第十七話 二度目の「嫌い」
2025.2改稿
──なんと醜く汚らわしいのか。
その言葉に、お母様からの手紙の言葉が重なった。
貴族の中の貴族。
「配下に加えるには足らぬと、そう受け取られたのだろう。私は……魅了する価値もないのだと」
いつしか、会計資料室内がしんと静まりかえっていた。
ガレー室長の痛い心の内は、私にもよく分かる。誰もが、どこかしら劣等感を抱える部分を持っているのが普通で、それは生まれ持った地位にかかわらず、初対面で侮蔑されていいものじゃない。
確かに、ガレー室長は痩せ細っていて、おかっぱにも見える髪型の頂点部分は薄く寂しげで、目はぎょろぎょろとクマがあって、三白眼どころかたまに四白眼で怒り散らすけれども。結婚歴もなく、四十台半ばで寒い冗談で若い女性に声をかける癖もあるし、部下を見下しているくせに仕事を丸投げで楽をしようとするけれども、だ。
「じゃあそれが、室長が侯爵様と契約を交わした理由ですか?」
「そうだな……そうかもしれん。少し、頭に血が上っていたのもあってだな」
まあ罪に手を染めるのだから、まともだったらいくらガレー室長でも躊躇したろうに。
約束の石で交わす契約は、心に作用する。納得してない契約に、その拘束力はない。
ということは、やはり侯爵様が室長と交わした契約内容は、シュベレノア様を支持するものではないということだ。
私は殿下の方へ向くと、彼は小さく頷く。
「ガレー、次にアルシュ侯爵のサインを求める機会は?」
「あ、はい……三日後に、新しい取引先が石材を大量に搬入する予定になっていますので、その受け取りと支払いのために、明日の便でギレンに送る予定でしたが」
「分かった。その書類は私が直接、アルシュ侯爵に手渡して安否を確認しよう」
「はい……お願いいたします、殿下」
ほっとしたような顔のガレー室長。それは殿下に信用してもらったことに対するものなのか、それともシュベレノア様への意趣返しがなされることへのものか、今はまだ分からない。
しかしこれで、ガレー室長は私たちの協力者となった。その後、殿下は手早く今後の行動を指示していく。
リヴァルタに残るのは、私とイオニアスさん、護衛にダンちゃんだ。レスターは先発隊の近衛を率いて渓谷橋周辺の見回りをして、このまま無闇にアルシュ解放軍と遭遇して戦闘にならないよう、警戒をすることになった。余所から来た者も含まれるとはいえ、構成しているのは元リヴァルタ村の者。しかもクラウスの町からの援助があるのなら、下手に王家と敵対した実績を作らないようにさせたいのが本音だ。
殿下は明日、後発の視察団の到着を待ってから、シュベレノア様を連れてギレンへ向かうことになる。令嬢が居なくなればこちらも調査がしやすくなるし、運が良ければリュシアンとも接触できるかもしれない。
そうして作戦会議を終わらせた殿下は、ロゼの宿泊所に戻る時間が迫る。
殿下たちにロゼへ送ってもらえることになったガレー室長は、ハルさんたちと先に部屋を出ていく。レスターは本当ならばリヴァルタ村の宿泊所に泊まる予定だったけれど、明日の準備のためにロゼに向かうことになった。ダンちゃんとイオニアスさんも、会計資料室を出て外で待っていてくれる。
そうして部屋に残ったのは、私と殿下だけで。
ランプ一つになって少し薄暗い部屋で、私は殿下を見上げる。炎の光に照らされて、殿下の赤い髪がいつもより赤みを増している。
「コレット、明日到着する使節団からの早馬で、追加の手紙が届いた。例の、毒を盛った実行犯についてだ」
「ああ……エルさんが捕まえた人ですか?」
殿下が毒入りのスープを飲んで倒れたその日には、逃げた実行犯をエルさんが捕まえていた。でもその人は黙秘を貫いていて、きつい取り調べにも屈しなかったと聞いている。その後に変化があったのだろうか。
「その者は、アルシュ領都ギレンの出身者だった。しかも、侯爵家の使用人だった経歴がある」
「それって、つまり……」
「ああ、シュベレノアの信奉者だろうな。その証拠に、その者は命令されたのではないと頑なだったそうだ。これを二日前に聞かされたのなら、白々しいと一笑に付していたろう」
「でしょうね、私もそう思います」
だけど、シュベレノア様の周りを囲む人たちが、本当に魅了されているのを知ってしまったら、笑い事ではなくなる。
まだちゃんと会ったこともない人を、どういう評価を与えるかなんて考えたことはなかった。けれどもこうして知らされていく度に、強くなる気持ちがある。
「私は……凄く、嫌いです」
言いたくはないけれど、拒絶感だけが募る。
殿下もそうじゃないですか? そう思ったのに、何故か殿下は痛みを堪えるかのように眉を寄せていて。
もしかして殿下、本当は魅了されているとか言わないですよね?
