第三話 天才の行方
2025.1改稿
殿下が毒に倒れた翌日、以前はあれほど願っても叶えられなかった、仕事場の移動が実現することになった。
殿下の元に居ることで、明確に私が排除の対象になる。けれどもまだ私の出自は平民のまま下手に動かせない。ならば私の身を守るために出来ることはというと、王宮内で居場所を移すことしかないのだ。
でもだからといって、この場所はどうかと思う。
「コレットさん、なにか分からない所でもありましたか」
申し訳なさそうにそう訊ねてくるのは、財務会計局本院に所属する、殿下の公務担当会計士イオニアスさん。
私たちが机を付き合わせている場所は、会計局本院の最奥、会計局顧問をしているバギンズ子爵の執務室の中。部屋の主であるが、バギンズ子爵は留守中でもかまわないよと返事をいただいているらしく、こうして間借りしている。
「いえ、少し考え事をしていました。イオニアスさんも忙しいのに、付き合わせてしまってすみません」
「気になさらなくて大丈夫です。いずれ仕事の引き継ぎをすることになっていますから、早いか遅いかの違いでしかありません」
「え……イオニアスさん、仕事を辞められるんですか?!」
会計局本院は、エリートたちの集まりだ。貴族であっても成績優秀でないと採用されることはないと聞く。よほど大きな家系の当主でない限りは、生涯にわたって勤める者ばかり。バギンズ子爵がいい例だ。
だから驚いて聞き返すと、イオニアスさんは少しだけ固まってから、細い指で口元を隠した。
「失言でした、コレットさんはもうご存知かと思っておりましたので」
「どういうことですか?」
その様子からイオニアスさんの私的な理由でなく、私に関わることだと感じて問い詰めると、渋々ながら白状してくれた。
「殿下がご成婚なされた暁には、私が私財管理を任されることになりました」
「え……じゃあ、クビは私?」
まさかの事態に驚いていると、もういつものイオニアスさんらしく、私に白い目を向けてくる。
「なぜそういう発想になるのですか。あなたが王太子妃になるのですから、クビとかそれ以前の問題です」
「あ、そうでした」
考え事をしていたせいで、つい。
イオニアスさんは、そんな私に呆れた様子で続けた。
「王太子妃が管理するのは、ご自身の公私すべてにおいてです。それに加えて殿下の私財まで最初から全てを一人でこなすことは、不可能に近いでしょう。そのために、事務処理などの実務は誰かが引き受けねばなりません。そこらの貴族家の妻とは量が違いますからね」
「……は、はあ」
気の抜けた返事をしたのに、イオニアスさんが水を得た魚のように畳みかけてきた。
「幸いなことに、まだ公になっていませんから、これらの勉強を邪魔する輩はいないわけです。好都合じゃあいませんか、覚悟してくださいコレットさん。公務の財務処理の仕方を一から全て説明させていただきます」
「……あの、私にも抱えている仕事があって、ですね」
「城下で一番の学校を、主席で卒業したと聞いていますよ、この程度のこと余裕でしょう。まさか賄賂でも使いましたか」
「なっ……そんなことありえませんよ、勿体ない! 絶対に負けたくないライバルがいたので、これでも必死に勉強したんですよ」
とついムキになって反論してから、イオニアスさんの珍しく喜々とした顔を見て、失言を自覚する。
「では異論はないということで、説明を続けますのでそこの一番上の帳簿を開いてください。これは年次で決められた視察について……」
そうして午前中のほとんどを、イオニアスさんの講義を受けてぐったりと机に突っ伏す。一応、午後からは自分の仕事の時間をとってもらってある。
おかしい、おかしいよ。私は仕事場の仮移動としか聞いてなかったのに、すっかり騙された気分だ。
「まあまあ、元気出しなよ。ご飯持ってきたからさ」
薄笑いの声に顔を上げると、そこに居たのは護衛官の一人、エルさんだった。
彼はいい匂いのするバスケットを私が突っ伏していた机に置く。昨日の今日でダンちゃんを借りるのは絶対に嫌で、付き添いを変えてもらって彼になった。
エルさんはエル=ディアスという名の護衛で、彼らの中で一番若く、殿下よりも少し年上くらい。長い黒髪が目元まで垂れ下がり、後ろは無造作に束ねていてなんともやぼったい印象だ。それだけでなくゆったりとした袖の大きなジャケットを羽織っていて、華奢で背も高くないからとても護衛という印象ではない。けれども殿下から聞いたところによると、彼は暗器使いで、気配を殺して忍び寄り、標的の排除が得意だそう。なので不用意に彼に触らないようにと注意されている。加えて特徴のない顔つきで集団の中にすっと入り込み、自然と会話に加わるのにも長けているらしく、密偵のようなこともできるのだとか。
