第五話 守秘義務事項、ふたたび
2025.1改稿
頭から湯気が立つかのように真っ赤になって、書棚にもたれて動けなくなった私を放置したまま、殿下は皆の元に戻っていった。
言い放った言葉は、一人で無茶をしでかした私を責めるものではあったけれど、額に触れた口づけは優しいものだった。
背を向けたまま護衛たちに向けた言葉が、それをさらに証明する。
「護衛の配置は、私の側にエル、コレットの元には常にダンジェンが付くように。ハルムートは臨機応変に動けるようにしておく。それとジェスト、先に向かわせた近衛隊の責任者は?」
「若い者を中心に向かわせました。あまり精鋭を向かわせると、あちらが構えるかと思いまして。ですがちょうど良かったですね……」
ちらりと私の方を向いて、ジェストさんが微笑む。
「レスター=ブライスもそちらに向かわせていますから」
「そうか、ならば滞在中はダンジェンと交替でレスターを入れるとするか。あいつは使い物になるといいが……」
「問題はありません。彼女の言質に左右されないよう、特に彼はみっちりしごきましたから、命令違反はしないでしょう」
レスターは、憧れのジェストさんに鍛えてもらえて、さぞ嬉しかっただろう。
結局、殿下は不満を抱きつつも、私の同行を受け入れてくれたのだ。
そんな打ち合わせを離れた場所から聞きながら、私は一向に冷めない頬の熱を散らそうと、近場にあった書類の束で顔を扇ぐ。
「ヴィンセント、そちらはどうだった?」
「ええ、アルシュ領の財政が圧迫してきたのは、やはり最初の補修工事以前からでした。現侯爵に代替わりした直後でしょうか。ちょうど、先代侯爵が亡くなられて、その葬儀に膨大な経費がつぎ込まれています。ですが……」
「異例の密葬だったはずだが」
「ええ、その点はバギンズ子爵からも指摘されました。いったいどこにその資金を費やしているのかは不明……」
そんな話を聞きながら、ふと手にしていた書類が目に入る。
なんとイオニアスさんから借りた資料の一部だった。いけない、いけない、紛失したらイオニアスさんに申し訳ない。元のところに戻そうとしたのだが、違和感から手が止まる。
それは手にしたものだけでなく、一番上にある最新の資材調達のための見積もり書と、発注依頼書。それから納品書などにも感じていて……。
なんだか見ていると、むかむかとして気分が悪くなる。
紙を持ち上げて、色んな角度から見るも、なんの変哲も無い普通の会計書類。業者の納品書に、受け取ったアルシュ領の責任者のサイン、それから会計帳簿に書き写したであろう会計士のチェックの印……印?
はたと、私はそれを置いて、同じような納品書を取り出して並べる。そしてまだ見てなかった、最新の会計簿をめくり、それを見て愕然とする。
「こ、この嫌らしい癖、忘れもしない……あの人と同じ?」
気分が悪くなった原因に思い当たり、ついつい顔が歪む。
目の前にある書類のチェック印は、妙に力んだ始点が弧を描き、そこから嫌味なほど右斜め上に弓なりに反って長く伸びる線。ねちっこさがあると思ってしまうのは、書いた本人を思い浮かべてしまうからだ。
その特徴的な印を見ながら、過去の台帳を遡る。
先月、先々月、さらにその前と遡るが、半年前のものには逆に一つも見当たらなくなる。別人の筆跡に変わることで、最悪の予感が加速する。
半年前といったら、私が殿下の私財会計士に就任してすぐだ。
「どうしました、コレット?」
「あ、いえ……帳簿が気になって見ていました。それよりヴィンセント様、私に何か?」
「ええ、リヴァルタ渓谷橋の補修に関する経緯と、アルシュ侯爵領について基礎知識を叩き込んでおけと殿下からの指示です」
気づけば殿下とジェストさんたちは、執務室の方へ移動していた。残されているのは私と、背後に殿下が憑依しているかのようなヴィンセント様だけ。
「い、忙しい中、申し訳ありません……よろしくお願いします」
今はまだ午後のお茶の時間を迎える頃。明日までに出張の準備をして、目の前の書類を読み込まなくちゃならない。それから城下に……いや、せめてレリアナに手紙を出す時間を確保しなくてはならない。寝る時間、あるかな。
いや、自分で言い出したからには、やり切る。そう奮起してヴィンセント様に早速どうぞと促し、メモを取りはじめる。
