第七話 派閥
王子殿下の私設会計士として働き始めて、一週間が過ぎた。
最初こそどうなることかと思ったけれども、私がやることはただ出納の記録とこれまで整理されてこなかった分の帳簿の書き表し。今まで特に殿下は視察などの公務がないままだったので、それらを順調にこなすことができている。
とはいえ、王族御用達の品や商会など、初めて見る項目も多く……結論から言わせてもらうと、殿下の側での作業は効率が良かった。ただ、ここは私室。当然ながらここに殿下がいる時は、彼にとってくつろぎ時間でもある。今も、私が机周辺を書類で広げるせいか、殿下はテラス先の庭のベンチに寝転がっているところだが、私は容赦なく書類を持って前に立つ。
「……今度は何だ?」
メモと帳簿を持った私が声をかけるよりも前に、目を開き起き上がってそう尋ねられた。気配に敏感なのだろうか、こういうことがこれまでも幾度かあった。
そして殿下は案外──いや、かなり働き者だ。王族なんて、煌びやかな格好で日がな一日パーティーでもしているのかと思っていたが、そうではなかった。むしろ多忙を極める。昨夜は各行政局の長たちとの会議が長引いたらしく、政務処理が深夜まで押したのだとハインド卿……ヴィンセント様が言っていた。
それでも今朝も早くから定められた政務があったため、昼を過ぎてようやく休憩を挟んでいる。
「殿下、給金配分についての基準がよく分かりません。私的外出時の護衛への上乗せ分を私財から支払われているようですが、個人差額についての基準を明確にされないと次回の支払い時に、私が困ります」
「ああ、それは同道時間と遠方への出張手当を加算している、基本給金で割って計算して……」
分からないことを聞くと、殿下は明確に分かりやすく答えてくれる。すべてを人任せ、その場しのぎでやってきた訳ではなく、本当に単純に人手不足がゆえに帳簿をつけきれなかった。そういうことらしい。
就業二日目には前任会計士を紹介してもらったが、彼を見て帳簿の乱れ方については納得した。とてもご高齢がゆえに、細かい作業など無理がきかず、退職を希望したのだそう。白い眉毛と髭が特徴の、とても気の良いおじいちゃんだった。
この前任者だけでなく、殿下の警護にあたる者たちの多くは、高齢というかベテラン揃いだった。ただでさえ人が少ないのに、若者はヴィンセント様と私くらい。どうして増やさないのかその理由をヴィンセント様に訊ねると、なんとも言えない気持ちになった。
どうやら殿下は、自分と同じくらいの年の若い男性を、側に置きたくないのだ。それはレスターが言った通り、一部王城に出仕する者たちの間で広まった、殿下の男色疑惑のせいらしい。
それってつまり巡り巡って、過去の私のせいってこと?
「殿下、そろそろ面会時間です、支度なさってください」
ヴィンセント様が、執務室の方から入ってきて殿下を促す。
「今日はトレーゼ侯爵だったな……カタリーナを連れて来てはいないだろうな?」
「さあ、そこまでは伺っていませんが、彼女の耳には既に届いているでしょうね」
殿下は少しだけ嫌そうな顔をするが、すぐに立ち上がってアデルさんを呼びつけて衣装部屋に向かう。
これ以上はまた次の機会に聞くことになるだろう。私はメモを書きながら、相変わらず場違いな自分の机に戻る。
トレーゼ侯爵というのは、殿下の一番の後ろ盾となる人物らしい。現当主のヨルク=トレーゼ侯爵は王妃様の兄で、その令嬢のカタリーナ様は殿下の従妹。トレーゼ家はこの国でも力ある高位貴族家のひとつだ。殿下と仲が良いというカタリーナ様と結婚すればいいのに、と思っていたら血が近すぎてトレーゼ家の王家乗っ取りと受け取られかねないので、それは避けたいのだそう。
高貴な身分というのは、難しいものなのね。
「コレット、トレーゼは王宮のしがらみや体面について五月蠅い、気配を消しておけよ」
それは見つかるなと言いたいのだろうか。でもそれはそもそも、私をここに置いたのは殿下じゃないですか。
「先日お願いした場所に仕事場を移してくだされば、問題はないはずですけど」
「駄目だ、近衛の詰め所に近すぎる」
実は、殿下の私財のうち、現金と貴金属は城の中に保管されている。小さな棟が金庫そのままのようになっている場所があり、殿下から城内の者への現金支払いは、そこの金庫から出される。よって私もそこの現金の管理をするわけで、いっそそこに机を置いて欲しいと訴えたのだが、即答で却下されてしまった。
「何故ですか、庶民の私にはここより落ち着けない場所なんてありませんよ。きっと効率も良くなりますって」
「おまえは金を眺めていたいだけだろう」
豪華な上着に袖を通し、アデルさんに襟を整えてもらいながら、私に呆れ顔を向ける殿下。
「そ……そんなこと、誤解です」
指摘され、頬を染める。
もちろん殿下にときめいたのではない、あの有り余る金貨とお札にデレただけである。棚に置かれた金塊とお札と硬貨がずっしりと入った袋たち。ああ、なんという幸せな光景だったことか。
「嘘をつけ、最初に連れて入った時から、目つきが異様だった」
「え、顔に出てましたか?」
そんな自覚はなかったが、札束と金塊の山を見せられたら、誰だって目の色くらい変わるのが普通じゃない?