「必要だって分かるけど、なんだか嵌められたような気がして釈然としないです」
「ははは、そりゃそうだけど、殿下はコレットに出来ないと思ったら、こういう形ではさせないでしょう。なんだかんだと信頼されているんだよ、きみの能力が」
彼はダンちゃんやハルさんと違って、口が立つ。目が隠されているから本当のところは分からないけども、和やかな口元と繰り出される言葉使い、愛嬌のあるソバカスと威圧感を感じさせない体格もあって、いとも簡単に人を絆す。
「エルさんは、本当におだてるのが上手いですよね」
そう言いながらエルさんが持ってきてくれた包みを広げて、昼食をとる。
好物の燻製肉入りバケットサンドを頬張りながら、改めて自分の居る部屋をぐるりと見回す。部屋の主は貴族位こそ低い子爵だけども、財務会計局の顧問。顧問というと局長引退後の後進相手の相談役という印象だが、実質はかなり影響力を保持しているのだろう。陛下の師であるというのも強いが、バギンズ子爵本人の才覚によるものだろう。会計士という仕事をする者、目指す者に彼の名を知らない者はいない。
そんなバギンズ子爵の部屋は、とても心地よい。木目の残る素朴な書棚がぐるりと壁を覆い、大きな執務机が中央にいくつか並べられている。子爵自身の机はその最奥にあるが、とても整理されていて、誰が資料を探しに来ても一目瞭然。もちろんインテリアの材質は最高級で、殿下の部屋に届かないまでも立派なものだ。
そんな部屋に気後れしないでいられるようになった自分に、改めて驚く。これも王宮に慣れて来た証拠だろうか。殿下とここで十年ぶりに再会する前だったら、ありえないことだろう。そんな私が、いずれ王太子妃とは。
今でももちろん、逃げられるものなら逃げてしまおうかと思わなくもない。爵位を返上して平民として育った私が殿下の妃に相応しくないのは、自分が一番よく知っているもの。だから殿下がどんなに望んだとしても、周囲から反対されるだろうと思っていたし、国を揺るがすほどの問題になりそうならいつでも退くつもりでいた。
なのに。
どうしてか、殿下の周囲からはどこからも反対の声がない。
両陛下はもちろんだが、殿下を最も支えるトレーゼ侯爵や、側近のヴィンセント様も反対するどころか懸念する様子も聞かない。もちろん、まだ公にすらなっていない未定の状態だし、あえて私の耳に入らないようにしていてくれるのかもしれないけれど。
だから私も、確かに油断していた。殿下だけじゃない。
「あ、おかえりなさいイオニアスさん、もう食事を終えたんですか?」
「もちろんです、コレットさんは気にせず休憩なさっていてください」
食堂へ行ったはずのイオニアスさんが、あっという間に戻ってきたと思ったら、当たり前のように自分の仕事を持ち込んでいる。仕事人間の見本のような人だ。
「イオニアスさんのような優秀な人にそこまで努力されたら、かえって仕事が増えて周りが大変ですよ、ねぇ、エルさん」
暗に共通の殿下を揶揄して、エルさんに視線を向けるのだけれども、彼の口元には変わらない微笑みが浮かんだまま変化なし。
けれどもイオニアスさんの方は、なぜか不満そうだ。
「僕は優秀と称される程の能力は持っていません、それが分かっているから、努力するしかないのです。身近に、生まれ持っての天才がいたので」
「身近……?」
「ええ、弟がまさに天才でした。後ろから追い立てられるのは、諦めていても辛いものがありました」
「イオニアスさんに弟さんがいらっしゃったなんて初耳です。じゃあ弟さんも会計局に?」
「いいえ、彼は四年前に失踪しましたので、今はもう、生きているのかどうかも分かりません」
衝撃の事実に、私はどう反応していいのやら分からず固まっていると。
「三歳下の腹違いの弟です、何を考えているのやら。学校を卒業するまで待てと言ったのですが、学校に入って一年もしないうちに、ある日突然家出をしてしまいました」
「ええと、三歳年下ということは、私と同じ歳くらいですか。学校って貴族院の?」
「はい、我が家は下位とはいえ子爵位をいただいていますので。父は建築設計局に在籍しております、その跡を継げるほど優秀だったのですが」
それはかなり優秀だということだ。会計士とは違い、設計は特殊な計算や膨大な知識が必要になる。実際、弟さんはかなり優秀だったらしい。文字を覚えるのもとても早く、学校に入学する前から、父親と祖父から高等教育を施されていたとのこと。そのぶん自由がなくて、元々活発だったため、弟さんはよく反発していたという。
「弟が行方不明になって、父と、特に祖父は酷く失望していましたが、私は逆に安堵しています」
「どうしてですか? 行方不明では心配ですよね」