ヴィンセント様の説明によると、アルシュ侯爵領は南部の高地にある、元々金鉱で栄えた領地なのだそう。フェアリス王国にとって要の土地であるがゆえに、侯爵がそこを治めている。初代アルシュ侯爵は、初代フェアリス王の従兄弟であったと伝えられ、建国の際に国王をよく支えた由緒正しい家柄なのだそう。何代か後に公爵家が出来るまでは、この国では事実上筆頭貴族家とされてきた。しかし代を重ねていくと、国王に連なる血筋はアルシュ家だけのものではなくなり、次第に他の侯爵家との違いは無くなっていったらしい。それと同時に、金鉱脈も尽きてゆく。そうなると山間部が多いアルシュ領は、収入を減らし衰退。各行政局に役職を得ることもなくなっていった。だが血筋にこだわる貴族家間では、いまだアルシュ家の発言には重きを置かれる。現王の息子であるラディス王子を推すということは、より古い因習を好み、保守的だろう。元は貴族とはいえ平民の身分にすぎない王子妃には、反発を抱くことは容易に予想される。では元は祖を同じとするベルゼ王国の血を引いていると分かれば考えを変えるかといえば、それほど簡単な問題でもなかった。軍部と繋がりのある領地は、ほぼ北部、つまりベルゼ王国と接する機会が多い者たちだったが、南部は馴染みがない。馴染みがないということは、先の戦争の記憶で印象が止まっているということでもある。
「アルシュ侯爵以下、更なる隆盛を期待する貴族家たちは、こぞって娘を殿下に差し出して来たわけです」
「女嫌いだと思って苦虫を噛んできたのに、どうしてどこの馬の骨とも知れない私が、ってことですか?」
「アルシュ侯爵家には、殿下と同じ歳頃のご令嬢がおられると、聞いていましたよね」
「ええ。私が婚約者になるくらいなら、せめてその方を殿下の妃にというのが、王子派貴族たちのご要望でしたよね?」
「ええ。侯爵令嬢を強く推すことを他の貴族たちも容認するのは、アルシュ家からの打診が以前から……殿下がまだ劣勢だった頃から頻繁にあったことを知っているからです。殿下の悪い噂に屈することなく、アルシュ侯爵家は最も殿下をお支えした……というのはまあ、建前ですが」
「建前? あ、もしかして財政状況が悪化しているし、今回のリヴァルタ橋の失敗があったせいで首が回らなくなったため、生き残りをかけたとかですか?」
そう問うと、ヴィンセント様が微笑む。ええと、ここはそのように微笑むところではない気もするのですが。
「コレットは話が早くて助かりますね、およそあなたの予想通りです。娘が王家に嫁ぐことになれば、負債による没落という不名誉を得ずに、アルシュ家は領地を王家直轄地として国に返還することが可能です」
「つまり、王妃の地位も得て、借金もチャラにしようと」
「ええ、どうしてそう強気に出られるのかと、いささか呆れるほどで。当然、王家がそのような都合のいい申し出に、首を縦に振るわけがありません。それにこの短期間で直轄地をこれ以上増やすのは、さすがに避けた方が良いでしょう」
「それでも、殿下は補修工事の件は引き受けたわけですよね? どうしてですか?」
かなり難工事になっていると、レリアナの指摘のみならず、イオニアスさんから借りた帳簿からも見て取れる。中途半端な調査で始めた工事の中断、資材の無駄、中断による人件費と景気後退で、雪だるま式に費用が嵩んでいる。
領民のために王家が助け船を出すといっても、事業そのものを引き受けるかなあ。
そんな感想を抱いていると、ヴィンセント様は驚くことを口にする。
「理由は二つあります。一つは、アルシュ侯爵家があなたを狙う本当の犯人であると考え、その尻尾を掴むために動いています」
「……私の、ため?」
「はい、あなたは殿下にとって、唯一無二なのですよ。だからあまり無茶はしないでくださいね。殿下は結局のところ、あなたの希望は叶えたいと決めているのですから……ご存知でしょう?」
私は今度こそ、しゅんと項垂れて「はい」と答えるしかなかった。
ヴィンセント様はそんな私に、「忘れないでくださいね」と言ってから続けた。
「もう一つは、機密事項です」
ん……? 嫌な予感。
「実は、宝冠がもうひとつ、この国にはあるのですよ」
は……宝冠?
宝冠って、あの、私たちを振り回した王の徴の、宝冠ですか?!