「二度目の「嫌い」は、さすがに堪える」
なんで殿下が嫌いって話しになるんですか? 噛み合わない言葉に、しばし首をかしげる。
そして誰がとも言わずただ「嫌い」という言葉だけを口にしていたことに気づいて、殿下の言わんとするところをようやく理解する。
「ち、違います、殿下じゃなくって、シュベレノア様が……その行いが私は好きではないって意味で言ったんです!」
「俺ではなく?」
「当たり前です! あ、あの晩はですね、その……ちょと八つ当たりで、本気にしないでください!」
目の前で、ほっとしたように微笑む殿下。
胸の奥が掴まれたみたいになった。と同時に、申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんなさい、あの時は本気で言ったわけじゃないんです。ただ、私だって殿下のために役立ちたかったのに、のけ者にされたような気がして……」
「分かっている。俺も、少々浮き足立っていた」
「……え?」
「長年探してようやく手に入れたものを、逃がさぬようにどう守るかばかり考えていた」
「あのですね、そうやって私が逃げるのを前提に話を進めるのはやめてください。それにベルゼに行かせようとしていたのは殿下でしょう?」
「継母を置いておまえがどこに行くと?」
あ、あはは、反論の余地がない。
「だがいつまでも恐れるのは止めにした。少なくとも、お前が私の役に立ちたいと言ってくれている内は」
いつもの調子を取り戻したかのように、居丈高に私を見下ろす殿下。
負けないように、私もそれに応えるように悪い笑みを浮かべて言ってやる。
「殿下こそ過信して、シュベレノア様にメロメロにならないでくださいね」
「メロ……それはない」
「どうだか、愛称で呼んでいたくせに」
「あれは、お前があんな所にいきなり現れるから、シュベレノアの気を引くために仕方なくだ」
不満そうな殿下。だけど、ギレンに侯爵様の安否を確かめに行くために、今まで以上に彼女に近づく必要があるのだろう。注意してもしきれないくらいだ。だって彼女は……。
私は疑問に思っていたことをぶつける。
「魅了の選別は、誰がしているんですか? 魅了される側? それともシュベレノア様ですか?」
私の問いに、殿下がハッとする。
そうなのだ。今までは、魅了される側に原因があるとばかり考えていた。もちろん、殿下が異常に陥っていないので、魅了の力は完璧でなく防げる要因があることは間違いない。でも……分からないことだらけ。
「そうか……そもそも最初に選んでいる、その可能性もあるな」
「私も、ガレー室長の言葉がなかったら、思いつきもしなかったです」
「つまり、ガレーは魅了したくない相手だと」
私は手を上げて、みなまで言ってやるなと首を横に振る。
「まだ可能性ですよ、可哀想なので肯定しないであげてください。でもまあ、シュベレノア様が最初に相手を選ぶ上での、あの室長への言葉だとしたら……まさにお母様の言う通りの人物なのでは」
「ああ、手紙が届いていたな。何が書かれていた?」
殿下に手紙を渡すと、「いいのか?」と聞いてくるので、困ることは書いてないと答える。そうしてざっと手紙に目を通した殿下も、お母様からシュベレノア様への印象には、どこか納得した様子だ。
お母様にとっての最も貴族らしい「貴族」とは、誰か。お母様を最上の華へと育て、駒として利用することしか考えなかった人物だ。それを考えただけで、お母様の言いたい「貴族」像がどういうものなのかが分かる。
殿下は読み終えた手紙を返しながら、ため息をつく。
「そうだな、このままにしてはおけない。だがあの首飾りになっている石の扱いには、慎重を期さねばならないだろう。宝冠について問い合わせたベルゼ王国から、詳細について返答があるまではシュベレノアを刺激できない。魅了されて自ら加担している者たちとはいえ、人質も同然だ」
「そうですよね……あれが約束の石の効果だとしたら、無理なことができませんものね」
約束の石の契約を破ると、精神に負担がかかり場合によっては心が壊れてしまいかねない。それが互いに契約の認識がないままに、契約が結ばれる事例など聞いたことがないが、物が物だけに規格外ということもありえる。殿下がそう付け加えて、私はゾッとする。
「もしシュベレノア様が、周囲の者たちの異常な状態を理解した上で、あえてそれらに囲まれて過ごしているのなら……」
心を操られたような側仕えたちを見て、何とも思わないのだとしたら。それは家の権力と地位を高めるために、娘を何も感じない物……駒としてでしか考えなかったブライス伯爵と、どこが違うのか。
「そして、魅了の選別をできているのなら、私は本当に、彼女が嫌いです」
シュベレノア様が、ガレー室長を選別して魅了しなかったのだとしたら、この一連の異変は彼女の望んだことと受け取るしかない。
そして何より譲れない事がある。
殿下の妃を望むあまり、私の命を狙うのは分かる……いや、殺されるのは勘弁だけどもっ。排除したい気持ちが募るのはまだ理屈が通る。だけど、そのためにいくら死なないからって、殿下も巻き込むことを許容できるのだろうか。
私は揺れる炎に照らされる殿下を、とても近い距離から見上げる。
この人を傷つけても仕方ないと、そう思える彼女に、私はこの場所を一歩たりとも譲りたくない。
足元も見えなくなりそうな部屋の中、私は殿下に一歩、近づく。
そして手を伸ばして、袖を掴む。
「コレット?」
「暗いので、ちょっと屈んでください」
私は、眉間に皺を寄せていたと思う。
でもそうでしょう? 嫌いな相手に、好きな人を取られることを思ったら、誰だって不機嫌になる。
近づいてくる殿下が、また何を企んでいるのかと怪訝な顔だ。
でもいっそ、私たちらしいと思うんだよね。こういう初めてなら。
「逃げられたくなかったら、離れていても私だけを見ていてくださいね……ラディス」
私はぎゅっと袖を引っ張ってから、顔を上げて目を見開いたままの彼に唇を寄せた。
合わせた唇から、短く息が漏れる。
驚かせることに成功したと、満足して笑いながら離れたつもりが、追ってくる唇に再び捕まった。
いつも逃げるなって言うけれど、結局私は、あなたから逃げ切れたことがないって、知っているのだろうか。
 




