第二十話 初手
2025.2改稿
「……こちらは、鳩など不浄のものがおりますので、どうぞ御身のためにご退室を願います」
ダンちゃんが、私の前に立ちはだかったままそう告げた。
けれども相手はかまわず進んで来るのが分かった。なぜならダンちゃんの陰に隠れたその足元に、スカートの裾の赤いレースが揺れながら現れたから。
「こそこそと隠れてないで、前に出てお嬢様の問いに答えなさい」
先に聞こえたのとは違う、甲高い声。
私は事を荒立てたくなくて、ダンちゃんの腕を引いて、首を振るダンちゃんに逆らって彼の前に出る。
そしてあくまでも公務の仕事として居ることを示すために、右手を胸にあてて頭を下げた。
「会計局本院より、会計補佐として王子殿下の視察に同行しております、コレット=レイビィと申します」
「……私財会計士ではないと?」
私をじっと観察するように見るのは、絶世の美女と言っても過言ではない女性だった。
色白でありながら、髪は濃いブラウンでゆるやかに巻く長い髪は、艶があって華やかだ。真っ直ぐな眉とアッシュグリーンの瞳は、気品と芯の強さを感じさせ、その美貌だけではない存在感を与える。すらりと伸びる鼻筋と、薄紅色の唇、健康そうな頬の赤み、きゅっと上向きの口角など、どこから見ても隙が無い。
その彼女の後ろには、背が高い侍女らしき女性が一人、控えていた。
「普段はそうですが、今は違います」
私の言葉を聞き、目の前の女性は手にしていた扇を開き、口元を隠してから笑ったようだ。
だが後ろの侍女はあからさまに私を侮蔑するかのように見て、甲高い声を発する。
「口の利き方に注意なさい! この方を誰だと思っているのですか」
「いいのよ、仕方が無いわ」
「しかしお嬢様……!」
苛立つ侍女をなだめ、彼女は私にさらに一歩近づく。
「わたくしは、シュベレノア=アルシュ。おまえに会いたいと願ったのですが、ラディス様がお許しにならなかった。何度もお願いしたのですよ。だから仕方なく、わたくしが会いに来てあげたの」
口元を隠したまま、私を興味深そうに眺める目は、確かに細められている。でも笑っているのかは分からない。
「わざわざご足労いただき申し訳ありません。ですが私のような者が、シュベレノア様のお役に立つことがありますでしょうか」
「わたくしは常々、おまえに同情をしていたのよ?」
「同情、ですか?」
「ええ、おまえは知っていて? ラディス様が珍しく女性の会計士を雇ったからといって、それを恋人だの愛人だのと噂が出回っていることを」
「……はあ、まあ一応」
気の抜けた返事をしたせいか、貫禄ある侍女からキッと睨まれてしまい、背筋を伸ばす。
「まさか、平民でありながらラディス様の寵愛を得たと、本気にしてはいないでしょうね?」
「……もちろん、噂が出ていることは承知しています。殿下から、ちょっとした都合のためにすぐにもみ消すことをしない旨も伝えられて、了承しておりました」
嘘ではない。だって、そもそも噂をわざと流して様子見をするという提案のもと、協力したのだから。
偽りがある意味、事実になったのはその後のことだし。
そうだよね、とダンちゃんを見上げると、目を逸らされる。……なんで?
「そう、おまえは案外は聡明な女性のようね。ならばわたくしの忠告を理解できるのではないかしら」
「忠告、でございますか」
「ええ。人はね、その立場に相応しい場所があるのです。少なくとも、おまえのような者が側に居ることで、ラディス様に得るものは何ひとつない」
相応しい場所。平民ごときが、殿下の側にいるなと言いたいのだろうか。それも、恋人と噂されるほどの近くなど、もってのほか。殿下の妃になろうと目論む彼女からしたら、目障り以外の何者でもないだろう。
「それは、殿下が判断なさることではないでしょうか。私は雇われて仕事を任されているのです。おっしゃる通り、私の立場では押しかけて居座ることなど不可能ですし、ましてや殿下のお気持ちを代弁する資格もなければ、する気もございません」
慇懃無礼に、あなたの事だと告げてみると、扇がピシャリと音を立てて閉じられた。
凜とすました顔は崩れることはなかったが、かえってそれが怖い。これがいわゆる女の戦いというやつか。喧嘩を買ってはみたものの、内心ではビビりまくっている。
けれども、逃げてはいけないと思った。
「買いかぶりすぎたようね、臆面もせず居座るつもりとは。ラディス様も部下に恵まれずお可哀想に……だからこそ、ラディス様が至らぬ部分をわたくしが目配りせねばなりませんわね」
「その通りでございます、お嬢様」
私が苦笑いを浮かべていると、隣で仁王立ちしているダンちゃんの方から不穏な空気が伝わってくる。そこそこ一緒にいるせいか、気配だけで彼が殺気立ち始めているのが察せられる。
ダンちゃんは殿下を殊の外、敬愛しているのだ。
部下に恵まれないと言われたら、彼は自分の事だと感じてしまうだろうし、そして何より殿下が至らぬと評されてしまえば、憤るに違いない。
だから私は言わねばならない、彼の代わりに。
「お言葉ですがシュベレノア様、殿下の部下は一人残らず優秀ですよ。私も含めて、配下の者にあれこれと口を出すのは、殿下を蔑ろにするのと同じです」
言葉を失うといった感じだろうか、驚いたように私を見て、隠す必要がないと判じたのか侮蔑の表情を浮かべた。
「それに、シュベレノア様の配下は、全て尊い身分の者だけですか? そちらの侍女の方はどうでしょう」
「なっ……」
慌てたのは侍女の方だった。顔を赤らめ、私を更にきつく睨みつける。堂々と反撃するために名乗らないのは、図星だったからだろう。
