝えてある。
「昨日の調査結果を精査するまでもなく、結果は出ている。立て続く崩落が、その証拠」
まだ早い時間なために、ガレー室長の部下である会計士たちは揃っていない。部屋の鍵を開けた者も、所用で別室に居るらしい。
だが用心をして、私たちはバルナ卿を中心に集まると、彼は抜き出した資材帳簿の頁を指差して言った。
「三年前の補修工事の搬入資材の量が少なすぎる。王都にある資料では、基礎部分を補強する計画だったはずだが……」
「計画通りに補強されていないので、崩れたということですか?」
「それが一番考えられる原因だろう。他には不正は見つかったのですか?」
逆に訊ねられたのは、ここ半年の会計帳簿のことだった。
まとめた中には、ガレー室長が就任してからの不正分について洗い出してあるものだが、バタバタして分けておくのを忘れていた。
「あ、それについては保留で大丈夫です、先日その不正をした人間をこちらに引き入れたので……」
驚いたような顔をしたバルナ卿が、私とイオニアスさんを見比べている。それもそうだろう、もし不具合があるようならば今後の事業計画の見直しに、とてつもなく影響を及ぼすのだから。
そこへ助け船を出すかのように、イオニアスさんが「殿下も承知ですのでご心配なく」と告げてくれる。
どこか納得がいかないという顔に見えるものの、バルナ卿は帳簿を私に戻して言った。
「とにかく、今は責任者であるロレンソンが殿下とともにギレンに行っている以上、今はまず調べ尽くすまで。今日は昨日の場所で地下に入り、その後、残る二つの橋脚基礎と周辺の地盤も調査し、設計図と照らし合わせるつもりです」
「分かりました、じゃあ記録係として私も……」
「いいえ、今日はイオニアスのみ連れて行きます」
……え?
はっきりと断られてしまい、昨日のうちに何かとんでもない失態をしたかしらと思い巡らすのだが、どうやらそうではないらしい。
「今日の調査は例の地下と、橋の構造部から続く岩壁内部に残された坑道への通気口などを調べて回るつもりです。長年放置されているだろう場所ですので、女性には不向きです」
そんなこと平気なのに、そう言い募ろうとしたのだが。
「今日はまだ護衛になりそうな近衛が到着しないようですし、そちらの護衛官の負担を下げるには丁度良いでしょう」
そう付け加えられる。そうなの? とダンちゃんを振り向くと、ダンちゃんは黙ったまま頷く。
そうなったら私は引くしかなくて、結局私とダンちゃんの二人が資料室に残り、バルナ卿と助手たち、そしてイオニアスさんは早速調査に向かったのだった。
残された私たちは、しばらく使わない帳簿を片付けることにしたのだが……
「おかしいな……」
しばらくもしない内に、ダンちゃんが呟いて、窓の方に歩いて行き外を覗く。どうしたのかと私もそれに倣うのだが、窓から臨む景色はいつものようにのどかで静かだ。
……静か、だよね。
そしてようやく、ダンちゃんの言いたいことに気がついた。
「誰も、いない……なんで?」
「資料室付きの会計士たちも、鍵を開けてから姿を見せていない、おかしい」
ダンちゃんは橋の下を覗き込んだり、遠くに目を凝らしたりしている。
「近衛は? 周囲を警戒して巡回させているってレスターが……」
そう言いかけたところでダンちゃんが急にこちらを振り向く。そして扉を凝視しながら、私を側に引き寄せた。
「誰か来る」
「え……?」
するとすぐに資料室の扉が開き、レスターが入ってきた。しかも息を切らしながら。
「姉さん、良かった無事で……」
レスターのただならぬ様子に、やはり何かあったのだと悟る。
「何があった?」
ダンちゃんの問いに、レスターは乱れた息を整えながら、ここに来るまでの詳細を語る。 リヴァルタ橋が異様に静かなのは、工事の作業員たちが最上部の街道に集まっているからだという。
「何か、集まりがあったのかしら、聞いていないけれど」
「ああ僕たちも聞いていない、だが輸送馬車に乗って来た者たちが皆、街道から動かない。作業に入るよう促しても上の空で、暴動でも起きないかと近衛で監視中だ。だが調べてみたら、彼らの異常に気づく前に数人、こちらに降りてきているのが分かった、もしかしてここに向かったのではと……」
いったい、何が起きているというのだろう。
「こちらには、資料室の鍵を開けに一人が来たくらいだ。それもすぐに用事があるとかで退室し、いつも通りに仕事をしに会計士たちが来るかと思っていたが、誰も来てはいない」
「そうですか……」
「ねえレスター、作業員たちの様子がおかしいって、どんな風に?」
「見た目に変化はないけれどこちらの話しかけに、反応は鈍いし、返答もどこか上の空で……手がかりになるかは分からないけれど、何人かはこれを持っていた」