「ティル……弟が、バルナ子爵家を継いでくれると信じて僕は会計士になりましたが、重責を彼に負わせ家に縛り付けたことを、兄として申し訳なく思っていましたので。心配ではあるけれど、あの父と祖父からのしごきに負けず、常に毒づき反発できる逞しい弟のことです、きっとうまくやっているに違いありません」
そう微笑むイオニアスさんは、しっかりとお兄さんの顔だった
「なるほど……うん、そうですよね。私も同じく天才肌の、とんでもない才能を見せつけられたことがるので、イオニアスさんの気持ちはちょっとだけ分かります。彼もまた、狭い価値観のなかで、苦しんでいた気がしますから」
「天才肌の、同級生ですか」
私はしばらく思い出すこともなかった、かつての憎らしいライバルの顔を思い浮かべて、ついつい顔をしかめてしまう。
「本っっ当に、天才で、でも嫌味な奴だったんですよ!」
「でもコレットさんは首席で卒業したと聞いています」
「まあ、最後だけは。でも在学中はリュシアン……同級生はリュシアン=シェリーという人ですが、私は彼に負け越しているんです。あいつが勝つと『どうせ君は凡ミスで失点したんでしょ、注意散漫だからね』ってわざわざ言いに来るんですよ!」
その愚痴に、イオニアスさんは珍しく目を丸くして聞いている。
「でも卒業試験はなぜか欠席で……結局、不戦勝で私が首席。本当に、最後まで身勝手で憎らしい奴でした」
「そういう所は、弟と似ていて不思議です。天才って、どうしてこう捉えどころがないというか」
イオニアスさんは、そう言うとどこか寂しそうに笑った。
「弟さんは、ティル=バルナさんっていうんですか? きっとリュシアンとは似ても似つかないですよ。イオニアスさんのサラサラ黒髪とはまるで違うし、むしろ頭がもこもこしてて、こっそりペンを髪に刺したら、そのまま落ちてきませんでした!」
あれ? なぜだかイオニアスさんがそこで驚いたように立ち上がった。
「コレットさん、その人は……どういう容姿をしていましたか?」
「え……あの、背が高くて、淡い水色の瞳で、茶色い髪のすごいくせ毛で……」
イオニアスさんが考え込む。
まさか、ね。私は乾いた笑いを浮かべていると、イオニアスさんが小さく首を横に振る。
「少し似ているようですが、他人の空似でしょう」
「はは、ですよね。まさかイオニアスさんの弟さんが、名前を変えて平民の通う学校に潜り込んでいて、私の同級生だったなんて、さすがにありえませんよ」
「ええ、そうですよね」
そんな偶然あるはずがないと続けようとしたところで、横からエルさんが。
「コレットがありえないを言う?」
で、……ですよねぇええ?!
当事者である私はもちろん、ずっと殿下の護衛として側にいたエルさんは、全てを知っている。そして殿下の公費会計士であるイオニアスさんは、ここで私に付き合っているということでざっくりいきさつは聞かされている。
三者三様に「ふう」と息をつく。
「それで、その同級生の方は、今どこで何をされているのですか?」
気を取り直して、イオニアスさんがそう訊ねてくるのは当然だろう。
だが私は神妙に首を横に振る。
「それが、卒業直前の試験を受けなかったばかりか、学校に来なくなってしまって。だからこそ私が主席で卒業できたんです。それまでの二年間、悔しいこともたくさんあったけれど、唯一無二のライバルなのに、お別れすらできませんでした」
「それじゃ、誰か仲が良かった人は?」
「分かりません……自分のことを喋っているのを聞いたことがなかったし、私もあまり人の事を詮索できない立場だったから」
「そうですか……」
肩を落とすイオニアスさん。これまでずっと、心配していたに違いない。
「リュシアンのことで何か知っている人がいないか、元同級生に聞いてみますね。いい機会だから」
「いえ、そこまでには及びません。ただの他人の空似ですよ。そのリュシアンさんも、元気にしているといいですね。良くない人の中にいなければいいのですが……」
私はかつてのライバルの顔を思い出す。
いつも飄々としたリュシアン。彼に負けた時は、それは悔しくて次こそはと頑張ったことが昨日のように思い出される。あまり必死に勉強している様子が見られない彼は、自分とは違って天才なのだと、心のどこかで負けを認めていた。
だけど彼は何をするにでも嫌味を言うことを忘れず、私以上に敵を作ってばかりだった。あの頃は気づかなかったけれど、彼もまた何かを抱えていたのかもしれない。
まあリュシアンはいいとして、イオニアスさんの弟さんの方は、家出しちゃって今なにをしているのか。
とはいえイオニアスさんも、それ以上は口を噤んでしまった。
何か、話してくれた以外にも、複雑な事情があるのかもしれない。
しかし微妙な空気になったところで、突如部屋に入ってきた人物に、私たちは驚いて振り向く。
「おや……お邪魔したかの?」
いえ、ここは貴方の部屋ですから、バギンズ子爵。おかえりなさい。
 