あんぐりと口を開けたままの私に、ヴィンセント様は咳払いをしながら「酷い顔ですね」と容赦ない。
「宝冠が存在するのは事実です。初代国王が、弟であるアルシュ侯爵に下賜しました。ただし、後にアルシュ侯爵自ら宝冠を隠してしまい、現在も行方不明だそうです」
「ずっと?」
「ええ、ずっとです。見つかったという知らせはありません」
私は少しだけほっとする。
またその宝冠のせいで、徴がどうのと騒ぎが巻き起こったらたまらない。しかし現実は無情だった。
「しかし宝冠らしき物の存在が、確認されました」
「……今、ですか? どこで?」
「アルシュ侯爵家……侯爵令嬢シュべレノア=アルシュが所持している可能性が高いようです」
「もしかして、それが理由で強気だった……とか?」
「とにかく、一度直接確認したい。そういった理由で、内部調査がしやすいよう事業を殿下が引き受けることになりました」
そんな重い理由が隠されていたとは。
とにかく、色んな理由が絡んでいることは理解できた。それなら私の役目は……
「ああ忘れてはいけませんよ、コレット。もちろん、リヴァルタ橋は放置できない問題です。領民たちの生活がかかっていますからね、しっかり帳簿の調査もお願いしますね。工事が上手く進まなかった理由も、崩落事故だけが原因とは考えづらいですから」
「……分かりました」
そうして話に夢中になっている間に、いつの間にか私とヴィンセント様を残して、誰も居なくなっていた。
「そういえば、ヴィンセント様は視察に同行されないんですか?」
「ええ、僕は留守番です。今はもう、殿下の側で剣を携えてついて回る必要もなくなりましたし、ここで待機して殿下が送ってくる無茶な要望に答える人間がいないと、困るでしょう?」
確かに、殿下の手駒はいまだ少ないままだ。近衛こそジェストさんが掌握してくれたからいいが、まだ軍部は再編すらできていないという。だから今回の崩落事故の救援には、近衛隊から人を出すことになったのだろう。
ヴィンセント様は軍部への顔利きは無理だろう。以前からよく出入りしていた行政局の方面では、大いに役に立つだろうけれども。
「ところで、その帳簿で何か気になることでもあったのですか?」
ヴィンセント様の問いに首をひねっていると。
「さっき、何か呟いていたでしょう?」
「ああ、あれは……」
私はまだ確証はないので、確かめてから報告するか判断しようと考えていた。しかし、そもそも私が殿下の元に来ることになった時の経緯を、彼は知っていたのを思い出す。
「実は、このリヴァルタ橋の帳簿をつけたと思われる会計士に、心当たりがあります」
「まさか、数字の書き写しを見ただけで、誰が書いたのか分かるのですか?」
「いいえ、曲がりなりにも会計士ですから、書類の文字は規範に則った表記を守っているので、普通ならば分かりません。でもここを見てください」
私はヴィンセント様に、業者からの納品書、発注書などの金額の横に入った印を見せた。
「帳簿に書き写す時に、漏れがないよう印を入れます。これだけは、会計士の個性が出る部分なんですよね。この書き方に、見覚えがあるんです」
「納品業者ではなく、リヴァルタ橋補修事業を管理している、アルシュ領側の人間ということですか。仲がいい友人なのですか?」
その問いに、つい顔をしかめてしまう。
「とんでもないです、親しいだなんて口が裂けても言いたくない人物ですよ。私の勘が正しければ、これを管理している会計士は、私の元上司です」
一瞬、ヴィンセント様は「はて?」という顔をするが、すぐにハッとした。
「ああ、思い出した。コレットを左遷させたと思い込んでいた、庶民納税課の課長?」
「はい、そのガレー課長です。でも絶対そうとは言い切れません。ですが、毎日ネチネチ文句言うくせに仕事を丸投げしてくるので、一年ほど嫌になるくらい毎日見ていましたから可能性は高いです」
「彼は確か、部署異動になったはずだが」
「非常にプライドだけは高い方だったので、よく考えてみたら降格異動に我慢できるとは思えません。恐らく、仕事で知り合った伝手でも使って、仕事を探したのではないでしょうか。その元上司の行方をレリアナに探してもらうよう、手紙を出すつもりです」
そう言うと、ヴィンセント様は少し考え込んで、首を横に振った。
「いえ、どうせなら確実にいきましょう」
「へ?」
「人捜しといえば、専門家がいるのをお忘れですか?」
あ……と気づく。
ダディスか!