レスターが握りしめていた手を開くと、そこにあったのは先日空から舞ってきた紙切れの一つだった。小さく書かれた文字はもう掠れてしまっていたが、解放軍と読める。
「どうして、これを……確か、殿下の指示で回収されたはずよね? 小さいから取りこぼしがあってもおかしくはないけれど」
「ああ、保管されてあったはずなんだ。だがここに来る前に、ロレンソン男爵の執務室に寄って確認したが、見当たらない」
何かが、起きている。
昨日、私たちの行動が筒抜けだったことから、作業員たちの中にはシュベレノア様に従う者がいるのだと実感したばかりだ。
けれども、もし……それが一部の人間ではなかったとしたら。
ゾクリと、背筋に寒気が走る。
「レスター、設計士のバルナ卿たちとイオニアスさんが、第二橋橋の調査に向かっているの。呼び戻した方がいいかな……」
「そうだね、守るのならば一カ所に居てくれた方が僕たちも人数が足りて……」
レスターが言葉を切ると同時に、ダンちゃんが私を庇うように背に隠す。
そして走る足音と勢いよく扉が開く音が重なる。
「ブライス卿、作業員たちが一斉に動き始めた!」
近衛兵が二人、慌てた様子でレスターを呼ぶ。
そしてとんでもない異変を告げたのだった。
「ようやく通常作業に入るかと思って見守っていたら、ツルハシやスコップ、斧などで武装し始めた。口々に解放軍を潰せ、殺せとうわごとのように繰り返している、どうしたらいい?!」
「なんだって? どうして急に……先導者は?」
駆けつけた近衛たちは、首を横に振る。
「いない」
「見つけられないのなら、疑わしい者を拘束するしかない、言い出したのは誰だ、あれだけの人数の近衛で監視をしていたのだから、手がかり一つないはずないだろう!」
「だから、見ていたが、特定することが出来なかったのだ!」
そう激高しながらも、彼らの顔は青ざめている。とても誤魔化しているとは思えない。
それはレスターも同じなのだろう。
「どういう、ことだ? 見たままを教えてくれ」
「……まるで我々には聞こえない声に従うように、一斉にそれは始まった。どこかから伝播したのではなく、あの人数が、一斉に動き、呟き始めた。まるで我々には聞こえない声が、彼らに届いているかのごとく……夢でも見ているのかと」
そんなことが可能なのだろうか。
作業が中断しているとはいえ、予定ではロゼからの輸送馬車は四台だったはず。作業人たちは少なくとも三十人以上が来ている計算になる。
これが例の宝冠の効果だとしたら、とんでもないことだ。この人数を、魅了しているとはいえ本人不在で操れるということになる。
「それで、作業人たちはどこに向かっている? 橋の中に留まっているのか?」
「ええ、ですが一部の者たちは、昇降機や階段を使って下へ。何をするのか予測がつきません、指示をお願いします」
難しい表情をして話し合うレスターたち。異常な行動をし始めているとはいえ、彼らはまだ何も罪を犯したわけではない。武器といっても、常日頃作業に使っている道具。
レスターたち近衛は、難しい判断を迫られていた。
今ここに殿下が居たのならば、どういう判断をしただろう。
私はそこまで考えて、ハッとする。
「ねえ、レスター。殿下からの連絡は? ギレンに到着したエルさんが夜に出発して、今朝には到着する予定だったよね?」
「いや、まだだ」
私は嫌な予感に襲われて、ダンちゃんを見上げる。
「状況的に見ても、偶然ではないだろうな」
「殿下は……? 殿下は無事なのかな、ダンちゃん」
悪い想像が一気に胸に押し寄せてきて、声が震える。
そんな私に、ダンちゃんが膝を折って視線を合わせて言う。「分からない」と。
「だがコレット、その不安は殿下も抱えているだろう。だからコレットは、自分の身を第一に考えて行動しなくてはならない。そうでなければ、殿下は何もできなくなる、もちろん僕たちも」
そう言ってダンちゃんは、レスターたちの方を振り向く。
つられて私も視線を向けると、レスターと近衛兵たちも頷いてくれた。
「……そうだね、うん、分かった」
「姉さん、もし今起きている事があちらの思惑ならば、目的は殿下でもあると思う、安否については心配いらない。だから姉さんはここで待っていて」
私が頷くと、レスターはいつものような優しくて、蕩けるような笑顔を見せた。
そしてその笑顔をすっと消すと、傍にいた近衛に指示を出す。
「万が一暴動が起きると、無傷での制圧は難しくなる。リヴァルタ渓谷橋の出口を封鎖し、一時的に作業人を閉じ込める。その他は橋の下に向かった者たちを拘束し、バルナ卿たちを保護する。それが済み次第、ギレンからこちらに向かったはずの護衛官の捜索に出る」
そうしてレスターはダンちゃんにくれぐれも私を頼むと言い残し、近衛たちと人々の制圧に向かったのだった。
 