「信用してください、お金の嘘、不正は絶対しませんから。世にも美しい景色に見惚れただけです」
「とにかく却下だ」
唇を尖らせていると、殿下には睨まれはしたが、そんな待遇にもずいぶん慣れてきた。
支度を待っているヴィンセント様が、私たちのやり取りを見て苦笑いを浮かべている……ということは、金庫棟への接近が禁じられるのは、何か別の理由がありそうだ。
私は取り付けてもらった棚に並べてある帳簿に指をかけて引っ張り出す。何かヒントがあるかもしれない。殿下の背景を知るのは、逃げおおせるためには必要なことだ。
すっとそれらに目を通していると、いつの間にか殿下は執務室の向こう、公的な応接室へと向かっていったらしい。
集中すると、つい周りが見えなくなるのよね。数字を追いかけていると特に。いつものように、呆れ顔で殿下は出て行ったに違いない。
「これだけじゃ、確定要素がないわね」
殿下の私財の流れと、王家の公的行事や記念行事と照らし合わせたい。そういえば、殿下の執務室の書棚に、公共事業や殿下の公務記録があったような。
私はそろそろと忍び足で、殿下の私室から繋がる扉に近づく。そして聞き耳をたててみる。がしかし、何も聞こえない。
じっと息を潜めて伺っていると……突如扉が開いて、私は支えを失いよろめく。
「なにをしているんですか、コレット?」
「ヴィンセント様……ええと、これはその」
笑って誤魔化そうとしたが、部屋の奥から聞こえる声に、注意を引きつけられた。
──信用できる者なのですか?
高い声は、女性のものだろう。続く言葉を聞き取ろうとしたが、ヴィンセント様が素早く扉を閉めて遮ってしまった。
「なにか、聞きたいことでもあった?」
「え、ああ、はい。殿下の公務日誌を見せてもらいたくて……執務室にあった気がしたので、さっと取りに行けば見つからないかと」
ヴィンセント様は、チラリと扉の向こうに視線と意識を向けた。
それから私の肩を軽く掴み、ぐるりと反対向きにさせられる。
「それが本当に必要なら、あとで取ってきてあげよう。でも、まずは私と話をしようか?」
あ、ちょっとだけ不味い展開ですか、これ?
好奇心は猫を殺す……?
ドキドキしながら仕事机まで戻ると、椅子に座らされる。その正面に椅子を運んできて、ヴィンセント様も座った。
「何が、気になったのかな?」
「え、ええと……べつに、たいしたことでは」
「殿下はきみが気に入っているようだけど、それは悪くないと思っている。人を側に置きたがらないままでは、殿下にとってはよくないし。でももしきみが軽はずみなことをして殿下の評判を傷つけることがあれば……」
私は慌てて手をぶんぶん振る。
「そんなつもりは、ありません。ただ……」
「ただ?」
「近衛を避ける理由が、なにかあるのかと。だって近衛といえば、王族の護衛をするために存在するようなものじゃないですか」
「ああ、そのことか」
ヴィンセント様は小さくため息をこぼしながら、足を組み直した。その膝に置く手の薬指には、エメラルドがついたリングがあった。
「平民であるコレットにとって、想像しづらい話かもしれないが、貴族には派閥というものがあってね。殿下は武よりも文に秀でてらっしゃる。紛争がしばらく起きていないこの国で、政には知略と先見の明が重要。それを充分承知したうえで、殿下は日々国のために身を粉にして勤めておられる。だが置き去りにされた武、つまり軍部や近衛で支持が高いのは、王弟殿下のデルサルト公爵だ」
そう言われれば、殿下の後ろ盾でもあるトレーゼ侯爵は、法務局の顧問だ。でも軍部を公爵が面倒見ているのは知っていたけど、公爵様は陛下と仲が良いはずでは。あ、でも……確か、公爵家には殿下の従兄が。
「兵の間で、殿下にあらぬ噂があるのは公爵家も承知しているはず。にも拘らず、その下種な噂を強く取り締まらないのは、長たる公爵家が殿下を蔑ろにしている現れだと私は考えます」
私は、義弟レスターの言葉を思い出し、今さらながらあれは「無いな」と思う。レスターでなくとも、他所で口にしていいことじゃない。
「そんな者たちの近くにあなたを置くのは、殿下にとってどう作用するか分かりませんので僕も反対です」
つまり、弟がその近衛騎士だとは、ますます口が裂けても言えないということで……
なんだろう、この真綿にくるまれながら退路が崩れ落ちる感じは。しかしながら私に選択肢はない、相変わらず。
「わかりました、近衛には極力関わらないよう気をつけます」
「よろしい。それでは僕も殿下も戻って来れないので、少し早いですが今日は仕事を終えてくれてかまわないよ」
ヴィンセント様は満足げに、再び執務室へ向かった。
気をつけよう、例の人捜しだけでなく、殿下の派閥争いに巻き込まれたらますます生存が危ぶまれる。
私の生存戦略は、とにかく控えめに、息を殺して生きることしかないのだろうか。
なんだか理不尽としか思えないこの状況に、願うことはただひとつ。
「誰とでもいいから、殿下がさっさと結婚してくれればすぐに辞められるのに。敵対派閥があるのならなおのこと、トレーゼ侯爵令嬢とごりっごりに足場固めるんじゃ、ダメなのかしら……」
私はそう呟きながら、手荷物をまとめて仕事部屋という名の「殿下の私室」を出たのだった。
まさかその愚痴を、思いもよらない人物に聞かれていたのも気づかずに。