「行く末は国を背負う王子殿下と、侯爵家とはいえ一貴族のわたくしとは比べるべくもありません。私財の管理といえば、妃となる者が本来は任される仕事。それだけでも畏れ多いところを、臆面も無く居座るその性根のことを言っているのです」
「では私に、どうしろとおっしゃりたいのですか」
「言わずとも知れたこと。自ら、その職を退くのが最良」
「……職を、ですか」
「ええ、近く私財管理のために人を雇う必要がなくなるのだから、おまえの退職が早まっても問題ないのではなくて?」
その言葉を受けて、私は今思い出したみたいな顔をしてこう答えた。
「ああ、そうでした。忘れておりましたが、殿下は既に他国の王族へ婚約の打診をされていましたよね。私は最初から殿下にお相手が出来るまでの契約ですので、どうぞご安心ください」
「そ、そう……それなら」
「だからこそ、納税のための会計書類を作成している所でした! これをしっかり作らねば王族とて罪に問われます。殿下の婚約者が誰であろうとも、膨大な私財会計をいきなり任されたとしたら、困ると思うんですよね。せめて四ヶ月後の期日までは、責任を持って作成するつもりです……そういえばシュベレノア様は、お相手の方をご存知ですか? 会計には明るい方だといいのですが」
私の剣幕に、あっけに取られていた侍女とは違い、シュベレノア様は唇を小さく震わせている。
何も考えていなさそうな侍女とは違い、妃は貴女様では無いはずのその人を知っているか? そう嫌味を言われたことには気づいたらしい。
だが彼女は再び扇を開いて、口元を隠すと、たおやかに微笑んだ。
「いいでしょう、哀れなおまえを慰め、傷つかないうちに去ることを勧めてあげたのですが、そこまで言うのならば、ここに居るといい。そうすれば明後日……いえ明日にでも真っ先に知ることになるでしょう、誰が王子妃に選ばれるのかを」
それは殿下を魅了するという宣言なのだろうか。
だが私が何か言い返す前に、幾人もの駆け寄る足音が聞こえたので、狭い通路の方を見ると。
「シュベリー、こんな所に居たのか」
殿下が慌てた様子で入って来たのだった。
どうやら化粧を直すと告げたまま、彼女はここまで来たらしい。きっと目的は私なのだろう、でもどうやってこの場所を知ったのだろうか?
「ラディス様、わたくしを探してくださったのですか?」
「ああ、使用人たちが探していた。そろそろ発たねば到着が深夜になる、支度を急いでもらいたい」
シュベレノア様は扇を閉じて、極上の笑みを殿下に向けた。そして自然に身を寄せて、殿下の腕に手を添える。
「わざわざ領都までお越しいただけるなんて、お父様がどれほどお喜びになられるか」
「あくまでも事業についての確認と、手続きのためだ。病床に伏している侯爵の負担が心配だが」
「それはわたくしも出来るかぎりの配慮をしようと思っております……しかしあの会計士を連れていかずとも、事が足りると思いますが」
「ガレーのことか? そういう訳にはいかないと説明し、了承したはずだが」
不服そうなのは、相手がガレー室長だからかしら。
「……では参りましょうかラディス様、道が悪いので支えていただけますかしら」
シュベレノア様はそう言って殿下の腕を取り、既に私は眼中にない様子。だが今はとにかく、素直に立ち去ってくれることを願うばかりだ。
殿下の方も断る理由もなくただ手を貸すだけで、それ以外に彼女へ触れる様子はない。それでもシュベレノア様は勝ち誇ったかのように、ちらりと私を振り返ってから去っていった。
細い通路には彼女が連れて来ていた領兵と使用人がぞろぞろと待っていて、殿下とシュベレノア様、それから殿下の護衛二人を見守っていた。
そうしてようやく静かになった倉庫で、私とダンちゃんはようやくほっと息をつく。
「なんだか、殿下に同情したくなっちゃった。あの人と一緒に領都に向かうわけだから、大変よね。綺麗な人なんだけど……」
「コレットは心配じゃないような口ぶりだな」
「うーん、もちろん少しは心配よ……少しだけ喧嘩買っちゃったし」
するとダンちゃんが笑った。
「コレットは度胸あるな。今日ほどそう思った日はない」
私も笑いながら、でも首を横に振る。
「昨日、殿下に直接会ってなかったらここまであれこれ言わなかったと思う。関係ないですよって顔をして、嘘をついたりしたかも」
「ああ……そういえば、嘘はついてなかったな」
「ギリギリね」
再び笑い合って、私たちは会計資料室に向かって歩き出す。
「ところで、殿下たちの目を盗んでここまで来るなんて、ずいぶん用意周到だったわね。私たちがここに来たのは、予定にないことだったはずなのに」
「ああ……監視されていたのだろう。例の坑道に避難している者たち以外は、ほぼ令嬢の術中だろう。そう思えば、すれ違う人間全てが監視と思った方が良い」
ダンちゃんの怖い言葉に、私はそっと周囲を見回してしまう。
崩落事故以来、修復作業が中断しているとはいえ、作業に携わる者たちは大勢出入りしている。その人々の多くが、シュベレノア様の意向を汲んで動くとしたら……。
私にとっての味方は、殿下が連れてきた護衛と近衛だけ。ううん、近衛には一度とはいえ魅了にかかってしまった者がいる。レスターが殿下の指示で正気に戻すよう隔離したと言っていたけれども、無理はさせられない。
これまで以上に、慎重に動かねばならないことを理解して、自然と私たちは言葉が少なくなる。
後日、この時の嫌な予感が正しかったことを、私たちは後悔をもって知るのだった。




